「みんな、吊り橋理論≠チて一度は聞いたことあるだろう?」
これは余談なんだが……という前置きから始まった教師の無駄話に、かろうじて保たれていた集中力がぷつんと切れた。
三限目に体育の授業を受けてきたわたし達の教室には、誰かの制汗剤の匂いと、使い古された冷房の匂いと、とろんと微睡む気怠い空気が漂っている。
「──ええと確か、カナダの学者によって実証された心理効果だったかな……」
わたしは既に夢のなかにいるクラスメイトの背中をぼんやりと見つめながら、日曜日に食べた駅前のパンケーキのことを思い出していた。ふわふわに泡立てたメレンゲをこんもりと盛って、弱火でじっくりと蒸し焼きにしたとろとろのスフレパンケーキ。
真夏の暑さを閉じ込めた体育館はさながら蓋をされたホットプレートのなかのようで、体育館のど真ん中でお調子者の男子が叫んでいた「嘘だと言ってよ、ジョー!」という台詞に、心のなかで激しく同意したほどだ。そうして出来上がったわたし達は四限目も後半になると、約半数の生徒がスフレパンケーキのようにとろんと溶けて、机の上に盛り付けられていたのだった。
わたしはというと、こんなことを考えているのでもちろん眠気よりも食い気が勝っていた。
ちらりと時計を確認する。あと五分で昼休みだ。うっかりお腹が鳴りそうになって、慌てて窓の外に目を向ける。
「──不安や恐怖から生まれる緊張感を恋愛感情と誤認してしまうっていう、面白い実験でね……」
晴れやかな青空の向こう側にもこもこと膨れ上がる大きな入道雲を見つけて、生クリームみたいだなぁと思った。こっくりと甘いクリームを絞り袋にぱんぱんに詰め込んで、パンケーキの隣にもこもこと絞り出す。それをナイフでそっとすくいあげて、盛り付けて、それから……。あ、だめだめ。お腹鳴りそう。
視線を逸らすと、グラウンドが揺らめいていた。外はきっと茹だるように暑いのだろう。それに比べてこの教室はいくらか冷房が効きすぎている。わたしはずり落ちそうになっていた膝掛けを探るように手繰り寄せた。
「──それが、吊り橋理論=B最初にも言った通りもちろんこれは余談なんだが……しかし凪、チャイムが鳴るまで待てんのか?」
「んぁ……すみまへん」
しんと静まり返った教室に、どっと笑いが起きる。つられて後ろを振り返ってみると、ふわふわのパンケーキみたいな、生クリームみたいな頭のクラスメイトがメロンパンを片手に立ち上がって、その頭をぺこりと下げていた。
──凪誠士郎。いつも寝てるかゲームしてるだけの、変わり者の不思議な男子。
よくない噂ばかり聞くからか、みんな彼とはあまり話したがらない。かくいうわたしもその一人で、クラスメイトでありながら彼と話したことは今までに一度だってないのだった。
そういえば入道雲って積乱雲ともいうんだっけ。そんなことを思い出したのは下校中、いつの間にかうす暗い色に変化した不気味な雲が頭上に覆い被さろうとしているときだった。
湿った生温い風が急に強く吹き抜けたので、これは降るぞと確信した。それでもどこか他人事のように空を見上げていられるのは、わたしがいつも折り畳み傘を持ち歩いているからだった。
ぽつ、ぽつ、と雨が降り始める。わたしは肩からかばんを下ろして手探りで傘を探した。
「あれ……?」
ない。折り畳み傘がない。そんなはずないと思いながら、この目で確かめるために中を覗く。しかし何度瞬きをしてもそこに傘は入っていなかった。
動揺して立ち止まるわたしの脳裏にふと、日曜日の出来事が過る。──そうだ。駅前のパンケーキ屋さんに行ったとき、わたしはトートバッグで出かけていた。日曜日の朝、スクールバッグからお気に入りのトートバッグに折り畳み傘を移動させたのは、紛れもなくこのわたしだ。
雨足が強くなる。アスファルトの濡れた匂いが立ち込めて、分厚い雲の向こう側に一瞬の光を捉えた。この感じはもう絶対にやばいということを、わたしは知っている。
「嘘だと言ってよ、ジョー!」
わたしは走り出した。かばんを掲げたのはせめてもの抵抗だ。
気まぐれな夏の天気。雨は一分も経たないうちに土砂降りへと変わった。いわゆる夕立というやつだった。大きな雨粒が身体中に打ちつける。唸るような雷鳴が、押し寄せるように迫っていた。
けれど、雨宿りするには家が近すぎる。わたしが住んでいる寮はもうすぐそこだ。祈るように足に力を込めて、走る。水溜まりをばしゃんと踏んで、走る。走る。そうして寮の入り口が見えたときだった。
あ、誰かいる。
濡れた前髪の隙間から、軒の下で傘の水滴をばさばさと払っている人物が見えた。
ふわふわのパンケーキ、生クリーム。見覚えのある白い頭。それはクラスメイトの凪誠士郎だった。
気まずさにぎくっと肩が跳ねる。彼が同じ寮に住んでいることは知っていたけれど、こうして鉢合わせることは初めてだった。いつもならここでゆっくりと速度を落としていくところだけれど、あいにくそんな悠長なことをしていられる状況ではない。わたしはなりふり構わず軒下──凪誠士郎の隣に、半ば滑り込むようにして駆け込んだ。
ほんの一瞬、目が合ったような気がした。
かばんにばらばらと打ちつけていた雨音が消えた途端、なんだかここは異様に静かで、息が詰まる。隣に立っている男が傘のスナップボタンをぱちん、と閉める。その音が、やけにはっきりと聞こえたからだろうか。
(でかっ……)
この人、こんなに身長高かったんだ。そんなことを思いながら呼吸を整えて、額に流れる雨水を拭う。すると突然、目の前の空に稲妻が走った。フラッシュのような閃光に思わずビクッと肩が跳ねる。遅れて、地響きのような雷鳴が轟いた。
そんななか、凪誠士郎はゆらりとエレベーターの方に向かっていた。
もちろんわたしも乗りたかったのだけれど、なんとなく彼のあとをついていくのはためらわれた。それでもこの状況でエレベーターに乗らないのは逆に不自然でもあったので、わたしは並んでいるのかいないのか曖昧な距離感で彼の後ろに立って、ずぶ濡れの身体を拭くには頼りないハンカチで首筋や腕を拭っていた。
チン、と到着の音が鳴って、エレベーターの扉が開く。当然のように乗り込む男の背中を見ながら、ああ、やっぱり見送ろうか……と今更怖気付く。避けられるのであれば避けたい。これが本音だった。
思いあぐねてその一歩を踏み出せずにいると、パネルの前に立っていた男が不意に口を開いた。
「乗らないの?」
ころん、と一粒、雹でも降ってきたかのような声。凪誠士郎はどこ吹く風といった顔で、平然とこちらを見つめていたのだ。
うじうじと悩んでいた自分が途端に恥ずかしくなり、わたしは「の、乗る……!」と強がって、その小さな箱の中に飛び込んだ。
「……」
「……」
操作パネルの前に立って「乗らないの?」と聞いておきながら、彼が行き先を尋ねてくる気配はなかった。そのうえ自分の階だけちゃっかり押して、ポケットから取り出したスマホでどうやらゲームなんて始めてしまっているようだった。この男、まるで無関心なのだ。
わたしは薄気味悪く思いながら腕を伸ばして、数字のボタンを押してから間髪入れずに閉<{タンを連打した。
ゆっくりと閉まる扉に小さくため息をつく。今日はなんて日だ。ついてない。この畳み掛けるような仕打ちにはさすがに嫌気が差していた。早く帰ってシャワーを浴びたかった。濡れた肌にべっとりと張り付く制服も髪も、このじっとりとした空間も、なにもかもが気持ち悪い。
わたしははやる気持ちを抑えながら、ゆるりと上昇を始めたエレベーターのなかでじっと数字を見上げていた。
──ガコンッ
突然、視界が暗転した。大きな音が鳴って、急停止。それは一瞬の出来事で、暗闇のなかで「えっ?」と情けなく漏れたわたしの声だけが響いた。
いったいなにが起きたのか、なにひとつ理解できないまま最初に目に飛び込んできたのは、明るく光るスマホの画面だった。四角く切り取られた小さなゲームの世界は、なんと彼の指先によって止まることなく動き続けていたのだ。
「あー、さすがに死んだ」
GAME OVER≠ニ表示された画面を見て、わたしはようやく理解した。
消えた照明、急停止したエレベーター、うっすら聞こえる雷鳴。間違いない、停電だ。ドッと嫌な汗が吹き出す。
GAME OVER=H ──冗談じゃない!
「う、嘘、ねぇ、嘘でしょっ?」
嘘だと言ってよ、ジョー! わたしはまだ死にたくない!
未だスマホから手を離さない男の身体を押し退けて、パネルを操作する。開、閉、1、2、3……どのボタンを押してもうんともすんとも言わなかった。
「ど、ど、ど、どうしよう! 嫌だ……!」
心臓がどくどくと脈を打つ。冷静さを欠いた指先はぶるぶると震えていた。
すると突然、頭上からカチッと音がして箱のなかが明るくなった。非常灯が点灯したのだ。暗闇から解放されたことにまずはホッとしたけれど、その光がまるで悲劇のヒロインを照らすスポットライトのようで、なんだかわたしはますます惨めな気持ちにさせられた。
「──ねぇ」
不意に、背後から声をかけられる。
「そのボタン、外に連絡できるやつじゃない?」
「え、あ……そっか!」
下の方にある赤いボタン。普段気にも留めないからかその存在をすっかり忘れていた。促されるまま慌ててボタンを押してみる──けれど、なにも起こらない。今度は強く長押ししてみる──……やっぱり、なにも起こらない。
非常ボタンが非常時に作動しないってどういうこと!? 込み上げる不安、恐怖、苛立ち。わたしはわなわなと震えていた。
「──あ、そうだ! スマホ……」
男に話しかけられたことで少し冷静さを取り戻したわたしは、一番シンプルなことを思い出した。わたし達は立派な文明の利器を所持しているではないか。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう!
希望の光が差し込んで、ポケットから素早く取り出したスマホの右上には、圏外≠フ文字。「なんで?」心の声はついに自然と漏れ出していた。
「あ、凪くんは……!? さっきゲームしてたよね!?」
「圏外だけど」
さっきのはオフラインゲーム。とご丁寧に補足され、わたしはガクッと項垂れた。ああ、そんな。どうしてこんなことに? わたしがいったいなにをしたっていうの?
「まあ、いいや」
凪誠士郎改め凪くんはそう言って、まるで他人事のようにその場に座り込んだ。それから再びスマホを横にしてのん気にゲームを始めたのである。
「ど、どうしてそんなに落ち着いていられるの? わたし達、閉じ込められたんだよ……!?」
「どうせすぐに動くでしょ。別に無人の建物ってわけじゃないし」
けろっとした態度。わたしは呆気にとられて、なにも言えなくなってしまった。
凪くんはぽかんとするわたしの隣で「おりゃー」とゆるい声を出しながら、すでにゲームの世界にのめり込んでいる。なんなんだ、この生きもの……。
けれど、もうどうしようもないことも事実だった。これ以上わたし達にできることはなにもない。あっけらかんとしている凪くんを見ていたら、やきもきしていた気持ちが萎んでいくようだった。そうして無力感に包まれたわたしは最終的にへなへなとその場にしゃがみ込んだのだった。
「うりゃ」
「……」
「んぁ、ヘッショ決まらん」
「……」
お気楽な独り言を聞きながら、わたしは小さくうずくまっていた。傘を忘れて、雨に降られて、びしょ濡れで、クラスメイトの、一度も話したことのない奇妙な男とエレベーターに閉じ込められて……。
こんなの、あんまりだ。四限目をまともに聞いていなかったから、バチが当たったのだろうか。
「──へっくしょんッ!」
突然の寒気にぶるっと身震いして、腕をさする。雨に打たれてしばらく経ったせいで少し寒くなってきた。もしこのまま長時間閉じ込められることになったら、風邪を引いてしまいそうだ。わたしは膝を引き寄せて、冷えた身体をさすった。
「寒いの?」
顔をあげると、スマホを持ったままの凪くんと目が合った。
「ちょっとね……でも大丈夫」
打ち明けたところでどうしようもないし、と鼻を啜ったら、凪くんがリュックのなかをごそごそと漁り出した。
「これ、着なよ」
そう言って変わらぬ無表情で差し出されたのは体育の授業で使うジャージだった。
「え?」と戸惑っていると、凪くんは「俺、今日サボったから使ってないし」と見当違いなことを言った。
「い、いや、でも濡れちゃうし……」
「別にいいよ」
「でも、」
「まあどっちでもいいけど」
凪くんはわたしの膝の上にぽんっとジャージを放って、それから再びゲームを始めてしまった。
選択を委ねられたわたしはしばらく悩んで、けれどそうしているうちにもう一度くしゃみが出てしまったので、やむなくご厚意に甘えることにした。
意外だったのは、わたしが上を羽織って、下を履くとき、ゲームは止めないものの、凪くんがさりげなく身体ごと後ろを向いてくれたことだった。そういう気遣いはできるんだ、とますます彼のことがわからなくなったと同時に、ちょっとかわいいな、とか思ってしまったり。
「あの、ありがとう凪くん」
「うん」
凪くんのジャージはすごく大きい。そりゃああんなに身長が大きいのだから当然と言えば当然なのだけれど、袖は上も下も大袈裟なほど余ってしまうし、上着はおしりの下まですっぽり覆ってしまうものだから驚いてしまった。わたしはだぼだぼの裾をなんとか捲りながら、目の前の男子との体格差をありありと見せつけられたことに不覚にもドキドキしてしまっていた。
ふわっと鼻をくすぐる、わたしのとは違う柔軟剤の香り。凪くんってこんな匂いがするんだ。落ち着く香りについ顔を埋めてしまいそうになり、慌てて首を振る。──いやいや、なに考えてるのわたし……!
相手はあの凪誠士郎だ。今までときめきのと≠フ字もなかったような相手にドキドキしてしまっていることが信じられず、わたしは必死で言い訳を探していた。きっとなにもかも、この異常事態のせいだろう。
「苗字さんって」
「えっ!? な、なに?」
突然名前を呼ばれてびくっと肩が跳ねる。
「寒がりなの?」
「……え?」
「膝掛け、夏でも使ってるよね」
思いがけない言葉にこれまたびっくりして、目をぱちくりと瞬かせた。
わたしのこと、知ってたんだ……っていうかわたしの名前、知ってたんだ……。それは本当に予想外で、「うん、夏、冷房、寒いし」とカタコトに返事してしまうくらいには衝撃だった。
「そう?」
「うん、そう」
「ふーん」
凪くんはそれきり口を閉ざして、ゲームの世界に戻っていった。再び訪れた静寂に、鳴り止まない雷鳴が遠くの方から聞こえていた。
「……全然動かないね」
「うん」
「あとどれくらいで動くかなぁ」
「んー」
「誰か気付いてくれたかなぁ、もう誰か助けようとしてくれてるかなぁ」
「……ねぇ、」
不安な気持ちをぽつりぽつりと打ち明けていたら、じとっと見つめる瞳に遮られてしまった。
「ちょっと静かにしてくれない?」
えぇ、急に冷たいじゃん。なんなのこの人。
ほんの少し凪くんのことがわかったような気がしたのに、やっぱりまだまだよくわからない。
さっきは自分から話しかけてきたくせに、とふてくされていると突然、エレベーターの上からガコンッ、と音が鳴った。
「え、な、なに!?」
動き出すのかと思いきや、それきりなにも起こらない。しんと静寂に包まれて、わたしの心臓はドッと再び騒ぎ出した。
故障? 異常? 急降下? ──こ、こわい!
よくない光景ばかりが次々に思い浮かんで、わたしは足がすくむような気持ちになった。
「……もう、やだ」
膝を抱えて縮こまる。早くここから出たい。閉鎖された空間。耳を塞ぎたくなるほどの静寂。まるで世界から切り離されたようで、孤独に押しつぶされそうだった。もはやこの世界にはわたし達だけしかいないんじゃないかとすら思えてくる。助けなんて来なくて、もう一生ずっと出られなくて、このままここで死んでいくんだ。
なんでもっと早く帰らなかったんだろう。なんで傘を忘れたんだろう。なんで雨宿りしなかったんだろう。わたしはめそめそと今日の行動を悔やんでいた。
お腹空いた。駅前のパンケーキ、もう一度食べたかったなあ……。
ぽろ、と知らぬ間に涙が零れていたことに気付いたのは、凪くんがぎょっとした顔でこちらを見ていたからだった。
この数十分の間に起こった出来事は、わたしのちっぽけな頭のなかでは整理しきれなかったみたいだ。情けないことに、涙が止まらない。
「苗字さん、どうしたの?」
「うぅ……ごめん。気にしないで」
「……えー」
凪くんの面倒くさそうな表情に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。わたしはもう子どもではないし、普段あまり人前で泣くことはないのだけれど、一度溢れた涙を止める術を知っているほど大人でもなかった。
「……」
「っ、ぅ、……うぅ……」
「……あー」
居心地が悪いのか、凪くんが明らかにそわそわし始める。ごめん、本当にごめん。でも、このままそっとしておいてほしい。心のなかで謝りながら、わたしは借りたジャージを汚さないように涙を拭っていた。
「……ぼのぼの、見る?」
「……え?」
「ぼのぼの」
突拍子もないことを言った彼が見せてくれたのは、ぼのぼの≠ニいうゆるいキャラクターが手を振っているゲーム画面だった。
「なにこれ……」
「ぼのぼの」
いやそうじゃなくて、と思いつつ、会話をするのも億劫で、わたしはお気楽なスタート画面をぽかんと見つめていた。
「来て」
凪くんがちょいちょいと手招きする。わたしは素直に従って、隣に並んでスマホの画面を覗き込んだ。
凪くんが慣れた手つきでゲームを始める。パズルゲームのようだった。ぼのぼのがころころ転がって、パズルがどんどん進んでいく。素人のわたしから見ても凪くんが上手なのだということがわかる。しかしぼのぼの……かわいいけれど、わたしはいったいなにを見せられているのだろう。
ちらりと横顔を盗み見る。なにを考えているのかわからない相変わらずの無表情だったけれど、わたしの涙はいつの間にか止まっていた。
「……あの、凪くん」
「なに?」
「もしかして、慰めようとしてくれてる……?」
口をついて出た言葉はまさに図星だったようで、ぎくっとわかりやすく指先が止まった。そのせいで、うまくいっていたはずのパズルがどんどん崩壊していった。
あ……と思いながら画面を見ていると、凪くんがぎこちなく、ぼそっと呟いた。
「……そうだけど」
なんか文句ある? とでも言いたげな、不機嫌な声。
──なんて不器用な人。かわいいものを見せておけば泣き止むだろうなんて、安易な、まるで小さな女の子を扱うかのような接し方に、思わず笑みがこぼれてしまう。
ぼのぼの、ぼのぼのね。確かにかわいいけれど、今のわたしには凪くんの方がよっぽど──。
「って、あぁ! 凪くん、ぼのぼのが連れて行かれちゃうよ……!」
「あーしまわれちゃうね」
「しまわれちゃう!?」
「うん、しまっちゃうおじさん」
「しまっちゃうおじさん!?」
結局ゲームオーバーになってしまい、ぼのぼのはしまっちゃうおじさん≠ノ連れて行かれて、なにやら狭いところに閉じ込められてしまった。
なにこれかわいそう……と同情しつつ、その姿はまるで今のわたし達のようだった。
「わたし達も、しまわれちゃったのかな」
なんて冗談を言ったとき、至近距離でぱちっと目が合った。
ヘーゼルの瞳が、とても綺麗だと思った。今まで凪くんの顔をあまり近くで見たことがなかったけれど、案外綺麗な顔立ちをしているんだなぁと思った。眠そうだけど、大きな瞳。つんと尖った鼻先。透き通るような白い肌。あれ、凪くんってちょっとかっこいいのかも、なんて。また胸がときめいたりなんかして。
「なに見てんの」
「な、凪くんこそ」
「苗字さんが百面相してるから」
「ひゃく……? あ、でもちょっと元気出てきたかも」
ありがとう。そう言って微笑むと、凪くんは「どーも」なんてまたぶっきらぼうに目を逸らして、それからぼのぼのをスワイプすると、さっきまでやっていたシューティングゲームに切り替えてしまった。
──そうだ。こんなときだからこそ、好きなものや好きなこと、なんでもいいから元気が出るようなことを考えるべきだ。
わたしはスマホの写真アルバムを開いた。友達と出かけたときのこと、楽しかったこと、プリクラ、駅前のパンケーキ。写真を見返すと、自然と笑みがこぼれていた。やっぱり、わたしはまだまだ死にたくない。絶対に生きて、ここから出るんだ!
大袈裟に自分を奮い立たせながらそれでも隣に並んだ彼から離れられないのは、まだほんの少し怖い気持ちを紛らわすため……だと思う。
「なにそれ」
「これはスフレパンケーキだよ。この間食べたの」
「ふーん」
「凪くん、甘いもの好き?」
「……まぁ」
「いつもメロンパン食べてるもんね。やっぱりパンならメロンパンが一番好きなの?」
「……」
急に饒舌じゃん、うるさ。そんな目をしているような気がしたけれど、気付かないふりをした。もともとわたしはお喋りが大好きなのだ。
「そういえば凪くんっていつも寝てるけど、勉強ついていけてるの?」
「ねぇ、質問多すぎ。めんどくさい」
「えぇ……いいじゃん別に」
「なんでそんなどうでもいいこと聞くの?」
「だって凪くんって謎に包まれてるから、知りたくなっちゃったんだもん」
「……なにそれ」
苗字さんって変わってるね。凪くんはそう言って変なものを見るみたいな目でわたしを見下ろしたけれど、それ、あなたには一番言われたくない台詞なんだけどな……。
──ゴゥン……
突然、機械音が鳴った。同時にパネルの数字が点灯して、エレベーターが動き出す。
「あ、動いた」
それはまるで何事もなかったかのようにわたし達を運んでいく。なんだか夢のようにふわふわした浮遊感。何事もなかったかのように凪くんが立ち上がるから、わたしも何事もなかったかのように立ち上がった。
チン、と到着の音が鳴って、エレベーターの扉が開く。凪くんの階だった。凪くんはなにも言わずにふらっと歩き出してエレベーターから降りていった。
「あ、あの……!」
思わず引き止める。振り返る、大きな背中。ふわふわのパンケーキ。生クリームみたいな、白い頭。
「ばいばい、凪くん。また明日」
ひらひらと振った手のひらに返ってきたのは「うん」の一言。それだけなのに、わたしの冷え切った身体は十分すぎるくらいにほっこりと温まった。
エレベーターの扉が閉まって、彼の姿が見えなくなる。その瞬間、どっと疲労感に襲われて、わたしはへなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
ドキドキと胸の高鳴りが止まない。これは不安か、恐怖か、緊張か──?
確かに怖かった。エレベーターに閉じ込められるという出来事は、今まで平和に生きてきた人生のなかで一番死を身近に感じた出来事だったし……。けれど、今の気持ちはもっとこう、なんか違うような気がするのだ。
こっそり、ジャージの袖に顔を埋めてみる。知らなかった柔軟剤の香り。凪くんのこと。ぼのぼのからシューティングゲームに切り替えたとき、彼の耳がほんの少し赤く染まっていたこと。思い出すだけで胸の奥がきゅんとして、鼓動が速くなる。なんか、まるでこれって……。
「嘘だと言ってよ、ジョー……」
がくりと項垂れる。まさかこんなことって。
ああでも、こういうのってなんていうんだっけ。感情を誤認するとか、そういう心理効果がどうとか、最近どこかで聞いたことがあるような気がするのだけれど、わたしはちっとも思い出せなかった。
ジャージは洗濯して返そう。それから死ぬ間際にもう一度食べたかったと後悔したパンケーキをまた週末に食べに行こう。もしもお詫びに奢るからと口実をつけて誘ったら、あの面倒くさがり屋の彼は快く頷いてくれるだろうか。
back