始まりは御心の内に

『ソール』

 その声色は、酷く優しい。慈しむ様な、包み込む様な、そんなそれが愛おしくて仕方がなかった。その名で呼ばれる度にふわり、と頬が緩み、言い様のない感情が込み上げて来る。それが何と言うのかは分からないけれど、じんわり、と感じる温かさが好きで好きで堪らなかった。そっと抱き締めて来るその腕は大好きなもので、そうされる度に何時も何時も身体を委ねていたのを覚えている。


『ソール』

 たまに悪戯をすると、あの人はむっと眉を吊り上げてこちらをじっと見下ろす。しかしその瞳(め)に冷たさは無く、ただひたすらにこちらを心配するばかりなのだ。それが情けなくて、けれど、少し嬉しかった。愛されている、だなんて思った事は無くて、寧ろそんな表現すら知らなくて、けれど、幸せだと言う事は何となく察していた。その瞳は慈愛で満ちていたから、まだまだ笑えたのだ。


『大丈夫かい? ソール』

 こちらの身体を労わるその言葉は、戦いが落ち着く度にその身に降り掛かっていた。成長する度に煩わしくなる事はあったが、それを本気で拒んだ事は一度たりともなかったと思う。優しくて、強くて、格好良い。こちらにとって、あの人は絶対的な存在だった。柔らかなその声色はこちらの緊張感を和らげてくれて、あの人がどう思っていたのかは分からないけれど、あの人の側に居れるなら何だって良かった。――少しでも力になれるなら、なんだって良かったのに。あの人は何時だって私を守るんだ。


『逃げなさい、ソール』

 だから次は、私が貴方を守る番。




 もう涙は、乾き切ってしまった。自身を守って殺されて、自身を諭して殺されて、頭の中はもうパンク状態だ。ガラガラ、と遠くの方で聞こえる音は瓦礫が崩れるそれだろうか。首を動かす事すら億劫なこんな状態では、もう気力すら失われている。そんな状態だから、ずっと呼び掛けてくれている儚い声にも気付かないのだ。


「――レイノ様!」

 少し掠れたその声色と自身の名に少女――レイノ――はビクリ、と肩を跳ねさせた。今までは涙で濡れていた桃色のその瞳は大きく見開かれており、その視線は目の前に居る淡い緑色の髪を持った女性に注がれる。少し煤で汚れた元は綺麗なのだろうその肌はやはり美しい。血で塗(まみ)れた自身の手とは大違いだ。枯れた筈の涙が、また、溢れそうだ。そんな状態にも気付かず、目の前の女性は凛とした声色を響かせた。


「急いで下さい」
「な、にを…」
「お願いします。次元の魔女の元へ、早く」
「…貴女は、何を知ってるの……?」
「何も知りません。ただ…っあの人の力を、無駄にしないで……!」

 力強く言い放たれた目の前の女性の言葉は、僅かだがレイノの思いに波を立てた。けれど、今はただ怖い。どうすれば良いのか分からないこの異常な脱力感が何を表すのか、何処かぼやけた頭は何も教えてはくれないのだ。でも、抱き締められた身体はとても温かかった。「あの人」が誰かは分からない。けれど、これを無視してしまえば、わたしはきっと一生後悔するんだろう。


「…その、『次元の魔女』の元に行けば、良いの」
「はい」

 ずっと手の平に握り締めていたチョーカーで首元を飾り付け、レイノは刀を腰に差した。そして、よろめきながらも立ち上がった彼女は下に座ったままの女性に視線を向けたのである。そして、レイノの足元に魔法陣が現れれば、それを囲う様に風が巻き起こる。ゆっくりと解けて行く身体を受け入れながら、レイノは悲しげに笑い、目を細めたのだ。


「ごめんなさい」

 この移動がこの身にもたらす何かになるなんて、この時のわたしは思いもしなかった。