笑顔の理由
弾け飛ぶ水の音が静まった頃、そんな空気に包まれた地下ではグチュ、と言った生々しい音が響き渡っていた。それが小狼から放たれているのは、耳を傾ければすぐに分かる事である。そんな音が響く度に彼の手からは血が滴り落ちており、それはファイの目から生まれた血だまりに吸い込まれて行く。その直後に黒鋼の視界に入ったのは髪の色と同じの琥珀色ではない、ファイの瞳と同じ蒼色のそれだったのだ。その後に響いたレイノの咳き込む声によって我に返った黒鋼は、ただ、事実を呟く事しか出来なかったのだ。
「目が…青い……」
震える瞼に力を入れて何とか視界を広げれば、そこには小狼に乱暴に掴み上げられるファイの姿があった。最後の笑顔は、もう面影すらない。長い金の前髪と血で隠された顔の半分はどう頑張っても見る事が出来ない。思わず目を細めたレイノは、血だらけの小狼の手を軽く掴んだのだ。しかし、それに気付いた小狼は彼女の腹に蹴りを入れ、そのまま後ろに倒れ込んだ彼女の身体を足で押さえ付けたのである。
「レイノ!」
「や、めて、しゃおら、くん…」
「…離せ」
「い、やです」
呻き声をあげるレイノと言うのはあまり見た事がない姿で、けれど、何も出来ないのが現状だ。人質を二人、取られている様なものなのだ。そんな酷い状況の中でも彼女は小狼の足から手を離す事はせず、そんな状況に思わず眉を顰めた小狼はファイの片方の瞳に手を伸ばしたのだ。
「やめろ!!」
小狼のその行動を見た黒鋼は思わず足を踏み出し、小狼の血だらけの手を掴み、レイノを押さえ付ける足に衝撃を与えて彼女を助け出してみせた。足元で咳き込む彼女は全身がボロボロで、もしかしたら自分が来るまでにファイを守っていたのかも知れない。そんな黒鋼に冷たい視線を向ける小狼は、既に自分の知る人物ではないようだ。
「喰ったのか、そいつの目を」
信じたくない、そんな気持ちが僅かに入った黒鋼の問い掛けを小狼は重いひと蹴りで一蹴したのだ。一瞬心臓が止まった様な気がしたその一撃はちょうど黒鋼の鳩尾に入ってしまったらしい。――隣から聞こえて来る弱々しい「黒鋼」と言う声はレイノのものだったが、それに対して少しだけ笑った事にこいつは気づいているのだろうか。
「右目も貰う」
「…そいつを寄越せ」
「…魔力の源は両の蒼い目、両方取り出せば用はない。あとはこいつを殺せれば、それで良い」
「寄越せ」
苦しげに咳き込む黒鋼を置いて言葉を紡ぐ、そんな冷たい小狼の姿をもしあの姫が見てしまえばどうなってしまうのだろうか。そんな懸念を頭の隅に追いやった黒鋼の要求にも、小狼は冷たい視線を向けるだけである。それどころか、ファイの右の瞼に歯を立てたのだ。がり、と響くその音は聞くに堪えないものである。思わずレイノが目を瞑ったと同時に、黒鋼は小狼の首を掴み、そのまま壁に叩き付けた。その時に響いたボキ、と言った音は完璧に骨が折れている事を示しており、それは腫れ上がった腕を見ればすぐに分かる事だろう。しかし、何事もなかったかの様に立ち上がる小狼の顔には痛がる様な表情は浮かんではおらず、どうやら痛覚が失われてしまったらしい。
『小狼…黒鋼…レイノ、ファイ…』
「おまえ…小僧じゃねぇな、『気配』が違う。けど、違う奴じゃねぇ」
「――羽根は取り戻す、必ず」
微かに聞こえるモコナの震えた声はレイノの鼓膜を刺激させ、それが余計に彼女の中の悔しさを募らせた。血だらけの手で仲間を殺そうとした小狼を視界に入れる度にそんな感情は昂って行き、彼女にはただただ顔を歪める他、術はなかったのである。目の前の小狼は決まり文句となった言葉を呟けば淡い光を放つ指先を動かし始めた。それに気付いた彼女は黒鋼にファイを押し付けて、その二人の前に飛び出したのだ。そして、襲い掛かる魔術から庇ってくれた彼女を見ては、黒鋼は驚いた様に目を見開いてぼそり、と名を呟いたのである。しかし、その後の彼女の状態に再び目を見開かせる事となるのだ。一段と強く咳き込んだ彼女の口からは血が溢れ出し、ひゅう、ひゅう、と言った呼吸音を響かせたのである。
「…なぜ、魔力を使う。お前の魔力の源は心の臓、このまま使い続ければいずれ死ぬぞ」
『レイノ!』
「おい、止めろ!」
「死にません」
口の端から垂れる血を乱暴に拭い、レイノはふらつきながら立ち上がった。わたしの魔力の源の事を教えたのは、多分飛王だろうね。いつ教えたんだか、あの人はやっぱりわたしの事は元から捨てるつもりだったんだろう。だから多分、あの人を懐に取り込んだ。ある記憶が脳内に巡っているレイノには黒鋼とモコナの制止の声は聞こえておらず、しかし、「死なない」と、何処からか湧き出て来る自信と共に力強く言葉を放った。
「何も守れていないのに、死ぬ訳がないでしょう」
――逸れないわたしの瞳に、少しだけ貴方が揺らいだ気がするのは気のせいだろうか。
そんな微妙な表情の変化はこんな状況でなければ気づけたんだろうけど、だんだんと浅くなって行く呼吸から、わたしは自分の体力の限界に気付き始めていた。思わずしゃがみ込んで咳き込めば、手の平には再び「赤」が広がって行く。そんなわたしの後ろでは、黒鋼が強く、歯を食い縛っていた。
「こいつは、こいつらは…」
黒鋼の顔は、見なくても分かる。きっと眉を顰めて、ただただ目の前の小狼くんを睨んでいるんだろう。けれど、それは憎しみとか恨みとか、そんな感情じゃない。ただただ悔しくて、どうすれば良いか分からなくて、必死に自分の気持ちを伝えているんだ。そんな黒鋼曰く、どうやらわたしとファイさんは変わる事が出来たらしい。ただ素直に、ずっと笑顔が続けば良いなあと、幸せで在れば良いなあと、そう思っていただけなんだけれど。それが「変わった」と言う事なのかな。そう思うと、なぜか涙が止まらなかった。
「聞こえねえのか、小僧!!」
その叫びは、もう貴方には届かないのかなあ。
黒鋼が叫んだと同時に球体の下からは耳に優しくない耳鳴りの様な音が聞こえて来る。そこから現れた侑子の魔法陣から出て来たのは左目を眼帯で隠した小狼と瓜二つの少年だった。――ああ、ああ、いつ振りだろうか。変わったのは眼帯と服装だけで、真っ直ぐ貫くような視線は何も変わっちゃいない。ねぇ、ファイさん、おかしいね。この瞬間は来ちゃいけなかったのに、避けるべき事なのに、ああ、どうして。
嬉しい、なんて。
(わたしの大切なひと達、わたしの大切なひと)
「わたしのいちばん、大切なひと」
時折反応するサクラの手は、彼女を夢の世界から遠ざけてくれていた。そんな中で朧気に繰り返されるのは「大切なひと」と言うワードである。少しずつはっきりとした輪郭となるそれは、彼女の意識を覚醒させるには充分だった。やっとの事で目が覚めた彼女の視界に映ったのは、対峙している同じ顔、背中に傷を負っている黒鋼、口から、目から血を流すレイノとファイである。
「みんな…!」
『サクラ!!』
おかしい。おかしいよ、こんなの。レコルトでは笑ってたよね。苦しい事もあったけど、みんな笑ってたよね。なのにどうしてみんな、傷だらけなの。どうしてレイノちゃんとファイさんは血だらけなの。どうして黒鋼さんはそんなに怖い顔をしてるの。どうして小狼君はこっちを向いてくれないの。どうして、どうして。
綺麗な琥珀色がなくなっているの。
「どういう事だ!?」
「異世界の同一人物」に出会う事はあっても、自分と同じ顔の異世界の人間には出会った事はなかった。しかし、その状況が今現実で起こっている。それに対して理解が追い付かない黒鋼は、ただただ疑問を叫ぶしか出来ないのだ。その直後、小狼に取り込まれていた陰陽魚太極図の球体は淡い光を纏いながら眼帯の少年の手元に落ち着いた。
「心の半分、おれが昔、おまえに渡したものだ。一度封印が切れたものを、レイノと、その魔術師がおまえに戻そうとしたんだな、その奪われた左目と共に」
その球体を見つめる眼帯の少年の瞳は何処か憂いを帯びていて、あの顔はあんな表情も出来たのなど、場違いな事を考える。そんな時にふと流れ込んで来た血だらけの二人の名は黒鋼に衝撃を与え、黒鋼は弾かれた様にその二人を目に映したのだ。眉を顰めたまま意識が戻らないファイの瞳には僅かに涙が、未だに嫌な呼吸音を響かせるレイノの口元には、何故か笑みが浮かんでいた。
「けれど…切れた封印は、もう、どんな方法を使っても戻らない。二人も分かっていたはずだ。それでも賭けたんだろう」
眼帯の少年の言葉は一つ一つがとても重く、そんな思いが込められている球体は酷く重く見えた。それは彼の体内に吸い込まれて行き、その後の「可能性に」と言う言葉と共にゆっくりと外された眼帯から現れたのは、歪まれた琥珀色の瞳だった。覚悟を決めたのだと、そう感じた。ならば、わたしはこの場を守らなければいけないのではないか。その瞬間、魔力が回復した気がするのは気のせいなのだろうか。
「黒鋼さん! レイノちゃん! ファイさん! モコちゃん! 小狼君!!」
「おれは、おまえの右目を通してずっと見て来た。おまえが出逢った、出来事や人達を」
涙を浮かべているサクラが傷だらけの手で出す衝撃音は酷く痛々しく、しかし、それを止める「傷になります」と言った優しげな声はもう聞く事は出来ないのだ。無表情と痛々しく歪める、と言った対照的なそれらに確かに変わってしまったんだと、強く痛感する。そんな中でも紡がれる中国服の少年の言葉はだんだんと力んで来ているのが分かり、その気持ちの強さは強く握られた拳を見れば一目瞭然だ。
「あのさくらを一番大事だと思ったのは、『おれの心』じゃない! おまえだろう!!」
そんな叫びも虚しく唐突に訪れた痛覚は腹部に現れた。どうやら思いきり蹴りを入れられてしまったらしい。鋭い痛みはその身を貫き、それから逃げる様に至る所に張り巡らされているぬめる柱を使って中国服の少年は一旦レイノらの側でしゃがみ込んだのだ。その時に見えた紋章は確かに黒鋼が追っていたもので、しかし、それを止める「待って」と言う声が横から響いたのである。
「何?」
「待って、お願い……後援は?」
「だめだ」
「どうして…」
「まだ何も話していない。だからそれまで、その魔力は使うな」
ひとまず収まった血を雑に拭ったレイノは強請る様な瞳を黒鋼に向け、しかし、言葉は確かに横に居る中国服の少年に向かって放たれていた。彼女の言葉を一刀両断した少年はただただ前を見据えていたかと思えばその視線を彼女に向け、力が籠っているのであろう彼女の手首を握り締めたのだ。その後に少しだけ掠った少年の指に思わず泣きそうになったのは、きっとわたしだけなんだろうね。
再び小狼と向かい合った中国服の少年は素早い蹴りを何回も繰り返して行く。その反撃が全く同じと言うのも、やはり二人が同じ存在だと証明していた。そして、再び繰り出される力強い小狼の蹴りを腕で食い止め、小狼の腹部に向かって同じ様に蹴りをお見舞いしてやったのである。
「刀!」
『え!?』
「くろ、がね…?」
「刀、出せ!!」
『は…はい!』
唐突に叫ばれた黒鋼の言葉は酷く焦りを孕んでおり、なかなか見る事が出来ないそんな彼にレイノは理解不能、と言いたげに何度も瞬きを繰り返した。明らかに劣勢な中国服の少年を見て、どうやら後援に回ろうとしてくれているらしい。しかし、モコナの口から放たれた緋炎は黒鋼の手元には届かず、ファイの魔術によって持ち主の手元に収まってしまったのである。ゆっくりと姿を現す刀身には異国の文字がらせん状に絡み合い、それによって力が倍増された炎は地下全体を覆い尽くしたのだ。
「きゃあ!」
「崩れるぞ!」
「黒鋼! ファイさんから手を離さないで!」
「分かってる!」
遠くではモコナの悲痛な叫び声が聞こえる。必死にわたし達の名前を呼んでる。けれど、この状況ではそれに応える事もままならないみたい。炎によって崩れて行く地下の柱は大きな音を立てて地面へと落ちて行く。そんな中で何とか足場を見つけたわたしは、焦った様子で黒鋼に声を掛けた。そして、しっかりとファイさんの身体を抱きかかえている様子を確認したわたしは、なけなしの力を振り絞って結界を張ったんだ。
その数瞬後(あと)だっただろうか。唐突に聞こえた「雷帝招来」と言う叫び声と共に、頭上では巨大な雷鳴が轟いていた。自身の結界を解いて地面を見下ろせば、剣を持った少年が小狼に向かってそれを振り翳そうとしている。しかしそれもサクラの制止の声によって止まってしまったのだ。
「――小狼君を殺さないで!!」
小狼の首元に剣の切っ先を向けながら中国服の少年の視界に入ったのは、真っ赤になった瞳からボロボロと涙を溢すサクラの姿だった。そこで思い出したのは、昔から「サクラ」と言う存在のあの顔には弱いと言う、自身の情けない弱点である。そこですぐ飛び退かったのが悪いのだろう。何時の間にか貫かれていた右足からは自分でも驚く程の血液が噴き出しており、遠くからは彼女の息を呑む声が聞こえる。だんだんと遠ざかる足音に思わず手を伸ばす。――だめだ、小狼。行ってはだめだ。本当に、本当にもう。
戻れなくなるぞ。
「…小狼…君…」
震える声に返って来たのは会えた喜びの笑みでも、サクラの無事を確かめる焦った声でもない、冷たく鋭い血にまみれた刀の切っ先だった。振り翳されたそれは彼女の身体を切り裂いたのではなく、どうやら彼女を包み込んでいる球体の膜を切り裂いたらしい。けれど、それが彼女を助ける為ではない事は小狼の視線の先を見ればすぐに分かるだろう。
「駄目!!」
サクラの後ろにある繭に刀を向けた小狼に声を張り上げた彼女は思わずそれに手を伸ばすが、どうやら遅かったようである。しかし、斬撃を繭の表面までに抑えた小狼は、その中から出て来たサクラの羽根を手に入れた。その瞳は酷く冷たく、彼女を救いたい一心で行動していた今までとは決定的に違っている。涙を流す彼女の腕を引っ張ると、彼は彼女を腕に抱える。それと共鳴する様に、彼女の真横では羽根が淡い光を放っていた。
「いや…待って……小狼君…」
だめだと、これを受け取ってはいけないと、本能がそう叫んでいるように感じた。ここで眠ってはだめだと、受け入れてはだめだと、そんな気持ちしか湧き起らなかった。ここで貴方の手を離せば、もう二度と、このぬくもりを感じる事は出来ないのだと、分かっていたのかもしれない。けれど、どれだけ止めても目の前の貴方は聞き入れてはくれなくて、どんどんと入り込んで来るあまりにも現実離れした記憶が私の脳内に刻まれて行く。
「羽根は取り戻す、必ず」
もう、羽根は良いのよ。小狼くん。