いなくなった最愛
「レイノ、ちゃん…」
つう、と頬を伝うのは自身の血、これは目の前の少女によって出て来たものだ。しかしファイはそれを拭う事はせずに蒼い瞳を見開かせ、ただただ彼女を見つめる事しか出来なかった。今まで追い求めていた温かさも、恋い焦がれていた柔らかな瞳も、全てが消え失せている。ふれたくて堪らないそのぬくもりも、今はもう冷たく彼を拒んでいた。
「…私は、『レイノ』じゃない。ソールよ」
「っ…ちがう! きみは今まで一緒に旅をして来た、オレの…オレ達の仲間だろう」
「私が旅をして来たのは父さまだけ。ふざけたこと言わないで」
「ふざけて…? 何をばかなこと、――」
「――だから申し上げたでしょう? ここに『レイノ』などはいない、と」
ファイの背後に聳え立つ壁に太刀の先端を突き立てた少女――自身ではソールと名乗っていた――は、冷徹な瞳を携えて、彼に厳しい視線を注いだ。ゆらゆら、と揺らめく気持ちに気付きながらも、彼は必死に彼女に声を掛ける。しかしその後ろに近付く男に、彼女は嬉しげに身体を委ねたのだ。その行為を静かに受け入れた男は光に反射された彼女の金髪をひと房手に取り、それにそっと口付ける。――はらわたが煮えくり返りそうだ。
「いないんじゃない…消したんでしょう、貴方が」
「消した? …いいえ、消えたんです。ねえ、ソール」
「あ…ッ」
「ッ、止めろ!」
ギリ、と拳に力を入れると、掴んでいた髪飾りの欠片がカラ、と音を立てた気がした。そちらに目も向けずに目の前に立つ男を睨み付けるが、その彼が笑みを崩す事はない。それどころか、ソールの身体のラインに沿って、するり、と腕を這わせたのだ。その際に響いた彼女の嬌声はファイの羞恥心を酷く煽り、初夜の記憶を蘇らせる。――アレを「初夜」と呼んで良いのかは少しだけ疑問だけど。
「この美しい身体も、顔も髪も全て、――私の魔力の結晶です」
「何を、言って…」
「私だけのものです。それを人間風情が穢すだなんて、傲慢にも程があります。――ファイ・D・フローライト…いえ、本名はユゥイ、でしたか。呪われた運命を持った身としては、あの『レイノ』とはある意味、お似合いなのかもしれませんね」
「まさか、貴方が…」
「けれどこの身体はソールのものだ。誰にも渡さない」
微かに感じ取る事が出来る温かな太陽の魔力も今ではもう残り少ない。その代わりに増えるのは、ビリビリ、と嫌に激しさが増した太陽の魔力だ。それはきっと、レイノが使いこなす事は出来ないのだろう。後ろからソールを抱き締める男は先程の温和な笑みを隠し、顔に影を作る。その闇の深さは他人には分からない。しかし、それこそが彼の本質の様な気がしてならないのだ。
「――人間風情の『レイノ』にも、絶対に」
その執着こそが、男が生きる「全て」ではないのだろうか。
その昔、とある男が国を一つ創り上げた。その名をヘリオポリス、「太陽の国」が由来だ。創立者である男――名をフレイと言う――の魔力で成り立っているその国は、彼の魔力が尽きるまで滅びる事はない。その国は「太陽の国」と言う名に相応しく草木は生い茂り、花々は輝きを生んで行く。その恩恵を受けようと、様々な国から人が移住して来た。そのお陰でヘリオポリスには活気が生まれ、人々で酷く潤ったのだ。
しかし、フレイは満足しなかった。寂しかったのだ。寂しさのあまり、神と言う身の上でありながらも人間に何かを求めようとしたのだ。しかし、そんな事はあってはならない。そう思ったフレイは自身の分身を創る事を決めた。
『子どもが、欲しい……』
しかしその途中で、その様な願いが自身の中に芽生えたのだ。適当な人間を捕まえて、神気をもって子を孕ませる事は出来る。しかし、それでは意味がない様な気がした。何時の日かに街中で見掛けた親子の様に、幸せな笑顔を浮かべるのは無理な気がした。だからこそ、フレイは自身の力で人型を創り上げるのだ。
そっと腕を前にやると、足元には橙色の魔法陣が広がる。大きな四角形が二つ連なっては星を作り、その中心には三日月が描かれていた。そこから外側に広がっている模様は何やら複雑で、遠目からは何が描かれているかは分からないだろう。そしてその四隅には、小さな三角が円を描いている。そこに立ったまま、フレイは空中に何かを書き始めた。そして、それが書き終わる頃には彼の目の前に、人型が姿を現していたのである。
『目を開けなさい』
フレイがそう命じれば、目の前の人型はそっと瞼を上げて行く。そして現れた瞳は輝かしい程に黄金(こがね)色を示していた。そっと肌に触れれば感触は滑らかで、この世の汚れなどは知らないようである。その肌を纏う様に伸びている金の髪は酷く柔らかい。きょろきょろ、と周りを見渡す少女は何処からどう見ても「神の娘」だ。
『私が貴女の父親です』
『ち、ち…おや』
『何でも頼って下さいね、ソール』
『そー、る…?』
『貴女の名前です。貴女が貴女である証として、名を送ります』
フレイは、何処か不安げに目を伏せる少女と目線を合わせる為に跪き、そっと笑みを浮かべた。そして何気なくひと房の髪を手に取り、それに指を通らせる。初めての感覚に肩を竦める彼女がどうも愛らしくて、彼は目の前の幼子に対して「ソール」と、名を付けた。嬉しそうに目を輝かせる彼女を見て、自身も感じた事のない思いを抱いたのだ。
『これからよろしくお願いしますね、ソール』
『……側にいる、ね。とうさま』
人間の言う「慈しむ心」が、初めて分かった気がしたのだ。
「ぐ…っ」
短い呻き声を上げながらも、ファイが視界に映すのは誰も知らないソールの記憶だ。おそらく、今の彼女に「感情」と言う全てを教えたのはフレイなのだろう。――オレにとっての王だったように、ソールにとってのフレイもかけがえのないものだ。けど、その人格を出す為に、レイノちゃんを犠牲にするのは間違ってる。あの子だって今まで何度も挫折して、その度に助けられて、でも泣いて。それでも前に進む事を諦めなかった強い子だ。そんな子を「いらない」と言う資格は、貴方にはない。
その言葉を伝えて何かが変わるのかと問われれば、答えは否だ。変わるかも知れないし、変わらないかも知れない。けれど、前者の方が圧倒的に可能性は高いだろう。それでも、どうしても諦めきれなくて、ファイは端に転がった鉄パイプでソールの一撃を受け止める。しかしその行動のせいで隙が出来た腹部に足技を喰らい、彼は思わず咳き込む事になった。その瞬間、ファイの脳内には再び記憶が流れ込んで来る。その際に訪れる頭痛はどうにかして欲しいが、それさえもフレイの楽しみなのだろう。
悔しさから歯を食い縛ると言う行為でさえ、今では億劫に思えた。
『ねえソール、お出かけしようか』
『お出かけ?』
ぱたん、と重厚な本を閉じては提案された言葉を、ソールは拙く繰り返す。彼女が創られてからどれだけの時が流れたのかは不明だが、少しだけ背も伸びた。少しだけ、フレイと近付いた気もする。きょとん、と首を傾げる彼女に思わず笑みを溢し、優しく抱き上げて腕の中に収めた。仄かに香る甘い香りが、彼は好きなのだ。
『どこに行くの?』
『色んなところだよ、きっと楽しい』
『父さまと、ずっと一緒?』
『ああ、ずっと一緒さ』
『……うれしい』
ぽそり、と呟いたソールの頬は僅かに緩んでいた気がする。創ったばかりの頃は無表情ばかりで何も欲しない、見た目だけが幼い子供だった。しかし最近は慣れたのか、雰囲気が柔らかくなった様に感じる。また、フレイに関しても国を維持する魔力が足りなくなって来ているのである。その為に一度、この国を出よう、と言う訳だ。
しかしそれがいけなかった。何よりも大切なソールを連れて行ってはだめだった。ここで捨て置けば、そうすれば良かった。
そうすれば、飛王に目を付けられずに済んだのに。
『いらっしゃい。フレイ、ソール』
再び変化した画面には、艶やかな笑みを浮かべて二人を招き入れる侑子の姿が映っていた。その姿に老いは感じ取れず、この時が何時の時代なのかは分からないが、酷く、不気味に感じた。しかしその笑みは確かに本物なのだと思う。フレイが何時もの温和な笑みを浮かべる一方で、ソールはぱちくり、と大きい金色の瞳を丸くしていた。
『……だあれ』
『あたしは侑子。貴女のお父さんの友人よ』
『ゆう、じん?』
『――『仲良し』ってこと』
『…私とも、仲良し?』
ソールの朧気な問いに、侑子は膝を折り曲げた。そして、微かな笑みを浮かべてフレイの名を口にしたのだ。その時に、侑子は改めてソールの無知さを理解した。見た目と中身のすさまじいギャップは、ある意味ソールにとっては虚しさとなるんじゃないだろうか。そんな事を言っても仕方ないと分かってはいるが、「創られた者」だと分からないまま生きて行くのは、少し寂しい気がした。
『……そうね』
『良かったね、ソール』
少し苦しげな笑みを浮かべながらも、侑子はソールの髪を優しく撫でてやる。擽ったそうに目を閉じるソールは、感情がないなんて到底思える筈がなかった。強大な魔力を秘めているだなんて、信じたくなかったのだ。そんな思いを断ち切る様に、侑子は屋内から顔を覗かせるマルとモロに「お茶を淹れて来て」と声を掛ける。そして元々用意していた酒瓶を、フレイに見せ付ける様に揺らしてみせたのだ。
その時に見せた苦笑は、やはり「神」とは思えなかった。
『どうするの? あの子』
突拍子もなく口を開いたのは侑子の方だった。そちらにちらり、と視線をやると、フレイは鼻から僅かに息を吐き出して笑んだのだ。開いては閉じる形の良い唇から微かに匂うアルコールは、酷く上品なそれである。お猪口の底に僅かに残る液体を揺らし、彼は庭で走り回るソールを視界に入れた。
『…分かりません。寂しくて創った者ですから』
『けど、一番大切なんでしょう?』
『そうですね……けれどきっと、不幸にしてしまう』
『……力ね』
『ええ……だから逃げるように、他の次元へ来た』
『――飛王ね?』
語尾が上がる、けれど確信を持ったその一言に、フレイの肩はビクリ、と跳ね上がった。――やはり、「次元の魔女」と呼ばれる侑子には、何も隠し事など出来ないのでしょう。それが少し怖くて、けれど、それが何よりも彼女らしくて、少しだけ笑ってしまった。そして私は、お猪口に残っていた僅かな日本酒を喉に流し込む為にそれを呷った。
『…いくら創られた者だからと言っても、私が…神が創った者です。次元への歪みはあるでしょう。飛王も、きっとそれに気づいてる。けれど、奪われる訳にはいかないんです』
『飛王が手を出しても出さなくても、あの子はきっと色んな感情を学ぶわ。――それが、唯一の救いかしらね』
『あわよくば、ソールを愛してくれる人が現れてくれたら良いんですけれど…』
『あら、現れても貴方、絶対に認めないでしょう?』
茶化す様な侑子の言葉に、フレイは思わず表情筋を緩めた。――そうだな。ああ、そうだ。認めるはずがない。こんな可愛くて健気な子、誰が渡すもんか。こんなに国民に愛されている子を、どうして手放さなきゃならない。そう思ってしまう程には、私はソールがひどく愛おしい。それ以上に、並の幸せを手に入れられた事が嬉しくて堪らないのだ。
『けれど、その力を全て受け入れてくれる男(おのこ)がいるなら、その時は――』
そんな強い思いが仇になるとは、神である私も考えてすらいなかったのだ。
幼女、と言う呼び名が正しいソールも、月日が経てば麗しく成長して行く。隣で歩く彼女は光に反射して輝く金髪を背まで伸ばしていた。それが歩く度にふわりと揺れ、仄かな香りを醸し出す。それだけで、どれだけの人間が幸せになるだろうか。ソールと、それを見ては慈しむ様に目元を緩めるフレイの二人は、現在「阪神共和国」と言う次元を訪れている。ここにはどうやら侑子の知り合いが居るらしいのだ。
そう教えてやれば少しは緊張が解れたのか、ソールは僅かに表情筋を緩めてみせた。その安堵した表情が、侑子に対する信頼を表している。どんな手を使ったのかは分からないが、やはり同性には同性で分かち合える思いがあるのだろうか。そんな事を考えている内にフレイの視界に入ったのは薄汚れた建物だった。侑子曰く「旅館」と言うらしい。その中から現れた二人の人間の内の一人は顔に花を咲かせてこちらに近寄って来た。
『あんたらが侑子さんが言うてた友達か?』
『ええ、そうだと思います。わざわざお迎えに?』
『そりゃな! ここは『宿屋』やさかい』
『宿屋さんは人間をもてなすお仕事をしてるんですか?』
『お客様をもてなして、幸せになってもらうのです』
『それは…――良いお仕事ですね』
聞いた事のないその話し方は方言か何かだろうか。違和感を感じるも、それがなかなか耳から離れてくれないのだ。しかし距離が近く感じるその話し方が、フレイは嫌いではなかった。薄く笑みを浮かべると、そんな彼の服が軽く引っ張られる。思わずそちらを振り向けば、そこにはこちらの様子を伺うソールが居た。その彼女を見て、旅館の男――後で「空汰」だと教えてもらった――は再び口を開く。
『お、その子がソールちゃんか? 別嬪さんやなあ』
『当たり前ですよ、私の子なんですから』
『べっぴん?』
『めっちゃかわええ、って意味や』
自身よりも幾分か背が低いソールの顔を覗き込むと、歯を見せて笑う。そんな笑みを見た事がない彼女は僅かに肩を跳ねさせたが、何故か恐怖心は芽生えなかった。それどころか、その後に続いた言葉に仄かに頬を赤らめさせたのだ。どうやら少しずつ感情は増えて行っているようだ。それが嬉しくて堪らないフレイは頬を緩め、彼女の頭を軽く撫でてみせる。そんな光景を見ていた空汰と女――嵐と言う名前らしい――は顔を見合わせると、微笑ましい、と言いたげにそっと笑んだのだ。
『腹減ったやろ。飯にしよか』
『そうですね。――行こうか、ソール』
『ご飯…!』
『わいの嫁さんの手料理はめっちゃ美味いんやで! しっかり味わいや、ソールちゃん』
『た、楽しみ、です』
創られた当初よりも大分と話せる様になったソールは、空汰の言葉に詰まりながらも自身の思いを返した。その様子がどうにもいじらしくて、彼はそっと頭を撫でてやる。そして、彼女とフレイを宿の中に案内したのだ。そんな中、人間の中に溶け込んでいる彼女を見て、フレイは嬉しく思いながらも僅かな寂しさを感じていた。しかし、そんなフレイに嵐が声を掛ける。
「貴方がいなきゃ始まりませんよ」と、そう言ったのだ。最初は意味が分からなかった。けれど、その後に視界に入ったソールの微笑みを見て、スッキリとした心持ちになったのだ。自身の欲望の為に始めた事だったけれど、何時かは終わる事なのだろうけれど、今は、今だけは、この幸せに浸っていたかった。あの笑顔を、守りたかった。
そんな思いがソールを仕合わせな結末に堕とすなんて、思ってもいなかったのだ。
『さあ。着いたよ、ソール』
とっ、足が地に着くそんな音が軽やかに響く。直前にまで感じていた吐きたくなる程の浮遊感はもうない。次元移動の度に繰り返されるその感覚は何度体験しても慣れるものではなかった。その感覚を我慢した後に広がるのは美しく、しかし懐かしい景色だ。太陽の光が注がれるこの地は酷く暖かく、そして酷く優しい。そんなここは、ソールが愛してやまない故郷(ふるさと)だ。
周りには緑の木々が生い茂り、それらを包み込む様に暖かな風が吹き込んでいる。それを一身に受ければ、ソールの顔には朗らかな笑みが浮かぶ事になった。――思えばこの旅の間に、ソールの感情は酷く増えただろう。キラキラとした瞳がその発端だ。
『ソール、商店街へ行こうか』
『何か買うの?』
『お前の食べ物だよ。今日は好きな物を食べよう』
『嬉しい……! 父さまも一緒に食べよ、ね!』
『ああ、もちろんさ』
幾分か近付いたソールの頭をそっと撫でて、フレイは目の前に広がる賑やかそうな商店街を視界に映した。そうして紡いだ言葉を聞けば、彼女はわくわく、と言いたげに身体を跳ねさせる。その様子がどうにも可愛くて、綻んだ頬にはどうか気付かないで欲しい。そんな願いさえ無視して、彼は下に居る娘の小さな手をそっと包み込んだ。
温かな子どもの体温を感じながら、二人は商店街をゆっくりと歩いて行く。時折聞こえる喧騒の声や鼻腔を擽る様々な匂いは、ソールの中に多くの感情を生み出してくれる。そう言う意味では、フレイはこの場を酷く好んでいた。そんな場所を進んで行くと、道中で声を掛けられる。
『フレイ様! お帰りになられたのですね!』
『――ええ、つい先刻に。ただいま帰りました』
『お帰りなさいませ! 旅路はどうでした?』
『良かったですよ。変わりはありませんでしたか?』
『それが…』
『…何か?』
二人に声を掛けて来たのは、とある飲食店を営んでいる女だった。その女は最初、弾ける様な笑顔を浮かべていたと言うのにフレイが問い掛けると、言いづらそうに口先を動かした。その女曰く、このヘリオポリス周辺で変異事件が多発しているらしい。その事件現場が、この国を避ける様に起こっている事から国民らも警戒していると言うのだ。その話を聞いたフレイは考え込むも、次の瞬間には何時もの笑みを浮かべた。
『一度調べてみます。安心してください』
『そうですか……』
『父さま。これ、美味しそう』
『ふふ、食べてみるかい?』
『良いの……?』
『ああ、もちろん』
柔らかなその声色は、何時もどんな時だって人々の不安を取り除いて来た。もちろん神の力も要因の一つだが、フレイが纏うその優しげで温かな空気が人々を安心させるのだ。その空気が移っているのか、ソールへの態度も酷く優しい。神に愛された娘、――否、「神の娘」と崇められるまで、そう時間は掛からなかった。
しかしそう呼ばれた時間は、あまりに短かったのだ。――とある国民に言われた事もあって旅の続行を断念したフレイは、今日も今日とて神殿でソールを愛でる日々を過ごしていた。さらり、と指の間を通る金髪は艶やかで、自然と頬が緩んで行く。その様子を見るのが、最近の彼の楽しみなのだ。その時に、時折見る柔らかな笑みは今はまだ、自身のものだろう。それがいずれは別の人間のものになるとしても、今だけは、このぬるま湯に浸っていたかった。
自身のシンボルである太陽が天高く昇りきった時間帯、だったと思う。突如、窓に差し込む日差しが消えたのです。太陽神である自身がいる以上、そんな事はあり得ないはずなのに。長机に置いていた魔術具をソールに託し、窓際に近づく。その時に見た空は、禍々しい程に闇を孕んでいた。
『これは…』
『……父さま?』
『…ソール、今すぐこの国を――』
自身がこの国に居る限り、今まで晴れ渡っていた空が消える事はない筈なのだ。しかし今、目の前に広がるのは恨みや嫉みが孕んだどす黒い雲々だ。――嫌な予感がする。――そう感じたフレイは後ろに居るソールに呼び掛けた。その後に飛び込んで来た光景に、彼は大きく目を見開かせたのだ。
その黄金(こがね)色の双眸に映し出されたのは、ソールの背後を狙う蝙蝠の連中だった。彼らの手には太い剣が握られており、それの切っ先は真っ直ぐに彼女へと向けられている。それに気付いた時には、フレイは既に手を伸ばしていた。
『っきゃ…!』
『ソール、逃げなさい!』
『で、でも…!』
『早く!』
次の瞬間にソールの身体は壁に打ち付けられた。そんな彼女が居た場所には複数の剣が振り下ろされており、フレイはそれをひとりでに受け止めたのだ。そして、彼女の戸惑いを隠す様に声を張り上げると、彼女はビクリ、と身体を震わせる。その直後に、勢い良く窓から飛び降りたのである。
げほ、ごほ、と咳き込む音が聞こえる。円を模(かたど)っている壁は、衝撃波によって既にボロボロに崩れていた。ペタペタ、と響く足音は酷く幼く、そして、ファイの闘争心をじんわりと削り取って行く。彼の白い肌には至るところに切り傷や掠り傷があり、それを付けたのは目の前でこちらを見下ろすソールだ。――否、ソールだと認めているのはフレイだけなのかもしれないけど。
「貴方は、この子を守る為に庇ったんじゃないんですか」
「おや、そう見えませんでしたか?」
「ならなぜ、この子の今の顔を見ようとしないんですか」
「何を――」
「っ…貴方は、感情をなくしたこの子が見たかったんですか!?」
意を決した様に声を荒げたファイの言葉に、フレイは僅かに目を見開いた。その時に初めて、フレイの人間臭さを垣間見た気がする。髪と瞳の色が違うと言っても、力の威圧感が強くなったとしても、ファイにとって、目の前の少女はレイノ以外の何者でもなかった。ファイにとっての彼女は何時も笑顔で、周りを明るくしてくれる子で、ばかみたいに明るくて、――人に攻撃する際に眉一つ動かさない、そんな子じゃなかった。――この男はレイノに、やってはいけない事をしたのだ。
「――殺しなさい」
「っ…レイノちゃん!」
ファイの叫びは届かなかったのだろうか。底を擦る様な声色は、ソールの身に降り掛かった。彼女の動きを制止する彼の声は、もう既に聞こえてはいないようだ。それどころか、彼女は再び表情のないまま武器を振り下ろす。彼は入口付近に突き刺さっていた剣を手に取り、彼女の一撃をそれで受け止めた。ギリギリ、と響く耳に痛い金属音と共に、彼も無意識に歯を食い縛っていたらしい。
一方では、フレイが何気なく腕を軽く振る。すると、ファイの脳内には再びじくじく、と蝕む様な記憶が流れ込んで来た。――その記憶は、フレイの優しさを証明する痛々しいものだったのだ。