【注意】
メリーバッドエンド
歪んだ愛、暴力表現、陰鬱
パロディ※、ファンタジー
苦手な方は自衛してください
「名前、大丈夫?」
まぶたを開けると美しい夜空が広がっていた。中心には研磨がいて、心配そうにわたしを見下ろしている。
ゆっくり身体を起こして腕をさすると、肌にアスファルトの跡がついていた。ぽつんと佇む街灯がひとつ。ひと気のない旧道の真ん中で、どうやらわたしは倒れていたらしい。
ひどい頭痛がする。辺りを見回すと、傍らに見知らぬ男が倒れていた。男の首元から流れた血が、白いシャツを赤く染めている。いったい何が起こったのか。「間に合ってよかった」と研磨は言う。
「おれが来なかったら死んでたよ」
頭を打ったのだろうか。何も思い出せない。でも、ずっと誰かに尾けられているような気がしていた。わたしは夜道を襲われて、研磨に助けられたのか。
「ありがとう……」
声が枯れていた。差し出された手を掴んで立ち上がる。
「帰ろう」
秋の夜長。月明かりに照らされた研磨の髪は金色にきらめいて、とてもきれい。
ノスフェラトゥ
わたしは朝起きると、アップルパイを作る。
いつだったか研磨がおいしいと言ってくれたのがうれしくて、それから日課になった。
生地をななめに編んでフィリングを包むと、気持ちが落ち着く。
焼き上がると二人で食べる。古い一軒家の、シンクの上で。ぽろぽろこぼす。
朝の八時からスーパーのアルバイトに行かなければならない日。そういう日は時間がないので一緒に食べられない。
帰ってきて、アップルパイが減っていると安心する。研磨はちょっと痩せすぎだと思う。
今日、新人が入ってきた。わたしより三つ年下の男の子で、明るくてとてもいい子。
はじめまして、と言ったらきょとんとされた。訊けば、先週わたしから制服を受け取ったという。
品出しのやり方を教えていると、「ここどうしたんですか?」と首筋を指してくるので、適当に言葉を濁す。
わたしは髪が長いので、アルバイト中は束ねなければならない。まさかそのまま美容室にも行けないので、その日、自分で髪を切った。
シャワーを浴びて浴室を出ると、研磨が「いいね」と髪を撫でてくれる。「研磨のせいだよ」と拗ねてみると、ふふ、と笑みをこぼしたくちびるが首筋にふれる。
研磨のためなら、わたしは髪を切ることだって厭わない。
朝、アップルパイを焼く。アルバイトは午後からなのでゆっくり焼く。
研磨は朝ともいえない時間に起きてきて、二人で並んでアップルパイを食べた。シンクの上で。ぽろぽろこぼす。
新人の
帰って、なんとはなしに研磨に話してみる。某くんの一本気なところを笑い話にしようと思ったら、そのタイミングでメッセージが届く。枕もとで光るスマホに話題の名前を認めると、研磨はちょっと不機嫌になって、わたしの腕をベッドに縫いつけた。
ごめん、と言ってみる。いじらしくて笑ってしまう。自分でもそう思ったのか、研磨もふふっと笑みを浮かべて、でもそのままわたしを抱いた。
朝、うす暗い部屋のなかで目を覚ます。
布団から手を伸ばして窓を開けると、湿り気を帯びた冷たい空気がすべりこんでくる。雨樋を流れる水の音。濡れた土の匂い。
ぼんやり外を眺めていると肌寒くなって、スリップの上にカーディガンを羽織った。その上から抱きしめられて、わたしは研磨が起きたことを知る。
「おはよう」
「ん……」
寝惚けた研磨の腕をさすってあげる。研磨は下着しか身につけていない。
「なに考えてたの」
くぐもった声。わたしは「なにも」と答えてから少し考えて、「テトリスみたい」と言った。
「……どういうこと?」
「ほら、ここ、テトリスみたい」
濡れた網戸を指でなぞる。雨水の膜がはって、上下左右にぷちぷちと繋がっている。
「一番長く勤めてた人、今月で辞めちゃうんだって」
考えていたことのひとつを打ち明けてみる。ぽつりと。うん、と研磨が相槌をうつ。
「知らなくて、驚いたの。そしたら三ヶ月前にお知らせしたじゃないって。わたし以外みんな知ってた」
テトリスの、ぽっかりと空いた隙間。
「それに、一週間前に会話した人の顔を忘れることなんてあるのかな。でも、わたしから制服を受け取ったって言うの。おかしいよね。やっぱりわたし、ところどころ記憶が──」
ぴんっ
と、網戸を弾く指。雨水の膜が消滅する。
「──解離性健忘。自己防衛のひとつだよ」
あんなに怖い目に遭ったんだから、別になにもおかしいことじゃない。と言う、研磨の指先。濡れた爪の、光る雨粒。
タイムカードを切ってから、リンゴを五、六個買う。
新人の某くんに「うさぎでも飼ってるんですか?」と訊かれる。わたしは、わたしがいないと寂しくて死んでしまう研磨や、やきもちを焼いて足ダンする研磨を思い浮かべてみる。ちょっとおもしろいけど、首を振る。
「よかったら、持ちますよ」
今朝、空っぽになった砂糖まで買ってしまったので、甘えることにした。でも、途中の公園までにしてもらおうと思う。彼はとてもいい人だけど、誰かに夜道を尾けられる可能性はひとつでもなくしておきたい。
途中、水田の横でタガメを見つけた。
某くんは少年のように興奮して、うす暗い用水路をスマホのライトで照らした。あんまりはしゃいでリンゴを落としてしまわないか心配になりながら、わたしも用水路を覗く。
「うわ、すげー」
タガメは小魚を捕食している最中だった。じっと動かない地味な食事風景を、でも某くんは感心したように見入っている。
「これ、ほんとに食べてるの?」
「はい。獲物の体液を吸いとってるんですよ」
「へぇー」
某くんの気が済むまで、わたしはその食物連鎖をぼーっと眺めた。
「今朝急に寒くなったんで、これから慌てて冬眠するんでしょうね」
小魚のぎょろっとした目。
わたしはなぜだか泣きたくなってくる。
真っ暗な一軒家に帰宅して電気をつけると、廊下に研磨が立っていた。
びっくりした。悲鳴が喉まで出かかった。
「散歩、楽しかった?」
ごろごろ転がるリンゴを、研磨が拾う。
わたしは言葉の接ぎ穂を見失って、狼狽える。
「研磨、怒ってるの……?」
「ううん。ただ、そこの公園まで送ってもらうなんて、周到だなあって思っただけ」
「ち、違うよ。わたし、今度はちゃんと自分を守らなきゃって、ちゃんと警戒して、まだよく知らない人だし──」
「まだ?」
研磨は鼻で笑って、胡乱な目つきでわたしを見る。なにも、言えなくなる。ばらばらと崩壊する予感。意識が遠のいて、後ろに倒れてしまいそう。
「まぁ、勝手にしなよ」
そう言い残して、研磨は廊下の向こうに消えた。今はなにを言っても言い訳にしか聞こえないのがもどかしい。
朝起きて、アップルパイを作る。焼く。捨てる。それであくる朝、アップルパイを作る。焼く。捨てる。作る。焼く。捨てる。もう何度目かわからない。
研磨はずっと部屋から出てこない。研磨の部屋に入ることは禁止されていて、その約束を今この状況で破る勇気もない。
一人でアップルパイを食べる。シンクの上で。ぽろぽろこぼす。味がしない。美味しくない。まずい。捨てる。全部捨てる。
スーパーの掃き掃除をしていると、ふと、新しい貼り紙に目が留まる。白いお皿の上に乗ったアップルパイ。幾何学的な、上品な模様。
「近くにオープンしたカフェの名物らしいですよ」
いつの間にか後ろに立っていた某くんが、とってつけたように言う。
「もしよかったら、今度一緒に行きません?」
研磨は、わたしと一緒に行ってくれるだろうか。
その夜、雨が降った。扉越しに誘ってみたけど、研磨はやっぱり行かないと言う。わかりきっていた答えだった。
一人で横になって窓を開けると、湿り気を帯びた冷たい空気がすべりこんでくる。
糸のように細い、静かな雨。雨樋を流れる水の音。濡れた土の匂い。用水路のタガメと、死にゆく魚の虚ろな目。
わたしは網戸をなぞってテトリスをする。上の方から水滴を運んで、ぽっかり空いた隙間を埋める。その瞬間に膜が決壊して、なにもかも巻き込んで流れ落ちる。
研磨と喧嘩してからずっと、頭が痛い。
今日、某くんとカフェに行った。
休日も布団に包まったままずっと横になっているので、すっかり痩せて
でも、ナイフとフォークを使って食べるアップルパイはちっとも美味しくなかった。
シンクの上で食べるアップルパイの香りを思い出す。二人並んでぽろぽろこぼす、あの甘酸っぱい危うさ。気怠さ。舌触り。
帰る。と言うと、目の前の救世主は困ったように笑う。
帰り道の夕焼けはきれいだった。でも、わたしはそれよりも用水路でタガメを探すのに夢中になった。
某くんは文句も言わず、探すふりをして付き合ってくれる。
あれからすっかり寒くなってしまったので、もういないのかもしれなかった。でも、しばらくそうして用水路をじっと見つめた。
真っ暗になってようやく気が済んだ。公園まで送ってもらう。
夜の公園は悲しいほど静か。暗闇にじっと佇む古い遊具や街路灯。涼しげな虫の音。
ちょっと話そうと言われて、わたしはブランコに座った。某くんも隣に座って、少し揺られる。
「僕、名前さんのことが好きです」
某くんの瞳に映るわたしは、まるで他人事のような顔をしながら、殊勝な人だなぁなどと考えている。
わたしが研磨と同棲していることを、某くんは知っている。でも、わたしは幸せそうに見えないらしい。だから僕が幸せにしたいと言う。
わたしは、幸せについて考えてみる。いま某くんの手をとれば、わたしはたぶん愛される。でも、わたしの幸も不幸もぜんぶ研磨のなかにある気がした。
ごめんね。と言うと、某くんは首を振る。
「辛くなったら、いつでも迎えにいきますから」
返事の代わりに微笑むと、某くんは「何か飲み物買ってきます」と言って立ち上がった。
公園の入口を出たところに自販機があった気がする。小走りで駆けて行った某くんを見送って、姿が見えなくなると、わたしはブランコを少し漕いだ。
帰ったら、もう一度研磨に謝ろうと思った。わたしがぼーっとしているせいで、結局研磨が危惧していた通りの展開になってしまった。
でも、わたしはちゃんと断ったし、研磨の家に帰る。大丈夫。どこにも行かないよって、安心させてあげたい。
帰ろう。某くんが戻ってきたらすぐに帰ろう。そう心に決めた。
少し風が吹いてきた。わたしはひとりぼっちで、公園を囲むようにそびえ立つ木々のざわめきがやけに大きく感じられた。
ふと、顔を上げる。けっこう時間が経ったような気がするのに、某くんの姿はまだ見えない。
しんと静まりかえる公園。ひゅうっと通り抜ける風の音。入口の向こうには暗闇が広がっていて、じっと見つめているうちに、じわじわ不安が押し寄せてくる。
どくん、と心臓が脈を打つ。ブランコの鎖を握る手に汗が滲む。まさか、と思う。わたしは息をひそめて、地面に足をついて立ち上がった。一歩一歩、音を立てないように歩く。じくじく、頭が痛くなってくる。
やがて、自販機からこぼれる光がぼんやりと見えてくる。近づくと、誰かが倒れていた。
──某くんだ。首元から流れた血が彼の服を赤く染め、自販機にまで飛び散っている。
突然、目をえぐられるような頭痛に襲われ、いつかの光景がフラッシュバックする。
美しい夜空。横たわる男。赤く染まった白いシャツ。金色にきらめく、研磨の髪。
わたしは口元を押さえてぶるぶると震えて、嘔吐した。そして、我にかえって、通報しなきゃ、とポケットを探る。けど、スマホが見当たらない。ブランコのそばに置き去りにした鞄。そのなかに置いてきてしまったのだ。青ざめて、逃げるように踵を返す。
走り出してすぐ、違和感に気づく。ブランコに誰かが座っている。わたしは戦慄して、でもすぐに、それが研磨だと気づいた。
「間に合ってよかった」と研磨は言う。
「おれが来なかったら死んでたよ」
キィ、とブランコが風で揺れる。わたしは立ち尽くし、微笑みながら近づいてくる研磨から目を逸らせない。
「今度はちゃんと断れて偉かったね。でも飲み物をもらおうとするなんて、薬でも盛られたらどうするの?」
困ったように、呆れたように、研磨は肩をすくめた。ちがう。ちがう。某くんはそんなことしない。どうしてそんなこと言うの? どうして研磨はここにいるの? 某くんは死んでしまったの?
研磨はまるで何事もなかったかのように、「帰ろう」と言う。いったいなにを信じたらいいのか。わたしは疑心暗鬼になって、錯乱して、弾かれたように走り出した。
公園を囲む木々を掻き分ける。朽木や落ち葉を踏みしめて、鬱蒼とした暗い森のなかを走る。ズキンと頭が痛むたびに、閉じ込められていた記憶が溢れそうになる。
はやく、はやく見つけなきゃ。わたしは無我夢中で走って、森を抜けて、ひっそりと佇む研磨の──わたしたちの家に飛び込んだ。もつれそうな足で廊下を進み、嗚咽を漏らしながら、震えながら、禁じられた部屋の扉を開ける。
その部屋には、わたしと並んで品出しをしている某くんの写真や、白いシャツを着た男と幸せそうに笑い合っているわたしの写真が貼り付けられていた。
──その瞬間、わたしは全ての記憶を取り戻した。
あの美しい夜空の下、傍らに横たわっていたあの男は、わたしの恋人だ。
愕然と、その場に崩れ落ちる。混乱。抱えきれない。現実、信じ難い記憶。
研磨、あなたはいったい誰なの? わたしはこれまで何度もあなたに救われて、何度もこの家に帰ってきた。まるでずっと側にいたかのように錯覚していた。わたしは、わたしはいったい──
「名前」
振り返ると、すぐ後ろに研磨が立っていた。ひっ、と息を呑むわたしの首筋にそっと触れる。
「逃げてもいいよ」
耳元で囁いて、愛おしそうに傷痕を撫でる。ずっと前からある、消えない傷痕。
うす暗い部屋の窓から、青白い月の光が差し込んでくる。月明かりに照らされた研磨の髪は金色にきらめいて、とてもきれい。
「きっとまたすぐに見つけ出してあげる」
──逃げなくちゃ。それなのに、切なく細められた研磨の眼差しに、わたしは揺れる。
二人で食べたアップルパイの香り。髪をすく冷たい指先、シーツに残る体温。
研磨はこれから、わたしとの思い出を抱えて一人で生きていくのだろうか。それとも寂しくて死んでしまうのだろうか。
儚くて、いまにも消えてしまいそうで、この手を離したら、もう二度と会えないような気がしてくる。
わたしは目を閉じる。某くんや恋人の顔を思い浮かべる。そして身勝手なごめんねと、さよならを告げる。たぶん、わたしはまたあなた達を忘れてしまうだろう。
研磨のくちびるが首筋にふれる。わたしがそれを受け入れると、傷痕に噛みついた歯が、舌が、こぼれる血を吸いあげる。
泣いているような気がした。
大丈夫。どこにも行かないよ。
腕を回して抱きしめる。
研磨、わたしの全部をあなたにあげる。
end
Happy Birthday! & Happy Halloween!
※吸血鬼パロディ
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