その日は偶然、教会にあるものを忘れてしまったのだった。
賭博場でひとしきり遊び、今日はちょうど程よく勝ったのでだいぶ足取りは軽い。部屋に帰る前に教会に寄って忘れ物を取りに行ってから帰るのもいいだろう。夜の涼しい空気が肌に心地よい。夜の教会はどこか、寂しそうで、しかし厳かで、そこにそびえ立っていた。
ゆっくり教会の戸を開けて中に入る。月明かりに照らされたステンドグラスから、淡い光が教会の中に反射していて中は視認する程度なら叶う明るさだった。ほんの少しの不気味さを静寂の中に感じながら、忘れ物を探す。
「やあ」
突如響いたその言葉に半ば体を跳ねさせて振り返る。そこには、そう、そこには、なんだかまるで赤い天使が舞い降りたかのような。
「こんな時間まで熱心だね」
続けられた彼の声でハッとする。天使ではない、人間だ。街で見かけたような気がするが記憶は定かではない。薄暗い部屋の中で、彼の瞳がキラリと光ったような気がした。彼の姿が月明かりの逆光となってこちらを見ている。
「あら、あら、こんな夜更けに教会にご用でございますか? ふふ、物珍しい方もいらっしゃいますわね」
「たまにお邪魔するんだ。この時間にも」
軽い足取りで、彼はゆっくりとベンチの間を縫うようにして歩いた。大きなマリア像の前まで行くと、こちらを振り返る。自分はその姿をただ目で追うだけだった。
「きみとは、初めてあったね、兄弟」
「兄弟? ふふ、おかしなことをおっしゃいますわ。わたくしはわたくしでしてよ」
彼は私の言葉など気にしていないかのように、マリア像を見上げた。その姿は先ほど思った通り、まるで。
「天使のようですわ」
「え?」
「宵闇に紛れる天使さまのようでございますわ。そう、見えましたの」
「ははは、そんな。天使だなんて烏滸がましいよ」
その時、雲間から月が現れたのか彼のニッコリとした笑顔がその下に晒された。可愛らしい、少し幼く見えるその笑顔が、さらりと揺れる髪の下にある。
目当てのものを見つけて手に取ると、彼に向けて声をかける。
「わたくしはそろそろ帰りますわ。あなたさまもあまり、夜更かしはしませぬように」
「ああ。……よければ、また」
「ふふ、そうでございますわね」
教会の戸を開けて外に出た。そういえば、彼の名前を聞き忘れてしまったな、と思い出したのは、帰宅して夢の世界に落ちる少し前のことだった。