風邪っぴき(伊吹藍)

 —―おかしい。絶対におかしい。
 仕事から開放された休日の午後。ソファの上で膝を抱えてスマホの画面を眺める。トーク画面を開けたり閉じたり、挙句の果てにはスマホを叩いたり振ったりしている様子は、傍から見ればかなり不審だろう。私だって、いつもならこんなことしない。
 これには訳がある。お付き合いしている藍くんからの連絡が、昨日の昼から途絶えたままなのだ。……別に普通だって?確かに世間一般から見たらそうなのかもしれない。でも、私たちにとっては普通ではないのだ。
 藍くんは頻繁にメッセージを送ってくれる。その日に食べたうどんの話とか、最近買ったスニーカーの話とか。日々の些細な出来事をお裾分けしてくれて、それに私がリアクションをするのがいつもの流れ。仕事が忙しくてもそれを欠かすことはなくて、会えない時間があっても、藍くんを身近に感じていられる。
 そんな彼が、一日以上メッセージを放置するなんて初めてのことだった。トーク画面でのやり取りは、私から送った『明日は二人とも休みだし、どこか出かける?』を最後に止まっている。藍くんからの既読は未だつかないまま。何か事件が起こって手が離せないのかな、と考えたけれど、仮にもしそうだった場合、藍くんは必ずその旨の連絡をくれるから、多分そうじゃないんだろう。
 若干の不信感を振り払って、トーク画面を閉じる。このまま待っていても状況は変わらないなら、自分から動く方が得策だ。


 というわけで、やって来ました。藍くんの家。
 あの後ダメ元で電話をかけてみたけれど、やっぱり繋がらなかった。今からそっちに行くねとメッセージを送ったものの、やっぱり既読はつかない。
 これで誰もいなかったら、諦めて藍くんからの連絡を待とう。そう決めて、鞄から合鍵を取り出す。付き合って暫くしてから、藍くんがくれた鍵だ。「恋人っぽくていーじゃん?」そう言って嬉しそうに笑っていた彼の顔を思い出す。

「お邪魔しまーす……」

 扉を閉める音がやけに響いた。カーテンが閉まったままなのか、お昼過ぎだというのに部屋の中は陽の光が絞られている。藍くんがいないだけで部屋がどことなく寂しそうで、部屋の主を探すべく奥へと足を踏み入れた。

「藍くん、居たら返事してー」

 ごそり。声に反応するように、視界の隅で何かが動いた。視線を向ければ、盛り上がった布団がもぞもぞと動いている。

「藍くん?」
「ん……」

 くぐもった声が布団の中から聞こえた。藍くんの声だ。いつも朝が早い藍くんが寝坊だなんて珍しい、そう思いながら近づいて、ぽんぽんと布団を叩く。

「藍くん起きて。もうお昼過ぎてるよ」

 声を掛ければ、ひどく緩慢な動作で藍くんが布団から顔を出した。ふわふわとした視線が私の顔を捉えて、不思議そうに瞬きを繰り返す。普段きゅるきゅると動く表情とは違って、無防備にこちらを見つめる藍くんが実年齢より幼く見えて可愛い。潤んだ瞳には熱が浮かんでいて、ほんのり色づいた頬が何ともまた…………ん?

「藍くん、なんか顔赤くない?」
「あれ、名前ちゃんがいる……」
「あ、うん。愛しの彼女が会いに来ちゃいました」

 不思議そうな顔をしていた藍くんは私の姿を認識すると一転、表情を緩めて嬉しそうに目を細めた。そのあまりのかわいさに胸の奥がぎゅんとなる。布団の中から出てきた手が、私の手を取って指を絡ませる。肌から直接伝わる体温はいつもより高い気がして、私の冷えた指先にじんわりと熱を移していった。しばらくそのまま満足そうにしていた藍君だったけれど、不意に何かに気づいたのか、突然手を放して鼻まで布団を引き上げた。

「……ゴメン。来てくれて嬉しいんだけど、俺風邪引いちゃって。あー、うつすと悪いから……、帰った方がいいかも」

 ぼそりと布団越しにつぶやかれた言葉は弱々しくて、普段の藍くんからは考えられないような声色だった。その声は寂しい、傍にいてと言外に示しているのに、どうやら優しいこの人は私の身体のことを考えて帰そうとしているらしい。……私のことを何だと思っているのだろうか。

「藍くん、その感じだとまだ何も食べてないよね?」
「え?うん、薬飲んだだけ。……いや待って、看病とかしなくても俺大丈夫だよ、」
「私がやりたいの。買い物してご飯作った後は静かにしてるし、うつらないようにマスクするから」

風邪で弱っている人を置いて帰るほど私は冷たい人間じゃない。苦しんでいる恋人の傍にいることの何が悪い。おせっかいだと鬱陶しがられてもいい。この暗い部屋でひとり藍くんを残していくことはとてもじゃないけど耐えられなかった。

「寂しかったら甘えていいし、しんどかったら頼っていいんだよ」

 だって藍くんが大切だから。この思いが少しでも彼に伝わってくれたらいいと思う。
 とりあえず冷蔵庫の中身を確かめるべく腰を上げようとすれば、服の裾が控えめに引っ張られて名前を呼ばれた。

「……俺の両親共働きでさ。ガキの頃熱出してもひとりで寝てるしかなかったから。だから、看病するって言ってくれて嬉しかった。ありがとね」
「ふふ、どういたしまして」

 どうか早く元気になりますように。そんな願いを込めてこの後作ったお粥が史上最高の出来だったのは、まあわざわざ言うことでもないだろう。