※ネームレス
※エセ関西弁
兵庫県にある祖母の家に到着するなり、おつかいを頼まれた。まったく人使いが荒いんだから。買い物メモを片手にショッピングカートを押しながら、目当てのものをどんどんカゴに放り込んでいく。
最後は大物だ。頭上に掲げられた米≠ニいうシンメトリーに従って直進すると、お米売り場が見えてきた。
「高いなぁ……世も末だわ」
ぶつぶつ文句をたれながら一番安い白米に手を伸ばしたとき、ふと隣のPOP広告に目が留まった。
私が作りました≠ニいう見出しの下には青空が広がっていて、陽の光をたっぷり浴びて育った稲のお辞儀に囲まれた男が、黄金の稲を束ねて微笑んでいる。
わたしはぽかんとして、しばらくその生産者と見つめ合った。
──イ、イケメンすぎる……!
つまり見惚れてしまって、こんな好青年が米農家だなんてまだまだ世の中捨てたもんじゃないなと手のひら返しで、彼が手がけたブランド米へシフトした。
五キロの豊満な袋を持ち上げると、ずっしりとした重みが伝わってくる。八十八の手間ひまをかけた彼の血と汗と涙の結晶がここに詰まっているのだと思うと、これを担いで帰る労力や、いや増す出費も苦にならない。
広告戦略にまんまと引っかかっている自覚はある。自覚がありながら飛びついたのでむしろ本望だ。
カートの下に乗せた米は少しバランスが悪く、大きな隙間からはみ出して今にもずり落ちてしまいそう。気をつけて運ばなければ。
前に向き直り、もういちど生産者のご尊顔を拝む。何度見てもイケメン。目の保養だ。地元農家の北信介さん、ひょっとしたら同い年くらいだろうか。
ぼーっと見惚れながらカートを押し歩く。
と、急に車輪が重くなる。なにかが挟まったらしい。見ると、やっぱり米がずり落ちてしまって、袋の端っこが巻き込まれていた。
たったいま注意を払ったばかりなのに三歩で忘れた自分が恥ずかしくなり、わたしは身を隠すようにしゃがんで、まず車輪と袋を引き離した。
そして、やれやれと米袋を持ち上げた──その瞬間、滝が流れ落ちるような音が轟々と響き渡った。ザァーッ。両手に抱えた袋がみるみる軽くなっていく。
なにが起こったのか、最初は全くわからなかった。ただ、米びつに移すときに目にする光景が、なぜかセラミックタイルの床一面に広がっている。
通りすぎる買い物客の視線をひしひしと感じながら、わたしはどこかぼんやりとした気持ちで
さっきまで見つめ合っていたせいか、ひどく動揺することなく冷静に見つめ返すことができた。情報処理が追いつかず、わたしは混乱している。そこには本物の彼──北信介が立っていた。
「あら、大変……!」
真っ先に口を開いたおばさまが駆けてきて、おろおろと両手を彷徨わせた。
「すぐにほうきかちりとりか、掃除機を持ってきますから──」
立ち去ろうとする背中。考えるよりも先に、口をついて出る。
「た、食べます……っ!!」
スーパーに響き渡る宣誓。しんと静まりかえる。
「食べます……! ので、大丈夫です。ご迷惑、すみません、でも無駄にはしません。食べます。ちゃんと買います。掃除機はお構いなく、あ、でもほうきとちりとりは貸していただけますか……」
あとレジ袋も、と図々しく付け足して、わたしはようやく体温を取り戻した。彼の顔は見れなかった。
わたしはしゃがんで、ほとんど空になった米袋を圧縮して丸めた。見ると、大きな穴が空いていて、車輪に引っかかったときに裂けてしまったらしかった。
ああ、なんてことを。意識がはっきりしてくると、羞恥心よりも罪悪感が押し寄せてくる。米農家の目の前で精米をぶちまけてしまうだなんて、冒涜に等しい。ひと粒残らずかき集めなくては。
山の上からすくったきれいな米を袋に戻すと、うつむくわたしの頭上から、落ち着いた声が降ってくる。
「スーパーの床はさすがに汚いんとちゃう」
どこか威厳のある、やさしい声だった。
「やってもうたなあ」という穏やかな空気をまとってわたしの隣にしゃがんだのは、生産者の北信介さんだった。
「でも、お米には七人の神様が……」
「なんや、ばあちゃんみたいなこと言うんやな」
「目がつぶれますし……」
「ばあちゃんやん」
「わたしのおばあちゃん、認知症なんです」
自分の茶碗に米粒が残ってるとわたしのせいにしてくるし、さっきなんて久々に再会した孫に向かってちょっとおつかい頼んでええやろか
北信介さんは「ははっ」と吹き出した。
「そら難儀やなぁ」
わたしはようやく顔をあげることができた。
屈託なく笑うほがらかな笑顔に、許されたような気がしたし、心を奪われてしまった。
「さっき言うたのは建前や」
北信介さんは内緒話をするように楽しげに、そして慈しむような手つきで米をすくいあげた。
「俺も、絶対食う」
彼の手からすべり落ちた米には、誰のかわからない髪の毛やほこりが混ざっている。
そして挑戦的な眼差しで、こう言った。
「どや、秘伝の技でも教えましょうか」
北さんが運転する軽トラに揺られて数十分、彼の自宅が見えてきた。
古き良き日本家屋の一軒家で、突然の訪問にもかかわらず、同居しているおばあさんはわたしをあたたかく迎えてくれた。
「ちょっと待っとってな」
言われるまま縁側に腰を下ろすと、北さんはわたしの隣に大きなざるとボウルをごろんと置いて、奥から引っ張り出してきた石油ストーブに火をつけた。上にはやかんが置いてある。
「まず、大きいのだけ先に取り除く」
小脇に抱えてきたチラシに折り目をつけ、真っ白な裏面に汚れた白米を広げた。
ぱきんと割り箸を割って、二人で黙々とほこりを取り除く。
途中、ピーッとやかんが鳴って、湯呑みにお茶を淹れてくれた。ほうっと吐く息と湯気が白く立ち昇っていく。
「ふるって、細かいのを落とす」
北さんは踏み石に置かれたサンダルを履いて庭に出ると、ざるに米をあけて丸く揺すった。
ざらざらと楽器のように音が鳴る。石油ストーブとあたたかいお茶でじんわりとあたたまった肌をすべる冬の風が心地よくて、わたしは波の音に耳を澄ますようにまぶたを閉じかけた。
「風の強さもちょうどええな」
ざるの上に残った米を胸の高さから落とすと、ぱらぱらと雪のように、地面に置かれたボウルのなかに積もっていく。
真っ直ぐ落ちる米は重く、軽いごみは風に飛ばされていくらしい。
繰り返される動作はまるで巫女さんの舞のようで、わたしはぼーっと見惚れていた。
「最後は人工の風で、仕上げや」
北さんが差し出すうちわには、地元の花火大会の案内がプリントされている。数年前の日付が刻まれて、わずかに変色している。
扇風機の青い羽根がからからと回る音にもたれながら、わたしはゆったりとうちわを扇いだ。暇を持て余した夏休みのような、のどかな時間が流れている。
「どこが秘伝の技やねん=v
「──えっ」
「図星や」
「いえ、そんな……はい、ちょっと」
素直でよろしい、と頷く北さんは、でもどこか嬉しそうだった。
「地味でも地道にちゃんとやる。それが稲作の基本で、秘訣なんや」
清々しいほどに真剣な熱い眼差しはわたしを素通りして、チラシの裏に広げられた白米に注がれている。そのまま炊けてしまいそう。至れり尽くせり。
甲斐甲斐しくお世話されている米に嫉妬するのが馬鹿馬鹿しくなりまぶたを閉じると、ちりんと風鈴の音が聴こえた。何処からか蝉の声も聴こえてくる。
夏の音はやがて大きくわたしを包み込んだ。
「──信ちゃん」
お盆に乗せた麦茶グラスが汗をかき、からんと氷が溶ける。
「信ちゃん、おつかれさま」
縁側に座って庭を眺める背中に声をかけると、信ちゃんは振り返り、首にかけたタオルで汗を拭った。
「おお、ありがとう」
「今日は暑いですね」
「せやなあ」
麦茶を渡すと、信ちゃんは喉を鳴らして一気に飲み干してしまう。わたしもこくりと喉を鳴らして、汗を拭った。
「こうしてここに座っとると、思い出すなあ」
「なにをです?」
「どっかの誰かさんが床にぶちまけた米をきれいにしたときのこと」
「もう、その話はよしてくださいよ」
ふてくされると、信ちゃんは「ははっ」と吹き出した。屈託なく笑うほがらかな笑顔。
「懐かしいなあ」
ふと、信ちゃんの手がわたしの髪をすくった。慈しむように米に触れた、あの日と同じ手つきで。
「信ちゃん、前髪が」
汗で、シンメトリーな前髪が張りついている。彼の前髪が乱れているのを見ると、わたしの胸は不思議とざわめく。
わたしは信ちゃんの前髪をすくって、おでこをうちわで扇いだ。すぐそばで回る扇風機がからからと音を立てている。青い羽根。愛おしい富士額に、汗が伝う。
夏の終わりが近づくと、田畑の稲穂はふっくらと垂れ下がり、黄金に色付く。
やがて信ちゃんは両手いっぱいに稲を束ねてこの家に帰ってくる。作業着には炊きたてのごはんのような、むんと鼻をつく甘い匂いが染みついている。
「なんだかプロポーズみたい」わたしが受け取ると、「色気なくてすまんなあ」と健やかに笑う。
雄大な自然の優しさと厳しさを知り尽くし、ともに生きている彼からの贈りものは何ものにも代え難く、ゆえに、この世で一番贅沢で美しい。
「ううん、幸せ」
どうか来年も豊かに実りますように。
「あんまり近づいて火傷せんように」
──ハッと目を覚ますと、ちょうど北さんがストーブの火を消したところだった。
傍らにはいつの間にか米袋が置かれていて、それは頑丈な紙袋に取り替えられていた。
「す、すみません。わたし寝てました……?」
「別にええよ、ええもん見れたし」
ふっと微笑む眼差しに不安を覚えて、「ええもん……?」と恐る恐る訊ねると、
「よだれ」
「えっ、うそ!?」
「うそ」
慌てて口元を拭うわたしを見て、北さんはからからと笑った。
「でも食べます≠ト言うてくれたんは、ほんまに嬉しかったわ」
ありがとう。北さんは首に巻いたタオルをほどいて、頭を下げた。風が吹くと、彼の前髪がさらりと揺れる。
目を逸らすようにわたしも慌てて頭を下げると、北さんは「いつもより四、五回多めに研いで食うたらええよ」と言って、胸元のポケットから名刺を取り出した。
「もしよかったら、感想聞かせてください」
励みになります、とPOP広告のように爽やかに笑う彼の真意が掴めない。
車のキーをポケットで鳴らし、「もう遅いし、そろそろ送らんと」と立ち上がる横顔をちらっと盗み見ても、そこにはちゃんと真っ直ぐ生きてきた好青年の顔があるだけだった。
そんなん美味しいに決まっとるやんか。
心のなかで彼の方言をなぞるわたしはすでに田んぼの沼にずぶずぶ浸かって、収穫の日を待っている。
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