紫煙を燻らせる(志摩一未)

 煙草を引き抜いて口に咥え、ライターの火を点けた。肺一杯に吸い込んで、空を仰ぐように吐き出せば、唇の間から白い煙が広がって、やがて消える。月が不在の夜空には星すら瞬いていない。明るくて暗い、東京の空の下。

 四機捜の喫煙者は私だけで、もともと喫茶店だった分駐所に喫煙スペースだなんて気の利いた場所はない。芝浦署になら喫煙所があるけれど、煙草を吸うためだけにわざわざ隣のビルに移動するのは面倒だった。
 そこで、喫煙場所として白羽の矢が立ったのがこの屋上。四機捜の人たちはベランダを使うから、ここには滅多に人が来ない。呼び出しがあったらすぐに戻れるし、人の目も気にならない、この場所が結構気に入っていた。こいつに見つかるまでは。

「お前、また煙草吸ってんのか」

 夜風に乗って運ばれた、やや呆れの混じる声が咎めるように言う。振り向かなくたって声の主は分かる。志摩だ。

「今日はまだ一本目。そっちこそまた屋上来たの?」
「伊吹がうるせえから逃げてきた」
「うわー伊吹可哀想じゃん」

 携帯灰皿の縁で煙草を叩き、まだ長くなっていない灰を落とした。志摩が来たから、この分だと喫煙タイムはもう終わりになりそうだと、ぼんやり考える。
 いつの間にか隣に来ていた志摩が、柵に背中を預けて夜空を仰いだ。私もつられて視線を辿れば、チカチカと光る赤い点が目に入る。
 やっぱ星は見えねえか。
 徐々に移動していく光を見つめながら、志摩が呟いたその言葉は、夜の空気に溶けて消えた。

「東京の夜って明るいよねえ。地方の田舎だとよく見える星が、ここだと全然見えない」
「よく言われるよな、それ。東京育ちの俺からしたらこれが普通だけど」
「そっか、志摩は東京出身か」

 そういえば、地方から上京した頃は、夜に空を見上げても星が見えないのが違和感しかなくて、空を見上げる度に寂しく思ったっけ。その手に煙草を握るようになったのはいつからだったか、もう覚えていないけれど。
 指の間に挟んだ煙草をぶらぶらと動かす。志摩が来たから吸うのをやめようかと思ったけど、やっぱり一回しか口をつけないのは勿体ない。何も言われないし大丈夫か、と再び煙草を咥えれば、横から刺さる志摩の視線を感じた。鬱陶しい。

「…… 何」
「別に? 煙草吸うのかあと思って」
「あーはいはい、分かった分かった。吸わなきゃいいんでしょ」

 ちぇ。心の中で舌打ちをして、煙草を灰皿に押し付ける。屋上で煙草を吸っているのを志摩に見つかってから、満足に煙草を吸わせてもらったことがないのだ。バレないように分駐所を出ても、志摩は必ず屋上に現れる。今みたいに。

「志摩うざい」
「は?」

 素直にそう言えば、志摩の眉間に皺が寄ったのが分かった。私は肩を竦めるだけ。だって志摩がうざいのは本当のことだ。

「いいでしょ別に。私が煙草吸ってたって」
「身体に悪いだろ」
「それは分かってるけどさあ。ストレスの多い現代を生きるのには必要なわけ」

 分かっているのだ。煙草が身体に悪いなんてこと、今どき小学生だって知っている。
 煙で胸を満たして、目の前のやり切れない現実から目を逸らして。残るのは虚しさと汚れた肺だけで、生み出されるものなんて何もないのに。それでも吸い続ける私は、志摩の目にはさぞ愚かに映っているのだろう。
 すっかり火の消えた煙草をくるりと手の先で回す。隣で志摩が動く気配がした。

「それ、俺じゃ駄目なのか」
「何が?」
「煙草の代わり」

 横から手が伸びてきて、煙草を奪う。いきなり何をするんだ。そう抗議しようと振り向けば、思いの外近いところに志摩の顔があって、息を呑む。

「ふざけてる?」
「ふざけてない。俺は本気だ」

 離れようと一歩後ろに下がれば、距離を詰めようと志摩が一歩前に出た。徐々に追い詰められて、逃げ道がなくなって、柵に背をつける。どうにか距離を取ろうとしても、私を閉じ込めるように柵に両腕をついた志摩によって、身動きすら取れない。
 視線から逃れるように顔を下に向ければ、彼によって握りつぶされた煙草が視界の端に入った。

「なあ、俺にしろよ」

 耳元で、甘く掠れた低音が囁く。ぞわりと背中に痺れが走って、反応するようにぴくりと肩が跳ねた。
 見なくたって分かる。今、絶対私の耳は赤い。

「ちょっ、はな、れて」
「やだ。返事するまでこのまま」

 楽しげに、志摩が更に耳元に口を寄せる。わざとだ。分かっていてやっているんだこいつは。こっちはキャパオーバー寸前だというのに。

「分かった、分かったから! 煙草、やめるから」

 だから、離れて……。絞り出した声は震えていたと思う。もう限界だと胸を押し返せば、志摩はくつくつと喉の奥で笑いながら離れた。
 志摩に促されるまま、煙草のパッケージと携帯灰皿、ライターを志摩の手に乗せる。
 まだほとんど中身残ってるのにな……。
 やっぱりちょっと惜しくなって、未練がましく見つめる。その視線に気づいたのか、志摩がにやりと笑ってこちらを見た。

「口が寂しくなったらキスしてやろうか?」
「結構です!!」

 調子にのんな、そう言おうとした言葉は、発せられることなく飲み込まれた。近づく顔と、唇に触れる柔らかい感触。
 結構禁止。そう言って悪戯っぽく笑った彼には、多分、この先も一生敵わない。