「みんな、"吊り橋理論"って一度は聞いたことあるだろう?」

 これは余談なんだが…という前置きから始まった教師の無駄話に、かろうじて保たれていた集中力がぷつんと切れた。

 3限目に体育の授業を受けてきた私達の教室には、誰かの制汗剤の匂いと、使い古された冷房の匂いと、とろんと微睡む気怠い空気が漂っていた。

「──ええと確か、カナダの学者によって実証された心理効果だったかな…」

 私は既に夢の中にいるクラスメイトの背中をぼんやりと見つめながら、日曜日に食べた駅前のパンケーキのことを思い出していた。ふわふわに泡立てたメレンゲをこんもりと盛って、弱火でじっくりと蒸し焼きにしたとろとろのスフレパンケーキ。
 真夏の暑さを閉じ込めた体育館はさながら蓋をされたホットプレートの中のようだった。体育館のど真ん中でお調子者の男子生徒が叫んでいた「嘘だと言ってよ、ジョー!」という台詞に、心の中で激しく同意したほどだ。そうして出来上がった私達は4限目も後半になると、約半数の生徒がスフレパンケーキのようにとろんと溶けて、机の上に盛り付けられていたのだった。
 私はというと、こんなことを考えているのでもちろん眠気よりも空腹感が勝っていた。
 ちらりと時計を確認する。あと5分でお昼休みだ。うっかりお腹が鳴りそうになって、慌てて窓の外に目を向ける。

「──不安や恐怖から生まれる緊張感を恋愛感情と誤認してしまうっていう、面白い実験でね…」

 晴れやかな青空の向こう側にもこもこと膨れ上がる大きな入道雲を見つけて、生クリームみたいだなぁと思った。こっくりと甘いクリームを絞り袋にぱんぱんに詰め込んで、パンケーキの隣にもこもこと絞り出す。それをナイフでそっと掬いあげて、擦り付けて、それから…。あ、だめだめ。お腹鳴りそう。
 視線を逸らすと、グラウンドが揺らめいていた。外はきっと茹だるように暑いのだろう。それに比べてこの教室はいくらか冷房が効きすぎている。私はずり落ちそうになっていた膝掛けを探るように手繰り寄せた。

「──それが、"吊り橋理論"。最初にも言った通りもちろんこれは余談なんだが……しかし凪、チャイムが鳴るまで待てんのか?」

「んぁ……すみまへん」

 しんと静まり返った教室に、どっと笑いが起きる。つられて後ろを振り返ってみると、ふわふわのパンケーキみたいな、生クリームみたいな頭のクラスメイトが食べかけのメロンパンを片手に立ち上がって、その頭をぺこりと下げていた。
 ──凪誠士郎。いつも寝てるかゲームしてるだけの、変わり者の不思議な男子。
 よくない噂ばかり聞くからか、みんな彼とはあまり話したがらない。かくいう私もその一人で、クラスメイトでありながら彼と話したことは今までに一度だってないのだった。




 そういえば入道雲って積乱雲ともいうんだっけ。そんなことを思い出したのは下校中、いつの間にか薄暗い鉛色に変化した不気味な雲が頭上に覆い被さろうとしている時だった。
 湿った生温い風が急に強く吹き抜けたので、これは降るぞと確信した。それでもどこか他人事のように空を見上げていられるのは、私がいつも折り畳み傘を持ち歩いているからだった。
 ぽつ、ぽつ、と雨が降り始める。私は肩から鞄を下ろして手探りで傘を探した。

「あれ…?」

 ない。折り畳み傘がない。そんなはずないと思いながら、この目で確かめるために中を覗く。しかし何度瞬きをしてもそこに傘は入っていなかった。
 動揺して立ち止まる私の脳裏にふと、日曜日の出来事が過る。そうだ。駅前のパンケーキ屋さんに行った時、私はトートバッグで出かけていた。日曜日の朝、スクールバッグからお気に入りのトートバッグに折り畳み傘を移動させたのは、紛れもなくこの私だ。
 雨足が強くなる。アスファルトの濡れた匂いが立ち込めて、分厚い雲の向こう側に一瞬の光を捉えた。この感じはもう絶対にやばいということを、私は知っている。

「嘘だと言ってよ、ジョー!」

 私は走り出した。鞄を掲げたのはせめてもの抵抗だ。
 気まぐれな夏の天気。雨は1分も経たないうちに土砂降りへと変わった。所謂夕立というやつだった。大きな雨粒が身体中に打ちつける。唸るような雷鳴が、押し寄せるように迫っていた。
 けれど、雨宿りをするにはいくらか家が近すぎた。私が住んでいる寮はもうすぐそこに見え始めていたのだ。祈るように足に力を込めて、走る。水溜まりをばしゃんと踏んで、走る。走る。そうして寮の入り口が見えた時だった。
 
(あ、誰かいる…)

 濡れた前髪の隙間から、寮の入り口、軒の下で傘の水滴をバサバサと払っている人物が見えた。
 ふわふわのパンケーキ、生クリーム。見覚えのある白い頭。それはクラスメイトの凪誠士郎だった。
 見知った顔と、若干の気まずさにギクリと肩が跳ねる。彼が同じ寮に住んでいることは知っていたけれど、こうして鉢合わせることは初めてだった。いつもならここでゆっくりと速度を落としていくところだけれど、あいにくそんな悠長なことを言っていられる状況ではない。私はなりふり構わず軒下──凪誠士郎の隣に、半ば滑り込むようにして駆け込んだ。
 ほんの一瞬、目が合ったような気がした。

 鞄にばらばらと打ちつけていた雨音が消えた途端、なんだかここは異様に静かで、息が詰まりそうだった。隣に立っている男がしゅるしゅると畳んだ傘のスナップボタンを閉める音がぱちん、とやけにはっきりと聞こえたからだろうか。

(でか…)

 この人、こんなに身長高かったんだ。そんなことを思いながら呼吸を整えて、額に流れる雨水を拭う。すると突然、目の前の空に稲妻が走った。フラッシュのような閃光に思わずビクッと肩が跳ねる。遅れて、地響きのような雷鳴が心臓を震わせた。

 そんな中、凪誠士郎はゆらりとエレベーターの方に向かっていた。
 もちろん私も乗りたかったのだけれど、なんとなく彼の後をついていくのは躊躇われた。それでもこの状況でエレベーターに乗らないのは逆に不自然でもあったので、私は並んでいるのかいないのか曖昧な距離感で彼の後ろに立って、ずぶ濡れの身体を拭くには頼りないハンカチで首筋や腕を拭っていた。

 チン、と到着の音が鳴って、エレベーターの扉が開く。私は当然のように乗り込む男の背中を見ながら、ああやっぱり見送ろうかと今更怖気付いていた。避けられるのであれば避けたい。これが本音だった。
 思いあぐねてその一歩を踏み出せずにいると、パネルの前に立っていた男が不意に口を開いた。

「乗らないの?」

 ころん、と一粒、雹でも降ってきたかのような声だった。凪誠士郎はどこ吹く風といった顔で、平然とこちらを見つめていたのだ。
 私はうじうじと悩んでいた自分が途端に恥ずかしくなり、「の、乗る…!」と反射的に強がってその小さな箱の中に飛び込んだ。

「……」
「……」

 操作パネルの前に立って「乗らないの?」と聞いておきながら、彼が行き先を尋ねてくる気配はなかった。そのうえ自分の階だけちゃっかり押して、ポケットから取り出したスマホでどうやらゲームなんて始めてしまっているようだった。この男、まるで無関心なのだ。
 私は若干薄気味悪く思いながら腕を伸ばして、数字のボタンを押してから間髪入れずに"閉"ボタンを細かく連打した。

 ゆっくりと閉まる扉に小さく溜息を吐く。今日はなんて日だ。ついてない。この畳み掛けるような仕打ちにはさすがに嫌気が差していた。早く帰ってシャワーを浴びたかった。濡れた肌にべっとりと張り付く制服も髪も、このじっとりとした空間も、何もかもが気持ち悪かった。
 私ははやる気持ちを抑えながら、ゆるりと上昇を始めたエレベーターの中でその数字をじっと見上げていた。


──ガコンッ…

 突然、視界が暗転した。大きな音が鳴って、急停止。それは一瞬の出来事で、暗闇の中で「えっ?」と情けなく漏れた私の声だけが響いていた。
 いったい何が起きたのか、なにひとつ理解が追いつかないまま最初に目に飛び込んできたのは、明るく光るスマホの画面だった。四角く切り取られた小さなゲームの世界は、なんと彼の指先によって止まることなく動き続けていたのだ。

「あー…さすがに死んだ」

 "GAME OVER" と表示された画面を見て、私はようやく状況を理解した。
 消えた照明、急停止したエレベーター、うっすらと聞こえる雷鳴。間違いない、停電だ。ドッと嫌な汗が吹き出してくる。
 "GAME OVER"? 冗談じゃない!

「う、嘘、ねぇ、嘘でしょ…?」

 嘘だと言ってよ、ジョー! 私はまだ死にたくない!
 未だにスマホから手を離さない男の身体を押し退けて、パネルを操作する。開、閉、1、2、3……どのボタンを押してもうんともすんとも言わなかった。

「ど、ど、ど、どうしよう! 嫌だ…!」

 縮み上がった心臓がバクバクと跳ねるように脈を打つ。冷静さを欠いた指先はぶるぶると震えていた。
 すると突然、頭上からカチッと音がして箱の中が明るくなった。非常灯が点灯したのだ。暗闇から解放されたことにまずはホッとしたけれど、その光がまるで悲劇のヒロインを照らすスポットライトのようで、なんだか私はますます惨めな気持ちにさせられた。

「ねぇ」
 不意に、背後から声をかけられる。

「そのボタン、外に連絡できるやつじゃない?」
「え、あ……そっか!」

 下の方にあった赤いボタン。普段気にも留めないからかその存在をすっかり忘れていた。促されるまま慌ててボタンを押してみる──…けれど、何も起こらない。今度は強く長押ししてみる──…やっぱり、何も起こらない。
 非常ボタンが非常時に作動しないってどういうこと!? 込み上げる不安、恐怖、苛立ち…。私はわなわなと震えていた。

「──あ、そうだ! スマホ…」

 男に話しかけられたことで少し冷静さを取り戻していた私は、一番シンプルなことを思い出した。私達は立派な文明の利器を所持しているではないか。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう…!
 希望の光が差し込んで、ポケットから素早く取り出したスマホの右上には、"圏外"の文字。「なんで?」心の声はついに無意識に漏れ出していた。

「あ、凪くんは…!? さっきゲームしてたよね!?」
「圏外だけど」

 さっきのはオフラインゲーム。とご丁寧に補足され、私はガクッと床に手をついて項垂れた。ああ、希望の光が…。どうしてこんなことに? 私がいったい何をしたっていうの? 

「まぁいいや」

 凪誠士郎改め凪くんはそう言って、まるで他人事のようにその場に座り込んだ。それから再びスマホを横にして呑気にゲームを始めたのである。

「ど、どうしてそんなに落ち着いていられるの…? 私達、閉じ込められたんだよ…!?」
「どうせすぐに動くでしょ。別に無人の建物ってわけじゃないし」

 ケロリとした態度。私は呆気にとられて、何も言えなくなってしまった。凪くんはぽかんと立ち尽くす私の隣で「おりゃー」と緩い声を出しながら、すでにゲームの世界にのめり込んでいる。なんなんだ、この生きもの…。

 けれど、もうどうしようもないことも事実だった。これ以上私達にできることは何もない。あっけらかんとしている凪くんを見ていたら、やきもきしていた気持ちが萎んでいくようだった。そうして無力感に包まれた私は最終的にへなへなとその場にしゃがみ込んだのだった。

「うりゃ」
「……」
「んぁ、ヘッショ決まらん」
「……」

 お気楽な独り言を聞きながら、私は小さくうずくまっていた。
 傘を忘れて、雨に降られて、びしょ濡れで、クラスメイトの、一度も話したことのない奇妙な男とエレベーターに閉じ込められて…。こんなの、あんまりだ。今日4限目をまともに聞いていなかったから、バチが当たったのだろうか。

「──へっくしょんッ!」

 突然の寒気にぶるりと身震いして、腕をさする。雨に打たれてしばらく経ったせいで少し寒くなってきた。もしこのまま長時間閉じ込められることになったら、風邪を引いてしまいそうだ。私は膝を引き寄せて、冷えた身体をさすった。

「寒いの?」
 ふと顔をあげると、スマホを持ったままの凪くんと目が合った。

「うん…でも大丈夫」
 打ち明けたところでどうしようもないし、と鼻を啜ったら、何やら凪くんがリュックの中をごそごそと漁り出した。

「これ、着なよ」

 そう言って変わらぬ無表情で差し出されたのは体育の授業で使うジャージだった。「え」と戸惑っていると、凪くんは「俺、今日サボったから使ってないし」と見当違いなことを言った。

「い、いや、でも濡れちゃうし、」
「別にいいよ」
「でも…」
「まあ、どっちでもいいけど」

 凪くんは私の膝の上にぽんっとジャージを放って、それから再びゲームを始めてしまった。
 選択を委ねられた私はしばらく狼狽えて、けれどそうしているうちにもう一度くしゃみが出てしまったので、やむなくそのご厚意に甘えることにした。
 意外だったのは、私が上を羽織って、下を履く時、ゲームは止めないものの、凪くんがさりげなく身体ごと後ろを向いてくれたことだった。そういう気遣いはできるんだ、とますます彼のことがわからなくなったと同時に、ちょっとかわいいな、とか思ってしまったり。

「あの、ありがとう凪くん」
「うん」

 凪くんのジャージはすごく大きい。そりゃああんなに身長が大きいのだから当然と言えば当然なのだけれど、袖は上も下も大袈裟なほど余ってしまうし、上着はおしりの下まですっぽり覆ってしまうものだから驚いてしまった。私はだぼだぼの裾をなんとか捲りながら、目の前の男子との体格差をありありと見せつけられたことに不覚にもドキドキしてしまっていた。
 ふわっと鼻をくすぐる、私のとは違う柔軟剤の香り。凪くんってこんな匂いがするんだ…。落ち着く香りに無意識に顔を埋めてしまいそうになり、慌てて首を振る。──いやいや、何考えてるの私…!?
 相手はあの凪誠士郎だ。今までときめきの"と"の字もなかったような相手にドキドキしてしまっていることが信じられず、私は必死で言い訳を探していた。きっと何もかも、この異常事態のせいだろう。

「苗字さんって」
「えっ!? な、なに…?」
 突然名前を呼ばれてビクッと肩が跳ねる。

「寒がりなの?」
「え…?」
「膝掛け、夏でも使ってるよね」

 思いがけない言葉にこれまたびっくりして、目をぱちくりと瞬かせた。私のこと、知ってたんだ…っていうか私の名前、知ってたんだ…。それは本当に予想外で、「うん、夏、冷房、寒いし」とカタコトに返事してしまうくらいには衝撃的だった。

「そう?」
「うん、そう」
「ふーん」

 凪くんはそれきり口を閉ざして、ゲームの世界に戻っていった。再び訪れた静寂に、鳴り止まない雷鳴が遠くの方から聞こえていた。

「……全然、動かないね」
「うん」
「…あとどれくらいで動くかなぁ」
「んー」
「誰か気付いてくれたかなぁ…もう誰か助けようとしてくれてるかなぁ」
「…ねぇ、」

 不安な気持ちをぽつりぽつりと打ち明けていたら、じとっと見つめる瞳に突然遮られてしまった。

「ちょっと静かにしてくれない?」

 えぇ…急に冷たいじゃん。なんなのこの人…。ほんの少し凪くんのことがわかったような気がしたのに、やっぱりまだまだよくわからない。
 さっきは自分から話しかけてきたくせに…と不貞腐れていると突然、エレベーターの上の方からガコンッ、と音が鳴った。

「え、な、なに!?」

 動き出すのかと思いきや、それきり何も起こらない。しん…と静寂に包まれて、私の心臓はドッドッと再び騒ぎ出した。
 故障?異常?急降下? こ、こわい…!
 よくない光景ばかりが次々に思い浮かんで、私は途端に足がすくむような気持ちになった。

「……もう、やだ」

 膝を抱えて縮こまる。早くここから出たい。閉鎖された空間と、耳を塞ぎたくなるくらいの静寂。まるで世界から切り離されたようで、孤独感に押しつぶされそうだった。もはや、この世界には私達だけしかいないんじゃないかとすら思えてくる。助けなんて来なくて、もう一生ずっと出られなくて、このままここで死んでいくんだ。
 なんでもっと早く帰らなかったんだろう。なんで傘を忘れたんだろう。なんで雨宿りしなかったんだろう。正常に働かない頭の中で、私はぼんやりと今日の行動を悔やんでいた。
 お腹空いた…。駅前のパンケーキ、もう一度食べたかったなぁ…。

 ぽろ、と知らぬ間に涙が零れていたことに気付いたのは、凪くんが少しだけギョッとした顔でこちらを見ていたからだった。
 この数十分の間に起こった出来事は、私のちっぽけな頭の中では整理しきれなかったみたいだ。情けないけれど、涙が止まらなかった。

「苗字さん、どうしたの?」
「ぅ、っごめん…気にしないで」
「えー…」

 凪くんの面倒くさそうな表情に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。私はもう子どもではないし、普段あまり人前で泣くことはないのだけれど、一度溢れた涙を止める術を知っているほど大人でもなかった。

「……」
「…っ、ぅ、…ぅう…」
「……あー」

 居心地が悪くなったのか、凪くんが明らかにそわそわし始める。ごめん、本当にごめん。でも、気持ちが落ち着くまでこのままそっとしておいてほしい。心の片隅で凪くんのことを気にかけながら、私は借りたジャージを汚さないように涙を拭っていた。

「……ぼのぼの、見る?」
「……え?」
「ぼのぼの」

 突拍子もないことを言った彼がそうしてぶっきらぼうに見せてくれたのは、"ぼのぼの"というゆるいキャラクターのゲーム画面だった。

「なに、それ……」
「ぼのぼの」

 いやそうじゃなくて…と思いつつ、しゃくりあげている中で会話をするのも億劫で、私はぼのぼのが手を振っているスタート画面をぽかんと見つめていた。

「来て」

 凪くんがちょいちょいと手招きする。私は素直に従って、彼の隣にぴたりと並んで一緒にスマホの画面を覗き込んだ。
 凪くんが慣れた手つきでゲームを始める。パズルゲームのようだった。ぼのぼのがころころと転がって、パズルがどんどん進められていく。素人の私から見ても、凪くんが上手なのだということがわかる。しかしぼのぼの…かわいいけれど、私はいったい何を見せられているのだろう。
 ちらりと横顔を盗み見る。何を考えているのかわからない相変わらずの無表情だったけれど、私の涙はいつの間にか止まっていた。

「…あの、凪くん」
「なに?」
「もしかして、慰めようとしてくれてる…?」

 わかりづらい彼の気持ちを確かめたくてついつい口にしてしまったけれど、それはまさに図星だったようだ。ギクリとわかりやすく止まった指先。そのせいで、うまくいっていたはずのパズルがどんどん崩壊していった。
 あー…と思いながら画面を見ていると、凪くんがぎこちなく、ぼそっと呟いた。

「…そうだけど」

 なんか文句ある? とでも言いたげな、不機嫌な声。
 なんて不器用な人。かわいいものを見せておけば泣き止むだろうなんて、安易な、まるで小さな女の子を扱うかのような接し方に、思わず笑みがこぼれてしまう。
 ぼのぼの、ぼのぼのね。確かにかわいいけれど、今の私には凪くんの方がよっぽど──。

「って、あぁ! 凪くん、ぼのぼのが連れて行かれちゃうよ…!」
「あーしまわれちゃうね」
「しまわれちゃう!?」
「うん、しまっちゃうおじさん」
「しまっちゃうおじさん!?」

 結局ゲームオーバーになってしまい、ぼのぼのは"しまっちゃうおじさん"に連れて行かれて、何やら狭いところに閉じ込められてしまった。なにこれかわいそう…と同情しつつ、なんだかその姿がまるで今の私達のようで、同時にデジャヴのようなものを感じた。

「私達も、しまわれちゃったのかな…」

 なんて冗談を言った時、ふと至近距離でぱちりと目が合った。
 ヘーゼルの瞳が、とても綺麗だと思った。今まで凪くんの顔をあまり近くで見たことがなかったけれど、案外綺麗な顔立ちをしているんだなぁと思った。眠そうだけど、大きな瞳。つんと尖った鼻先。透き通るような白い肌。あれ、凪くんってちょっとかっこいいのかも、なんて。また胸がときめいたりなんかして。

「…なに見てんの」
「…凪くんこそ」
「苗字さんが百面相してるから」
「あ…うん。なんか凪くんのおかげで元気出てきたかも」

 ありがとう。そう言って微笑むと、凪くんは「どーも」なんてまたぶっきらぼうに目を逸らして、それから早々にぼのぼのをスワイプすると、さっきまでやっていたシューティングゲームに切り替えてしまった。

 そうだ。こんな時だからこそ、好きな物や好きな事、なんでもいいから元気が出るようなことを考えるべきだ。
 そう思い直して、私はスマホの写真アルバムを開いた。友達と出かけた時のこと、楽しかったこと、プリクラ、駅前のパンケーキ…。写真を見返すと、自然と笑みがこぼれていた。やっぱり、私はまだまだこんなところで死にたくない。絶対に生きて、ここから出るんだ!
 大袈裟に自分を奮い立たせながらそれでもぴたりと隣に並んだ彼から離れられないのは、まだほんの少し怖い気持ちを紛らわすため…だと思う。

「なにそれ」
「あ、これ? スフレパンケーキだよ。この間食べたの」
「ふーん」
「凪くん、甘いもの好き?」
「…まぁ」
「いつもメロンパン食べてるもんね。やっぱりパンの中ならメロンパンが一番好きなの?」
「……」

 急に饒舌じゃん、うるさ。そんな目をしているような気がしたけれど、気付かない振りをした。もともと私はお喋りが大好きなのだ。

「そういえば凪くんっていつも寝てるけど、勉強ついていけてるの?」
「…ねぇ、質問多すぎ。めんどくさいよ」
「えぇ…いいじゃん別に」
「なんでそんなどうでもいいこと聞くの?」
「だって凪くんって謎に包まれてるから…知りたくなっちゃったんだもん」
「…なにそれ」

 苗字さんって変わってるね。凪くんはそう言って変なものを見るみたいな目で私を見下ろしたけれど、それ、あなたには一番言われたくない台詞なんだけどな…。

 ──ゴゥン…

 突然、機械音が鳴った。同時にパネルの数字が点灯して、エレベーターがゆるりと動き出す。

「あ、動いた…」

 それはまるで何事もなかったかのように私達を運んでいく。なんだか夢のようにふわふわとした浮遊感の中、何事もなかったかのように凪くんが立ち上がるから、私も何事もなかったかのように立ち上がった。

 チン、と到着の音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。凪くんの階だった。凪くんは何も言わずにふらりと歩き出してエレベーターから降りていった。

「あ、あの…!」

 思わず引き止める。振り返る、大きな背中。ふわふわのパンケーキ。生クリームみたいな、白い頭。

「ばいばい、凪くん。また明日」

 ひらひらと振った手のひらに返ってきたのは「うん」の一言。それだけなのに、私の冷え切った身体は十分すぎるくらいにほっこりと温まっていた。

 エレベーターの扉が閉まって、彼の姿が見えなくなる。その瞬間、どっと疲労感に襲われて、私はその場にへなへなとしゃがみ込んでしまった。
 ドキドキと胸の高鳴りが止まない。これは不安か、恐怖か、緊張か?──確かに怖かった。エレベーターに閉じ込められるという出来事は、今まで平和に生きてきた人生の中で一番死を身近に感じた出来事だったし…。けれど、今の気持ちはもっとこう、なんか違うような気がするのだ。

 こっそりとジャージの袖に顔を埋めてみる。知らなかった柔軟剤の香り。凪くんのこと。ぼのぼのからシューティングゲームに切り替えた時、彼の耳がほんの少し赤く染まっていたこと。凪くんのことを思い浮かべるだけで、胸の奥がきゅんと切なくなって、ドキドキと鼓動が速くなる。なんか、まるでこれって…。

「嘘だと言ってよ、ジョー…」

 がくりと項垂れる。まさかこんなことになるなんて。
 ああでも、こういうのってなんていうんだっけ。感情を誤認するとか、そういう心理効果がどうとか、なんか最近どこかで聞いたことがあるような気がするのだけれど、私はちっとも思い出せなかった。

 ジャージは洗濯して返そう。それから死ぬ間際にもう一度食べたかったと後悔したパンケーキをまた週末に食べに行こう。もしも、お詫びに奢るからと口実をつけて誘ったら、あの面倒くさがり屋の彼は快く頷いてくれるだろうか。

back