嫌いましたか?

ENMASAMASUMMER0803

「イヴ!」
 破裂するような声で彼がこちらの腕を掴む。杖が音を立てて地面に落ち、唸りを上げるその生き物がクルスに襲いかかった。状況を把握するより前に、目の前に広がる赤を本能が理解する。
 クルスと夕飯を食べる約束をして、待ち合わせをして、そして美味しいご飯を食べた。幸せな一日の終わりになるはずだった。今日は賭場にも向かわず、このまま家に帰ろうと思っていた。それなのに、なぜ?
「クルスさま!」
 彼がなんとかその生き物から離れたところに、落ちた杖を持って駆け寄る。暗い中でもわかる。彼の肩から血が流れている。心臓がドクン、と音を立てて鳴った。彼の怪我をしていない方から体に手を回して、逃げることを促す。少しだけ怯んだその生き物は、隙ができていた。
「すぐ教会です、少し我慢できますか」
「ああ、大丈夫だ」
 背中からうなり声が聞こえる。振り返る暇もない、とりあえず今は安全な場所へ。それしか頭になかった。

 荒々しい音を立てて教会の扉をあけ、中に駆け込む。振り返って扉を閉めようとした先に、あの生き物がいた。どうか、中には入って来ませんようにと祈りながら教会の扉を閉めた。中から鍵を閉め、杖をそばに置くことも忘れずにクルスをベンチに座らせる。
「クルスさま、お怪我の具合は……!」
「大したものじゃ……っ」
「申し訳ありません、わたくしが不注意だったばかりに……。すぐに応急処置いたしますわ。上の服は脱げますか?」
「はは、悪いな」
 彼をその場に残して教会の奥へ行く。事務所のような場所に確か置いてあったはずの救急箱を探し出し、中を確認した。包帯と消毒液。教会の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してまた駆け戻った。
「お手伝いいたしますわ」
 服を脱ごうにも、怪我と盲目が邪魔をして苦戦しているようだった。できる限り痛みを感じさせないよう、ゆっくり服を脱がせていく。
「少ししみるかもしれませんが、我慢できますか?」
「ああ、大丈夫だ。……子供じゃないぞ」
「ふふ、そうでしたね」
 まずは水をかけて血を洗い流す。まだ閉じていない傷にしみるのか顔を歪める彼に、申し訳ありません、と呟いて消毒液を少量垂らす。噛まれたのだ、深くないわけがない。応急処置だけではダメだ、病院に連れて行かなくては。もう一度水をかけて水気を取ってから包帯を巻く。動かせないように固定して首から布を下げた。
「病院に行かなくては……」
「今外に出るのは危険だろうな」
「ええ……居住区まではまだもう少し距離がありますし、わたくしだけでは……」
「すまない、俺が鈍臭いばかりに」
「いいえ、いいえ。違いますわ。クルスさまはわたくしのことを守ってくださったのですわ、謝るのはわたくしの方でございます」
 慌てて訂正すると彼が困ったように笑った。怪我をしていない方に自分も座って肩と肩をくっつける。
「クルスさま、一夜だけでございます。この教会で夜を過ごしましょう。陽も登れば人も起きて参ります。まだ狼がいても、病院への道のりは夜より安全でございましょう」
「そうだな。多分それがいい」
 自分の提案に快く頷いた彼に安心して胸をなでおろす。あの狼はなんだったのか、なぜこの街に人を襲うものがいるのか、そういう疑問が浮かび上がるけれど、教会の中の静けさがそんな不安や焦りを拭って行く。
「あ」
 カラン、と音を立てて、クルスの杖が床に転がった。それは静寂を切り裂く一つのナイフのようでもあり、扉の開く音のようにも見えた。立ち上がってそれを拾う。布の動く音が聞こえたのか、クルスはありがとう、すまない、と呟いた。
 なぜ自分でもそう思ったのか。教会の中は暗くて。月もろくに出ていない、外の街灯の明かりしか入ってこないその空間ならば、少しは許されるのではないかと思った。杖を持ってそのまま、クルスの隣へ戻る。それを私の方に置き、彼の手にそっと触れた。
「どうした?」
 彼の優しげな声は、いいよ、と、言われているようで。そのままでいい、と、■■■に言われているようで。
 そっと頭のヴェールに手をかける。窮屈なそれをゆっくり頭から引き剥がした。その表紙にまとめた髪が解けて肩の上にそれが落ちた。
「イヴ?」
 ずっと返事をしなかったせいか、彼が心なしか不安げな声を出した。
「おりますわ」
 彼の腕に触れると、ああ、と彼はいう。露わになった私の顔がどうなっているのかも知らずに、彼の何も映さないガラス玉が二つ、こちらを向いた。焦点は合わない。だから私と目は合わない。彼は鏡ではない。赤の布ごしに人の顔を見たのはいつぶりだろう。
 触れていた手を取って動かせば、彼は素直にこちらの動きに従った。手のひらを開かせて、*に触れさせる。

「嫌いましたか?」



クルスさんに顔を見せる。