パキラに葉水をしていたら、スマホが震えた。机の上に置いたまま、画面を覗き込む。

 "久しぶり。"

 見慣れないアイコン。いったい誰だろう? 霧吹きを持ったまま、よく確認せずに通知をスライドする。

"友だちではないユーザーです。"
"凪誠士郎"。

 その名前を見た瞬間、高校時代の記憶が稲妻のように私の脳天を貫いた。確かに、"友だちではない"。動揺して、素早くスマホを取り上げる。勢い余って、霧吹きを噴射する。

──プシュッ

「うわっ!」





HAPPY Re: BIRTHDAY





──パァンッ

「うわっ!」

 21時7分。ネオンカラーの雨が降った。チープな紙吹雪がキラキラと目の前を舞い降りていく。

「誕生日おめでとー」
「ちょ、ちょっと、ここお店…っ」

 和モダンな風情ある居酒屋の個室で、この男はなんてことない顔で盛大にクラッカーを鳴らした。それは、久しぶりの再会にしては実に間抜けで呆気ないものだった。開口一番なんて言おうか。などと、健気に考えていた時間を返してほしい。けれど、そのおかげで彼の顔をごくごく自然に見ることができた。

「許可貰ってあるから大丈夫。貸し切りだし」
「かっ、貸し切り…!?」
「うん。御影コーポレーションおんぞうしパワー」

 なるほど通りで他に客がいないわけだ。しかし"貸し切り"というワードは、一般人の私にとっては少し刺激が強いものだった。安堵すればいいのやら、緊張すればいいのやら…。店内をぐるりと見渡す。まるで私達以外の人間が忽然と姿を消してしまったみたいで、夢の中にいるようだった。臙脂色のソファの上を滑るようにして腰を下ろす。頭上に浮かぶ和紙に包まれた照明が、月光のようにぼんやりと私達を照らしている。

「名前ってお酒強いの?」
「強くはないけど…まあ普通かな」
「ほぇー」
「誠士郎は?」
「んー俺は苦手。ビールとか苦いし…それよりわざわざこっち来てもらってごめん。今日仕事だったんでしょ?」
「いやそれは全然…金曜日だし。むしろ遅くなってごめんね」

 テーブルの上に散らばった紙吹雪をかき集めながら、目の前の男をちらりと盗み見る。気怠そうな表情は相変わらずだけれど、やっぱり少し体格が良くなったかな。

 誠士郎は、高校時代の元カレだ。高校1年の時に付き合い始めて、高校2年の時に彼が青い監獄に行ってから別れてしまった。交際期間は約1年半。それなりに思い出もあるわけで、私は懐かしさと気まずさの両方を抱えたまま電車に飛び乗って、この店までやってきた。

「ほい、メニューどうぞ」
「あ、私ビールにしようかな」
「んぇーそういう感じ? 俺メニュー見るのめんどくさーい。名前が決めて」
「えー。もう…そういうとこ全然変わってないんだね。んーと、甘い系?」
「うん」

 はちみつレモンサワーとビールを注文して、乾杯。

「誕生日おめでと、名前」
「うん、ありがと…」

 まさか今日という日に誠士郎と再会して、お酒を飲んで、普通に会話をするなんて、思ってもみなかった。

 今日は私の誕生日だった。"久しぶり。誕生日、夜空いてる?"なんてメッセージを見た時は、目ん玉が飛び出るかと思った。だって、私たちはあまりにもひどい別れ方をしているのだ。別れてから高校を卒業するまで、お互い一度も口を利かなかったほどの。

「ていうか、急に連絡来るからびっくりしたよ。誰から連絡先聞いたの?」
「御影コーポレーションおんぞうし、」
「──あぁ、もうわかったわかった」
「最後まで聞けし」

 ふふ、と笑みが漏れる。今日、私達は初めて笑った。誠士郎のゆるい雰囲気が、私の心を解いていく。懐かしい感覚が嬉しくて、でもどこか落ち着かなくて、ついついビールに手が伸びる。

「ね、ちょっとちょうだい」
「え?ビール? 苦手なんじゃなかったの?」
「名前が飲んでるとこ見てたら飲めるような気がしてきた」
「ふふ、なにそれ。いいけど」
「ん、……うぇぇやっぱ苦い」

 ビールが戻ってきた時、あ。と思ったけれど、そんなの今更気にすることでもないか。ほんの少しの違和感を流し込むように、私はジョッキに口をつけた。

「そういえば名前って、◯◯商事に勤めてるんだっけ? 忙しそうだね」
「そんなことないよ。残業ない日もあるし…っていうか誠士郎の方が忙しいでしょ」
「んー忙しいとは思ったことないけど」
「あ…いや、そもそもそういう次元の話じゃないか…」

 誠士郎がプロのサッカー選手だなんて、私は未だに信じられない。もちろんその活躍はテレビで何度も目にしたことがあって、事実として認識してはいるのだけれど。でもいつだって、私が知っている彼はそこにいないのだ。

「夢、叶えたんだよね…すごいや。本当に遠くに行っちゃったんだね、誠士郎は」

 独り言のように呟いてから、なんか変な言い方してしまったなと慌てて咳払いした。まるで高校時代に戻ってしまったような、変な感覚だった。

「まあ海外には行ってるけど。でも、俺が帰る場所はいつだって変わらないよ」

 ついと目が合って、ドキリとした。高鳴るというよりは、ひやっとするような。そんな感じ。
 私は今、誰と話しているのだろう。黒いパーカーの上に白い制服を羽織る彼の姿が瞼の裏にちらついて、大人になった私の邪魔をしてくるようだった。



『誠士郎は私の気持ち、ちょっとでも考えたことある…っ!?』
『そっちだって、俺のこと全然わかってないじゃん』
『わかりたいよ…っ!わかりたいから、こうして話し合ってるんじゃん!』
『そう言っていつも冷静に話し合えてないよね、俺たち』
『なに、その言い方…』
『別に。事実を言っただけ』
『……もういい。なんかもう、いいや。ねぇ、私達──…』



「終わりなんだって」


「──え?」
「さくらと抹茶のみるくぱふぇ」

 今日で終わりなんだって。と見せてきた期間限定メニューに、誘惑の春うらら。あら美味しそう。まだここに春が残っていたのね、なんて。一瞬気を取られたりなんかして。

「ねぇ、もうデザートの話? まだサラダしか食べてないんだけど」
「だって名前好きでしょ? こういうの」
「……まあ」
「ね、決まり。俺も食べたいし」

 だからつまみ食べすぎないでね、と釘を刺される。私のことをよくわかっていらっしゃる。まあ付き合っていたんだし、当然か。放課後ファミレスでのんびりだらだらデートしていた時のことを思い出す。あの時もパフェが食べたくて行ったのに、結局ごはんでお腹いっぱいになって食べられなかったんだっけ。思わず目の前の取り分け皿に視線を落とす。ルッコラの艶やかなグリーンが目に焼き付くようだった。

「……そういえば私、今パキラを育ててるんだけど」
「うん?」
「観葉植物、覚えてる?」
「んぁー…チョキの隣にいたやつね」
「そうそう」
「190cmまで育てるんだーとか言ってたやつ」
「そうそう」
「で、1ヶ月で枯らしたやつね」
「そうそ…いやいや、3ヶ月は持ったでしょ」
「どっちにしろ観葉植物枯らす女に変わりないよ」
「失礼な」

 なんて戯けて笑いながら、私達は2杯目を注文した。

「で、びっくりしないでね。今うちにあるパキラ、2メートルあるの」
「やば。俺よりでかいじゃん」
「最初はこれくらいの小さな鉢植えだったのに、すごいでしょ。もう枯らす女は卒業」
「いろいろ勉強したんだ」
「少しね。まあでもあの頃は何も知らなくて、単純に水をあげすぎてたの。最初の頃なんて毎日あげてたし。今考えたらかわいそうなことしちゃったなぁって思うよ」

 誠士郎がグラスに口をつける。何も言わずに、そのまま一口飲んだ。ごくりと喉が鳴って、「そっか」とそれだけ言って、小さく頷いた。

「高校の頃のちっぽけな夢だけどね、私も叶えたよって話」
「うん。やったじゃん」
「ねぇ、誠士郎も話して」
「なにを?」
「青い監獄のこと。その後のことも、全部」
「いやめんどくさ。長すぎるでしょ」
「だって私ずっと気になってたの。あの時は…その、私達、あんな感じだったから…聞けなかったけど」

 誠士郎の瞳が僅かに揺らぐ。記憶を辿るように、逸らすように目を伏せた表情が切なくて、儚い。彼の中で、私達のほろ苦い日々はどんな思い出になっているのだろう。少しだけ、ほんの少しだけ覗いてみたい気持ちになったけれど、触れなかった。私達はもう、それぞれの道を進んでいるのだから。







 春のデザートをしっかり堪能して、空いたお皿を下げてもらって、もうどれくらい経ったのだろう。今まで話せなかったこと、話したかったこと、積もる話の上に積もって積もって、また積もって…気付けば時間を忘れてしまっていた。
 グラスの氷が溶けて、カラン、と音が鳴った。これはいったい4杯目だったか5杯目だったか、もはや考えるのも億劫だ。久しぶりに誠士郎に会ったけれど、やっぱり心地良くて、ついうとうとしてしまうくらいには酔っ払っていた。それは誠士郎も同じみたいで、彼の頬はほんのりと赤く染まっていた。おまけに目をしぱしぱさせている。

「あ、ちょっと待って終電…」

 ふとスマホを手に取って画面に触れる。真っ暗。電源ボタンを押す。真っ暗、真っ暗。え、うそうそ。あ、そういえば。と少し前に赤い電池のマークを見たことを思い出した。家を飛び出す前だったか、電車の中だったか、とにかく画面の右上にチラッと見えた気がするのだ。

「最悪…充電切れちゃった……誠士郎、終電調べてくれない? ◯◯駅…」
「んぇー…大丈夫なの? ちょっと待って………んーと、0時18分だってー」
「そっか、じゃあもう少ししたら出よー」
「んー」



──なんて、話していたのに。


「はぁっ…はぁっ…もうっ、なんでこんなことになってんの!」
「名前がもう一回って言ったんじゃーん」
「だって、だって…!昔は私の方が強かったのに…!」

 のんびりと駅に向かう途中で、私達は導かれるようにふらっとゲーセンに立ち寄って、そこで高校の時によく一緒に遊んだゲームを見つけたものだから、つい遊び始めてしまったのだ。

「あぁ…っでもギリギリ間に合うかも…!」

 風を切って走る。ホームまでお見送りすると言ってくれた誠士郎と一緒に、走る。「もうちょっと早く走れないの」などと文句を言われながら、走る。走る。

 時刻は0時17分。残り時間はあと1分。階段を降りて、ホームを走れば、余裕で間に合う! と、思っていた時だった。


── "◯番線 ドアが閉まります。ご注意ください"


「──はぁ!? ちょ、ちょっと…!」

 耳を疑うようなアナウンス。信じられなくて、階段を駆け降りる足が止まらない。軽快なメロディーが流れて、消えて、プシュー…っとエアーの音が聞こえた途端、張り詰めていた私の思いも同じようにプシュー…っと萎んでいった。よろよろとホームに着いた時には、すでに最終電車がゆったりと動き出していた。

「はあ…っはあ…っ…どういうこと…」

 息が切れて、喉が焼けるように痛い。こんなに走ったのは学生振りだ。ぜいぜいとあがった息のまま走り去る電車の後ろ姿を唖然と見つめて、生温いホームの風に吹かれていた。

 ふと、後ろを振り返る。ちっとも息のあがっていない誠士郎が、涼しい顔をして立っている。私はびっくりして、絶句した。まるで、全部わかっていたみたいな瞳、だったから。

 タタンッ、タタンッ、と電車が走り去る音が、暗闇の向こうから聞こえてくる。

「17分」
「…は」
「終電。本当は18分じゃなくて、17分だったんだよね」
「え、は…何言って、」

 誠士郎はそれ以上何も言わなかった。心臓がどきん、どきん、と今までとは違った脈の打ち方をし始めた。

「ちょっと、なに…誠士郎、なんか…全然、酔ってなくない?」
「うん、そうかも」
「な、ん…なんで…」
「弱いとは言ってないでしょ」

 ゆっくりとこちらに近付いてくる。

「ねぇ、なんで俺が今日名前を誘ったのか、わかってる?」
「……誕生日…だから」
「うん。それもあるけどさ」

 俺、ずっと後悔してたんだよね。そう言って、誠士郎が私の両手を取る。そうして両手を繋いだまま、見つめ合う。

「俺たち、やり直せないかな」

 置いてけぼりの静寂の中に、私の息切れの音だけが、異様に漂っていた。誠士郎の手が微かに震えているような気がして、春も終わりだというのに、指先がかじかむようだった。
 1分という短すぎる時間に、いったい彼は何を託したのだろう。想像したら泣いてしまいそうだった。だってもう、私はパキラを枯らさないし、食後のデザートの楽しみ方だって、知っているのだから。

 「名前」

 誠士郎が祈るように私の両手を包み込むものだから、私は、ああもう言ってしまいたいと思っていた。スマホの充電が切れることを、私は知っていた。知っていながら、知らない振りをしていた。むしろ、その時を待っていたのだと。そんなことを言ったら誠士郎、あなたはいったいどんな顔をするのかな。

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