いとしき距離
外に出ると、長く弧を描いた桟橋が続いている。それにゆっくりと体重を乗せて行くと、僅かながらギシ、と言った木々の音が響き渡った。その道を全て歩み終えると、ヒラ、と花びらが舞い落ちる。淡い桃色を彩ったそれは、レイノらの視界を独占し、そして、夢中にさせた。それが舞い落ちる原因とは、あまりに巨大な樹木である。それは何処からか艶やかな布を引っ提げており、それらの中心にはとある人物が横たわっていた。
『サクラだ!』
日本国独特の衣服は酷く緩やかな物で、寝苦しくはない様子である。寧ろ、手首辺りは解放感溢れており、サクラの表情も酷く優しげなものだった。『小狼』は大木に足を引っ掛け、一思いに己の身体を持ち上げる。そして着地した場所は眠る彼女の傍である。その穏やかな寝顔はまるで生きているようで。しかし、この身体が魂を失ったものである事を忘れてはいけない。
「躯の傷は手当てさせて頂きました」
『ありがとう、知世姫。でも、どうして木の上に?』
「これは日本国で一番樹命の長い神木です。この樹なら、魂がない躯に少しでも精気を送れます」
「…桜だ。同じ名前の樹だな」
絶えず空から降り続ける桃色の花びらを指先に、そのままサクラの柔らかな茶髪を撫でた。その瞬間にも手の平に溜まりゆく桜の花びらは柔らかな手触りで、それは彼女の儚い優しさを表しているようでもある。そんな何処か緩やかな空間に布の擦れる音が小さく響いた。それに思わず身体を跳ねさせて、後ろを振り向く。そこに居たのは、黒鋼にとっては見覚えのある面持ちである。
「帰ったのですね、黒鋼」
「おう」
交わされた会話はたったそれだけだった。しかし、この二人にはそれだけで充分らしい。幾重もの着物を着込んだ女性の後ろには、健康的な褐色肌をした女性がこちらを見守る様に見つめていた。桜都国やピッフル国でも見かけた顔だが、それとはまた別ものらしい事はとっくの昔に把握している。――暫くの間、視線が絡み合う。表情の変化を見せたのは、目の前の女性が先だった。
「少しはマシになって戻ったようですね」
「あぁ?」
「客人達も歓迎します。この城で暫しの休息を。――まだ旅は続くのでしょうが」
何処か茶化す様に、しかし僅かに嬉しさが孕んだその表情に、レイノとファイは思わず笑みを溢した。最も、肝心の黒鋼は理解しきれていないようだったが。だが、その後に続いた女性の言葉に再びこの場に鋭い空気が漂う事になる。――そう、まだ終わりではないのだ。いくら自身の過去を清算したとしても、サクラの魂を取り戻さない限り、この旅に終わりは来ない。
「それと、もうお一方客人が」
『だぁれ?』
話を変える様に女性は言葉を紡ぎ、背後にある柱に視線を向けた。それに倣うかの様にモコナが顔を覗かせると、そこにはやはり久方振りに見る顔があったのだ。――その顔は、確かに「東京」と言う国で出会った封真だ。日本国で再会するまでは全く違う次元に居た可能性が高いと言うのに、その容姿には殆ど変化がない。
「久しぶりだね。――と言っても、俺と君達が同じ時間の流れを過ごしたかどうかは分からないけれど」
『日本国には何か探し物で来たの?』
「いや、届け物があったんだ」
そう告げた封真は持っていた袋の縄を解き、所謂「届け物」をこちらに露見させる。明らかに人の腕であるそれは、何やら特殊な液体に常時漬けてあるようだ。日本国と言う場所には余りに不釣り合いなそれに、レイノは思わず目を細めた。しかし、彼女の脳内には確かな答えが存在していたのである。
「なんだそれは」
「義手だよ。表皮カバーを調達してる時間がなくて、剥き出しで申し訳ない。――必要だと思うけれど」
「――なんで、てめぇが持ってくる。いやそれ以前に、なんで、おまえが知ってやがる」
「侑子さんに聞いたから」
――これが、封真が「東京」国で言っていた侑子とのもう一つの約束らしい。また、サクラに言っていた言葉とも同位である。彼が手の平で支える義手は、こことは別の高度に機械化文明が発展した世界――ピッフル国で手に入れたものらしい。聡い黒鋼は、そこで知世と言う存在を思い出す。そして、知世と繋がる、自身の主である知世姫に視線を注いだ。ただ、何も言わない。――否、知世姫の笑みが何も言えなくさせていた。
「……対価は?」
「貰ったよ。俺は侑子さんからね」
「俺は、魔女に何も渡しちゃいねぇぞ」
そう言った瞬間、黒鋼は隣に居るレイノとファイに視線を向けた。その紅い瞳は大きく見開かれている。その視線に気付いた二人は、揃いも揃って似た様な笑みを浮かべていた。――それがどうにも勘に障る。言葉にするだけマシになったものだが、やはり秘密主義と言うのは簡単には直らないものらしい。
「オレが魔女さんに渡すって約束したんだ。君が眠ってる間に」
「お前は…」
「わたしは何も渡してないよ。約束の事だって、今知ったし」
フォン、と聞き慣れない音が微かに響く。ファイの右の手の平には彼が何時も使用する文字式の小さな魔法陣が浮かんでいた。それを軸に、彼の右目から抜き出された何かが少しずつ形になって行く。――それが一つの形になった時、ファイの瞳には既に蒼色の名残は残されていなかった。彼が取り出したのは、自身の魔力の源であるらしい。
「モコナ、これを魔女さんへ」
『でも…』
「大丈夫、ちゃんと見えてるよ。これはオレの、最後に残った魔力だ」
『だめだよ! 魔力がなくなったら、ファイ…!』
「これを渡しても死なない。吸血鬼の血が、オレを生かしてるから。自分の命と引き替えにするようなものは、渡さないよ。――もう」
その言葉と共に浮かんだ笑みは、確かに本物であろう。記憶の中での幼いファイが浮かべていた崩れる様な笑みとは違う、微かに憂いを帯びたそれ。姿形は確かに違うが、それは彼の本音が孕んだ精一杯の思いだった。そんな彼は「それに」と言葉を付け加えて、背後から少しだけ体重を預けてレイノを抱き締める。
「次に死ぬような対価を渡しちゃったら、殴られるじゃ済まないでしょ。殺されそう」
「ばか! 殺しません! ちょっと灸を据えるだけです」
「ほら物騒。絶対黒さまのせいだもん」
「予想外のところからの飛び火は止めねぇか」
ぐりぐり、とレイノの頭頂部に顎を押し付け、溜め息を吐きながら愚痴紛いの事を呟く。そんなファイに手を伸ばすも、身長差がある為に届かないのである。その状態で飛び火を受けた黒鋼は堪ったものではない。――その三人と、この光景を見てはくすくす、と笑みを溢す知世姫を理由に、モコナは漸くファイの魔力の源を思い切り吸い込んだのだ。
一方、黒鋼は封真に差し出された義手を左肩に近付けた。すると、刀で斬られた断面を隠す様に、義手からは何十本もの管が黒鋼の体内に入り込んで来る。どうやら、この管が黒鋼の神経と義手を繋いでくれているらしい。――何度か伸縮を繰り返す。特に違和感もなく、顔色も良好だ。しかし、これから起こる現象は一行にとっては願わない事だった。
床を突き破る様にして現れたのは、出会った頃と変わらぬ星四郎だったのである。
『星史郎!』
桜の大木の下に突如として現れたのは一人の男――星史郎――。レイノに僅かな恐怖を与えた人物である。生気の宿らぬ双眸に貼り付けた様な笑みは何処か寒気さえ感じた。そんな感覚がその場に居る者全員の足を動かさせたのだ。――微かに残る記憶の中に宿る星史郎と、面影は何ら変わりはない。しかし、何処かせり上がる様な恐怖感は増している様に感じた。ただ、ひたすらに恐ろしい。そう感じるレイノの手を優しく包み込むぬくもりがある。ふと見上げれば、一瞬だけ、優しく笑むファイの姿がそこにはあった。
「久しぶり、なのかな。君たちと僕が過ごした時間の流れが同じかどうか、分からないけれど」
『封魔と同じこと言ってる。やっぱり兄弟だから?』
「うーん、ちょっと複雑だなあ。――相変わらずそうだね。星史郎兄さん」
「封魔もね。そっちは相変わらずとはいかないようですね。随分、変わったらしい。色々と」
ちらり、と視線を向けた瞳は桜都国で出会った頃と変化なく、対価は奪われたままの様で右目は白く仄かに輝いていた。瞳は緩やかに弧を描き、しかし、その中に冷酷さが孕んでいる事は確かである。じゃり、足元の小石から軽い音が響く。それが星史郎の耳に入れば、くつりと喉を鳴らす様子が視界に入った。――何か、来る。
「魔力を失って別の力を得たようですね。――吸血鬼の血を」
その言葉と同時に星史郎は走り出す。その足のつま先は真っ直ぐファイに向かっていた。レイノとモコナがファイの名を叫ぶも既に遅く、ファイの呼吸は星史郎の手中である。細くも白く、しかし、何処か骨ばったそれが、喉仏が、ごくり、と上下に動いた。その動きを隠す様に、星史郎の手の平が覆い尽くす。
「神威の血ですね」
「だとしたら?」
「二人は何処にいますか」
ファイの首を掴む手に力が込められると、ギリ、と骨が軋む音が唸る。喉に何かが詰まった様に息がしづらい。そんな状況でも微かに残る酸素を吐き出して言葉を紡げば、視界の端でレイノらの身体が僅かに身じろいだ。そちらの動きに気を逸らした一瞬を突き、ファイは頭を浮かせ、腕を振り払ったのだ。袖の部分に掠り傷を負わせるのみで終わってしまった一撃だが、星史郎の虚を突く事は出来たらしい。
「お兄様ですか」
「ええ。困ったひとで」
「うちの姉も…」
「どうだというのですか」
一先ず攻撃が止んだ事を悟り、知世姫が声を放つ。それを天照が拾ってしまえば、冷戦の様な空気の出来上がりだ。視線を合わせぬ知世姫は案外肝が据わっているらしい。しかし、あの黒鋼を従えていた人物なのだから当たり前なのかもしれない。一方で、何処か焦点が合わぬ様子のレイノは、ファイの首筋にそっと指先を添えた。微かに痕が残るその部分は、少しだが、痛々しい。その妙な感触にふと視線を下ろすと、彼の視界にはきゅ、と瞳を細めた愛しい姿が映る。思わず瞬きを繰り返すが、思わず頬を緩ませるとするり。頬をそっと撫でる。そんな中で言葉を紡ぐ者が現れる。――黒鋼だ。
「人にものを尋ねる態度か、それが」
「君がいうか?」
「一番言っちゃいけない人だと思うんですけど、そこのところはどう思ってます?」
「うるせぇ!」
『だね』
「「まったくですわ」」
「だからうるせえってんだ!!」
「失礼、では改めて。双子の吸血鬼に、会ったんですね」
「こことは別の世界――『東京』で」
どうにもマシになったらしい黒鋼は、至極全うな言葉を口にする。しかし、レイノとファイがそれに目を付けない訳がなかったのだ。何時もは砕けた言葉遣いの彼女も、わざとらしい笑みを浮かべながら何故か敬語を口にする。そんなからかいに仄かに頬を赤らめる黒鋼には、何処か昔の面影があった。しかしそれも一瞬の事で、ファイの口から「東京」と言う都市が出た途端、彼女らの表情には暗がりが立ち込めたのである。
「ふたりはまだ『東京』に?」
「いや、移動した。彼らが旅立った後にね」
「どこへ?」
「弟の俺に教えてくれると思うかな?」
試す様な物言いに取って付けた様な微笑は、封真と星史郎の血の繋がりを確かに証明していた。酷似したそれを向けたかと思えばうっすらと瞳を見せ、視線を再びファイに向ける。それは、ファイを通して別の誰かを見ている様に思えた。何処か慈しみさえ思い伺える瞳にはふと、侑子の魔法陣が浮かび上がる。――次元移動を行うつもりらしい。しかし、それを制止する声がこの場に響いた。
「…君も小狼だね」
「羽根はどうした」
「あるよ、ここに」
基になった人間とも言える『小狼』を見た事はない筈なのに、さして驚く様子もない。この男は一体どれだけの事を知り得ているのだろうか。そんな疑問さえ浮かんでも、それを解決する術は持ち合わせていないのだが。――緩やかな笑みを浮かべながら、星史郎は胸元に手を添える。すると、ポゥ、と柔らかな輝きが浮かび上がった。その様子を見ては、『小狼』は静かに歯を食い縛る。
「返せ」
「桜都国――いや、実際は桜花国だったね。そこで手に入れて、そのまま持って行ってしまったけれど、ひとつの架空世界を現実にしてしまう程の力だ。返せと言われて、どうぞ、と言えるものかな」
「……返せ」
「話し合いで解決する方法はない?」
「ずっと見て来たからな。貴方がどういうひとか」
そう吐き捨てながら、『小狼』は手の平から炎を纏った剣を取り出した。波状に広がるそれをただ眺め、星史郎もおどろおどろしい黒い剣を取り出す。それと同時に、納得した様に紡がれた言葉は酷く興味をそそるそれだ。――ぴくり、レイノの眉が僅かに痙攣する。それを目敏く見付けてはふと笑みを溢す星史郎に、彼女はただただ恐怖を煽られるばかりであった。
『小狼と一緒に旅してたお父さんのこと?』
「…いや、藤隆さんと小狼君は血は繋がっていない筈だ」
ぽつり、とファイが溢したその言葉に機敏に反応を示したのは隣に居た黒鋼である。そんな様子を、レイノは思わず視界に映し、何とも言えぬ哀愁を帯びた双眸をそちらに向けた。――言おうか、迷った。とても迷った。未だに黒鋼とモコナを騙しているようで、とても気分が悪かった。
けれど時間は待ってくれず、目の前で星史郎は剣の切っ先を『小狼』に向けていた。そんな光景に、黒鋼は義手に力を込める。この静かな空間にはやけに響く乾いた音に、『小狼』は鋭い眼光を向けた。それはまるで黒鋼の勢いを牽制する様で、それに大人しく従う黒鋼はこの旅を通し、「理性」を身に付けたらしい。戦闘の空気、双方の殺気、高揚した熱、それら全てが合わさった時、星史郎は「では、始めよう」と胸元から眼鏡を取り出す。――「本気」であるサインだ。
「――羽根を賭けた戦いを」
その光景はまるで、桜都国での再戦を彷彿とさせるそれのようだったのだ。