※大人軸




 山奥にある、知る人ぞ知る温泉街。色あせた看板やくたびれた軒先が、ぎゅっと肩を寄せ合う商店街に、その旅館はあった。

「泊まる人はあっちからへーれ」

 おもての酒屋で店番をしていたおじいさんがしゃくった顎の先は、人ひとり通るのがやっとの、うす暗い路地だった。たしかに小さな看板には��旅館入り口�≠ニ書いてある。
 三階建てのこじんまりとした民宿は、けれどこの土地の歴史を見守ってきた重厚な貫禄があった。
 わたしは思わず研磨を振り返り、すると研磨も同じ表情を浮かべていた。
 ドキドキしながら、路地に身体を滑りこませる。

「はい、いらっしゃい」

 のれんをくぐると、モンペを履いた大女将がにっこりと出迎えてくれた。ぬくもりを感じる和紙の照明の、とろんとした灯り。やわらかな影。ふっと肩の力が抜けるのがわかった。
 広間にはこたつが置かれていて、誰でも利用していいという。へえ、と目を向けると、裾野で丸まっていた猫と目が合った。

「猫だ」

 わたしが言うと、研磨が「猫だね」と言った。
 わたしたちはその猫に釘づけになった。きれいな毛並みに、ピンクのお着物リボンの首輪。看板娘だろうか。猫は興味なさそうにくぁっと大きなあくびをして、再びぬくぬくと丸まった。
 研磨と目が合う。言葉にしなくても同じ気持ちなのが伝わった。とてもいい旅行になる、そんな予感がした。


ふたりで歳を重ねるまえに


 付き合って何年も経つけれど、二人で温泉旅行に来るのはこれが初めてだった。
 高校生だったわたしたちは大学生になり、いつの間にか社会人になっていた。大人になるにつれ生活リズムが合わなくなり、わたしは慣れない会社勤めでへとへと、研磨はあいかわらず、休む暇もない。

 「たまにはゆっくりしたいよね」

 そんな何気ないひと言から始まった今回の旅行は、気づけば勢いのまま予約まで済ませていた。
 人の少ない場所で、静かに過ごせる宿がいい。そう思って選んだのだけれど——。

「おぉー」

 部屋に入り、思わず声が漏れる。八畳の和室に、広縁がついている。それだけで特別感があり、一気に��旅行にきた�℃タ感が湧いて、わくわくしてしまう。

「すごい……」

 窓の向こうには、午後の日差しをたっぷり浴びた木々の若葉がきらきらと光っていた。
 窓を少し開けると、ひんやりした空気が頬をなでた。かすかに渓流の音が聞こえる。石の上をすべる冷たい水の音。
 後ろで荷物を置いていた研磨が、「ほんとに静かだね」と言った。

「うん、なんだか、時間がゆっくり……」

 いつのまにか隣に並んでいた研磨を見ると、まぶたを閉じてゆっくりと深呼吸していた。まるで森の空気を取りこんでいるみたい。高校生のころから変わらない、少し猫みたいな顔。

「研磨、疲れてる?」
「うん。疲れてる」

 即答だった。わたしは思わず吹き出した。

「そこはちょっとごまかしてよ」
「一週間後に予約する人が悪い」
「ごめん。でもだって、こういうのって勢いが大事じゃない?」

 落ち着いたら行こう。また今度。そうやって後回しにしているうちに、季節なんてすぐ変わってしまう。
 ね? と顔をのぞき込むと、研磨は「わかるけどさ」という顔で小さく笑った。
 張りつめた糸がゆるむようなその笑い方を見て、ふわっと心が軽くなる。忙しくなってから、こういうなんでもない表情を見る時間がずいぶん減っていた。

「先にお風呂行く?」
「行く。空いてるうちがいい」

 宿は三組限定らしく、廊下も静かだった。

「じゃあ、あとで広間で待ち合わせしよっか」
「うん」

 そう言って別れた瞬間、なんだか少しだけくすぐったい気持ちになった。いまさら��待ち合わせ�≠キるだけで照れるなんて。自分でもおかしかった。


 女湯ののれんをくぐると、木の香りがした。
 浴場はしんとしている。誰もいないみたい。
湯気の向こうで、石造りの湯船が静かに湯をたたえている。
 のびのびとした気持ちで身体を洗う。途中、檜の風呂椅子をひく音が大きく響いて、少しびっくりしてしまう。

「わあ……」
 
 肩まで浸かると、熱すぎないお湯がじんわり身体にしみ込んでいく。はあ、と息を吐いた。
 仕事で肩が凝って、スマホを見て目が疲れて、毎日蓄積していたものが、少しずつ溶けていくみたいだった。
 窓の外は、うす暗くなりはじめていた。お湯の音だけがひっそりと響く。こんなふうになにも考えずにぼんやりするの、いつぶりだろう。
 研磨も、ちゃんと休めてるといいな。

 髪を乾かして、部屋から持ってきた浴衣に袖を通す。紺地に白い小紋柄の、シンプルな浴衣。帯を結びながら鏡を見る。気分が落ち着くようで、とても気に入った。

 廊下に出て、広間の前まで来たところで、向こうから研磨が歩いてくるのが見えた。
 そして、わたしたちは同時に立ち止まった。

「あ」

 研磨も同じ浴衣を着ていた。当然といえば当然なのに、同じ柄が並ぶと急に恥ずかしい。いつもよりゆっくり温まっていたからか、研磨の頬はほんのり赤く、髪がしっとりしていた。

「おそろいだね」

 わたしが言うと、研磨は視線をそらしながら「まあ、宿のだから」と答えた。耳が少し赤い。

「照れてる?」
「そっちこそ」
「わたしは照れてない」
「いや、照れてる」

 図星だった。
 わたしは笑ってごまかしながら、研磨の袖をつまむ。

「似合ってるよ」

 すると研磨は一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑った。

「……ありがと」

 その言い方があまりにも大人っぽくて、今度はわたしのほうがときめいてしまう。高校生の研磨だったら、絶対にしない表情だ。


 広間のこたつには、さっきの猫がまだいた。わたしたちを見るとのそのそと近づいてきて、研磨の足に身体を擦りつけてきた。

「え、いいなぁ」
「なんで俺」
「好かれてるね」

 研磨はしゃがんで、そっと猫の背中を撫でた。猫は気持ちよさそうに目を細めている。
 その光景があまりにも穏やかで、わたしはしばらく見入ってしまった。

「写真撮っていい?」
「猫を?」
「研磨を」
「やめて」
「なんで」
「なんか、恥ずかしい」

 さすがにピースはしてくれなかったけれど、一枚だけ撮った。スマホのなかに、猫を撫でる研磨の横顔が写っている。何年後かに見返したらきっと、この瞬間をまるごと思い出せる気がした。


 夕食は部屋食だった。大女将が次々と料理を並べてくれる。山菜の小鉢、山女魚の塩焼き、お吸い物、煮物、そして小さな釜飯。

「釜飯は、お一人にひとつずつですからね」

 蓋を開けると、湯気がふわっと立ちのぼった。きのこと鶏肉の香りが広がる。

「おいしそう……」

 大女将にお礼を言うと、彼女はにっこりと微笑み、そっと部屋を辞した。

「なんか、ちゃんと旅行って感じする」
「わかる」

 改めて、目の前に並んだ豪華な食事を見つめる。もうお腹はぺこぺこだ。普段小食の研磨も今日ばかりは目を輝かせている。
 そんな研磨が先にしゃもじを手に取った。

「よそう?」
「え、いいの?」
「うん」

 釜飯をふわりと混ぜて、わたしの茶碗によそってくれる。湯気の向こうの、研磨の表情がやわらかい。

「はい」
「ありがとう」

 今度はわたしが研磨の分をよそう。

「ちょっと多い?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「うん。旅行だから」

 はりきっている研磨は子どもみたいで、おかしくて笑ってしまう。
 いただきます、と手を合わせる。そして一口食べた瞬間、思わず目を見開いた。

「おいしい〜っ」
「うま……」

 きのこの香りと、出汁のやさしい味が広がる。

「これ、家で絶対できない味」
「まずビジュアルからしてずるい」

 わたしたちは、ひとつひとつ感想を言い合いながら食べた。
 川魚のほろほろした身も、出汁がしみた大根も、どれも驚くほどやさしい味がする。
 幸せを噛みしめるように箸をすすめていると、研磨が無言でわたしの袖をもちあげた。
 その視線から、浴衣がごはんに触れそうになっていたことを知り、しまったと思う。

「子どもじゃないんだから」

 ニヤニヤと指摘され、赤面してしまう。まるで食いしんぼうだと言われているようで恥ずかしい。

「ねぇ」 ふと研磨が口を開く。

「こういうの、もっと早く来ればよかったね」

 それから少し考えて、「でも、今だからいいのかも」と。

「今だから?」
「高校生だったら、たぶんコンビニで済ませてた」
「それは否定できない」

 二人で笑う。笑いながら、胸の奥がじんわりあたたかくなる。いままで一緒に過ごした時間がちゃんと積み重なって、今ここにあることを実感した。

 食後、広縁でお茶を飲んだ。
 窓の外はもう真っ暗で、虫の声だけが近く聞こえる。リンリン、ジジジ……という夏の音。
 旅館の灯りがガラスに映って、部屋のなかが浮かんで見えた。

「眠くなるね」

 わたしが湯呑みを両手で包みながら言うと、研磨も小さく頷いた。

「でも、寝るのもったいない」
「そうだね」

 そこで会話は途切れた。けれど、気まずさはない。言葉がなくても、隣にいるだけで満たされるような静けさだった。

 ふと、研磨がわたしの髪に触れた。そっと大切なものに触れるような指先に、胸がとくんと鳴る。付き合って何年も経つのに、こんなことでまだ嬉しくなる。

「似合ってる」

 ふいに落ちてきた言葉に、わたしは瞬く。

「……なに?」
「浴衣、似合ってる」

 艶っぽい瞳に見つめられて、心臓がどきっと跳ねる。「い、いまさら?」と笑ってみたけれど、声が少し裏返ってしまった。照れを隠そうとした分だけ、頬の熱が自分でもわかるくらいに広がっていく。
 研磨はそんなわたしを見透かしたみたいに、くっ、と笑った。余裕のある意地悪な笑みに、ますます敵わないと思う。そして、わたしの手をそっと包み込むように握ってくれるのだから、もうわたしの負けだ、と思った。


 布団は自分たちで敷いた。押入れからずっしりと重たい布団を協力して運ぶのが、わくわくして楽しかった。

「なんか修学旅行みたい」
「修学旅行だったら、たぶんもっとうるさい」
「たしかに」

 高校時代を思い出しているのか、研磨が嫌そうに顔を歪めるので、くすっと笑ってしまう。
 洗面所で歯を磨いて戻ると、研磨はもう布団に座っていた。浴衣の袖をゆるくたくし上げて、ぼんやりしている。

「眠い?」
「うん、さすがに」
「わたしも」

 部屋の灯りを落とすと、和紙の間接照明だけが残った。淡い橙色の光が、布団の上にやさしく広がって、揺れている。
 わたしは自分の布団に入って、天井を見上げた。静かだ。家だと、車の音や生活音がどこかでしている。けれど、ここには研磨の気配しかない。

「ねえ、研磨」
「ん?」
「来てよかったね」

 少し間があって、「うん」と返ってくる。その声が、眠る前の猫みたいだった。

「ここへ来たとき、ちょっと不安だったんだ」
「なんで?」
「こんな遠くまで来て、もし後悔したらどうしようって」 

 研磨がくすっと笑った。

「後悔なんてよっぽどしないでしょ」
「だって、無理言って連れてきちゃったから……」

「おれは、名前と行けるならどこでもよかった」

 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

「……研磨って時々、さらっと恥ずかしいこと言うよね」
「暗いからね」

 暗いなか、自分の顔が熱くなるのはわかったけれど、研磨の顔色は見えなかった。ずるい、と思う。

「ねえ」
 今度は研磨が呼ぶ。

「誘ってくれてありがとう」

 その声は、とても穏やかだった。ゆっくりまぶたを持ちあげると、隣の布団で並ぶ研磨と目が合う。淡い灯りのなかで、金色の毛先がやわらかく光っている。

「こちらこそ」
 喉の奥が少しだけ熱くなった。

「忙しいのに、時間作ってくれてありがとう」
「作りたかったから」
「……うん」

 胸がいっぱいになって、うまく言葉が出ない。
 わたしは布団から手を伸ばした。研磨も同じように手を伸ばして、指先が触れる。
 そっと握る。あたたかい。

「研磨」
「ん」
「わたし、ずっと好きだよ」

 言った瞬間、少し恥ずかしくなって、笑ってしまう。
 でも研磨は笑わなかった。まっすぐわたしを見て、静かに言う。

「俺も、ずっと好き」

 その言葉が、ゆっくり胸に落ちてくる。

「大切だよ。なによりも」

 高校生のころの「好き」とは違う。もっとひそやかで、もっと深い。毎日のなかで何度も確かめ直して、それでも変わらず残っている気持ち。
 お互いをずっと想いあっているなんて、信じられない奇跡。愛しすぎて、ときどき泣きたくなる。
 わたしは握った手に少し力を込めた。
 研磨が布団を抜けて、わたしのほうへ近づいてくる。

「そっち行っていい?」
「うん」

 布団が小さく揺れて、ふたつの体温が混ざった。
 研磨の腕がそっと背中に回る。ぎゅっとではなく、ためらうようなやさしさ。
 研磨の胸に耳を寄せると、規則正しい心臓の音が聞こえた。

「安心する……」
「おれも」

 髪を撫でる指が、ゆっくり動く。そのまましばらく、なにも話さなかった。
 ただ抱きしめられているだけで、胸のなかのざわめきが凪いでいく。仕事のことも、明日のことも、すべてが遠くなる。
 ただ、ここに研磨がいる。それだけで十分だった。しだいに、まぶたが重くなっていく。

「研磨」
「ん……」

 もう半分眠っているような声。

「また来ようね」
「うん」
「次は連泊したいな」
「いいね」

 小さなあくびが聞こえた。
 わたしは笑って、額をそっと胸に寄せる。

「おやすみなさい」

 最後に、研磨が少しだけ身体を起こして、やさしくキスをしてくれた。
 川の音が、遠くでずっと流れている。和紙の灯りは輪郭を失って、淡く滲み、やがて視界の端からゆっくり溶けていく。あたたかい腕のなかで、わたしは安心しきったまま眠りに落ちた。
 それは長い一日の終わりというより、これからもずっと続いていく穏やかな時間の途中で、そっと目を閉じるような眠りだった。


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