隠されたこいごころ
レイノは『小狼』と同時に着地するが、痛みからか、体幹が良くならない。そんなふらつく彼女を、彼は支えてみせたのだ。そんな二人の様子を見てほっと安堵の息を吐いたサクラには、「東京」以前のサクラの面影があった様に感じた。一方の敵の白(ホワイト)は大きく目を見開かせ、現状を受け止められないようである。
「チェックメイト! 黒、WIN!」
再び兎のアナウンスがその場に響き渡る。その瞬間、騒然としていたその場は静まり返った。レイノと『小狼』の周りには身動きが取れない三人の男が横たわっている。そして、ステージを囲む茨には一人の男がぶらさがっていた。どうやら彼女の蹴りの威力があまりに強かったらしく、あの背の傷は暫く治らないのだろう。
「あれは俺が小僧に教えた…」
「小狼君が教わった事は、彼にとってもそうなんだね。彼は、小狼君と同じ日々を生きて来たんだ…あの目を通じて」
(それにレイノ、あいつ…)
「殺す気だった、とか?」
「な、――」
「……なんてね」
先程の『小狼』の戦い方は、ファイや黒鋼にとっては目を瞠るものだった。もう一人の小狼に教えた筈のそれを、『小狼』は自然とやってのけた。『小狼』にとって、小狼が経験して来た事は確かに自分の糧となっているのだ。一方、レイノの戦い方には今までにはない、思い切りの良さがあった。あの一瞬、キラリ、と輝いた彼女の眼光には確かに殺気が孕んでいた様に思う。その事を言い当てられた黒鋼の肩は僅かに跳ね、思わず言葉にならない声を発していた。しかし、視界に入ったファイの表情は酷く穏やかだった。
それはまるで、「汚(けが)れなくて良かった」と言いたげだ。
「勝ったのに、ちっとも嬉しそうじゃありませんね」
レイノの様子をずっとモニターから眺めていたイーグルは、まるで答えが分かっているかの様に言葉を紡いだ。毎回、バトルが終わる度に彼女らの様子を眺めていたが、互いに勝利を分かち合う、と言った様子は見られない。それは、彼女らが借りているアパートに戻る際も同じだった。何処か距離を感じるその視線に、彼は酷く興味を持ったのだ。
「まあ、それも仕方ないか」
「ジェオには、言っておかなくていいのか」
「言ったらもっと怒りそうですから」
ぼそり、と呟かれた意味深なその言葉に、ランティスはただ眉を顰めるのみである。イーグルのやりたいこと、と言うか、イーグルが頼まれた事には理解があるつもりだ。しかし如何せん自由なやり方を好むため、端から見れば酷く人道に反しているのだろう。「マフィア」と言う時点で人道もクソもないのだが。そんな非道な組織の中でも比較的常識的なジェオにとって、イーグルのこの思考回路は天敵なのである。
「さて、このまま行けば、最終戦に残るのはあの子達でしょうね」
――ああ、早く解放されたい。
アパートに戻って来たレイノらは顔を合わせる事は無く、それぞれ、各々の行動を起こし始めた。彼女と『小狼』は茨によって傷付いた上半身の治療をし、サクラは再び自室に閉じ籠ってしまっている。そんなサクラに、ファイは付いて行ったらしい。物音が一切しないサクラの部屋の扉を見つめては顔を歪ませる事を繰り返す『小狼』は、見ていてただただ辛いものだ。
『黒鋼…』
先程までリビングに居なかった黒鋼はモコナの声を通り過ぎ、『小狼』に唐突に透明な液体が入ったグラスを差し出した。その行動を理解できない『小狼』はただただ瞬きを繰り返すしかない。時折とくり、と揺れるとろみのある液体はとても綺麗で、思わず手が伸びそうになる。しかしそれを我慢し、『小狼』は黒鋼の顔を見上げた。
「酒、飲めるのか」
「もう一人のおれが飲めたんだったら…」
「おまえは飲めるのかと聞いてるんだ」
黒鋼が差し出して来たのは酒だったらしく、彼の左手には酒瓶と二つのグラスが持たれていた。仕事終わりの一杯と言いたげなそのコミュニケーションの取り方は如何にも彼らしい、と言えるだろう。そんな彼の一言に、『小狼』は琥珀色の瞳を大きく開く事になる。――この人はあくまでおれともう一人のおれを別の人間で考えてくれているのだ。――そんな考えが思い浮かんだ瞬間、隣ではレイノが嬉しそうに笑みを溢していた。
「……分からない」
今の『小狼』には16歳までの記憶しかない。そこまでしか生きた事がないのだから仕方がないのだが。酒の味と言うのを嗜んだ事がない故にこう言った言葉しか出せないのだが、黒鋼はそんな『小狼』に右手のグラスを押し付けた。そして、レイノの隣に座り、唯一の楽しみな時間を開始させたのだ。
『うん! 小狼飲んだらどうなるか、モコナ知りたいな! 飲もう!』
「酒瓶ごと飲むつもりかよ」
『そんなー。勿論、そのつもりだよ!』
「黒鋼、わたしも飲みたい。お猪口ない?」
「あいにく、このぼろっちい部屋にはお猪口なんぞ趣のある物はねーよ」
「黒鋼が趣ないもんね」
「何か言ったか自己中女」
「いふぁいってばあ!」
モコナが酒瓶に飛び付いた後、レイノは黒鋼からそれを奪い取った。そして彼に強請り始めたが、その彼から頬を引っ張られる、と言う反撃を喰らったのだ。その後に続いた「自己中じゃないし!」と言う反論はもはや聞き流されているのだろう。そして繰り出される彼とモコナの攻防を見つめては、彼女は『小狼』の頬に手を伸ばし、それを優しく撫でた。何時もの笑顔を浮かべて「大丈夫」と言う言葉を送った彼女は昔と何も変わっていなかった。――ああ、いつもいつもこうだ。どれだけ悪態を付いても、最後にはこの少女に救われるのだ。
「…ありがとう」
擦り寄った先にあったお前の温もりは、ただただ優しかった。
「……分かってるんです。あのひとは……小狼君じゃないって」
自室に閉じ籠り、ベッドに俯いたままのサクラは唐突に、静かに言葉を紡ぎ始めた。「小狼」、たった二文字のその言葉を紡ぐのにここまで躊躇ったのは初めてだ。それはあの『小狼』が居るからだった。――たとえ、あのひとを素に創られたとしても、今まで色んな世界で会ったように、姿は同じでも違うひとだって、思っていたはずだった。なのに、だめなのだ。顔だけじゃない、声も、仕草も、あの真っ直ぐな瞳も、同じところを、似てるところを、見つける度に、その思いは儚く崩れて行ってしまうのだ。
「どうして…今、目の前にいるのが、小狼君じゃないんだろうって…」
「サクラちゃん…」
溢れた本音は、幾ら目の前にファイが居ても我慢できるものではなかった。一度も溢した事のないそれはただただ切実で、そして、痛々しい。思わずサクラの手に自身の手を重ねるも、彼女に向いていた意識はとある感覚で一瞬にして消滅したのである。それは何時か来ると思っていた。しかし、来て欲しくなかった感覚だ。
『ファイ』
(チィ)
『ファイ』
久々に聞く鈴が鳴る様なソプラノの声色は紛れもない、ずっとオレ達を守ってくれていたチィのものだ。しかし、それが聞こえたと言う事は、もう後戻りは出来ないと言う事を示していた。重ねて呼ばれる自身の名前に思わず眉間に皺が寄る。それ程までに、オレは目の前のサクラちゃんが見えていなかった。そしてその後に紡がれたチィの言葉に、オレは更に追い詰められる事になるんだ。
『王様、起きたよ。――王様、目を覚ましたよ。ファイ、聞こえる?』
言葉を変えてそれをファイに伝えたチィの声色は、数年前と何も変わっていない。それに僅かな安堵感を覚えた彼だったが、その直後、脳裏に浮かんだアシュラに、僅かに瞳を揺らがせた。思い出すのはこちらに手を差し伸べ、優しく、柔らかい笑みを浮かべてくれるアシュラの姿である。
(……聞こえてるよ)
「…ファイさん」
「なぁに?」
「何かあったんですね」
「何も…」
「言いたくないなら言わないでもいいんです。でも、笑いたくない時に…笑わないで」
唐突に聞こえたベッドのスプリング音に何時もの笑みを浮かべるが、ふと、サクラの指先がファイの唇に触れる。その瞬間、笑みをなくしてしまった彼は、自身の覚悟が如何に脆い事を悟った。情けないなあ、弱くてごめんね、と。そんな言葉を送りたい人物は、この場には居ないのだが。
「だったら、サクラちゃんもオレの前ではそうして欲しいな」
目の前で顔を歪めるサクラを視界に収め、ファイは彼女の手を取り、その言葉を送ってみせた。そして、インフィニティに来て彼女がチェスに参加する、と宣言した後の彼女の様子が気掛かりだった、と紡いだ。その要因として、彼女に明確な目標が出来た事が挙げられる。
もう迷わない、と決めた彼女はただただ小狼を求めて旅を続けている。そんな彼女が、この国に来てからは特に『小狼』を避けて、部屋に閉じ籠ってばかりなのだ。そして今日の対戦では、レイノらに自分の決心を、レイノらと居る事を迷っているのだと伝える為に、サクラはわざと迷っている様に見せたのだと、彼は感じたのである。
「だからね、あの忍者さんにも、言っておいたんだ。「サクラちゃんが迷ってる」って。余計だったかな?」
「……いいえ。いつから分かってましたか?」
「君がみんなの前で次元の魔女さんにチェスの賞金の事を話した時くらいかな」
ファイが自分の考えを言った後、サクラの表情は一変した。影があるその表情はある意味彼女らしくなく、しかし、ある意味で今の彼女にとっては、最も相応しいものに思えた。再び長々と言葉を紡ぐ彼は、彼女にとある違和感を抱いた、と言う。小狼が壊した国への復興として何かを送りたいと、以前の彼女が言ったのであれば何も問題はない。しかし、今の彼女には明確な目標がある。更なる非劇を起こさない為にも、賞金稼ぎをしている時間があれば、小狼を追い掛けるだろう。そう考えたファイは、「賞金の他に、この国に留まりたい理由があるのではないか」と思ったのだ。
「……欲しいものがあるんです」
「それは、知ったらリビングにいる人達が怒っちゃうようなものかな」
「きっと…特にレイノちゃんには、もっと嫌われちゃうかもしれませんね」
「…それでも欲しいんだね」
「はい」
「…了解。全て、君の望み通りに。それが、オレの望みだから」
たった一言を告げたサクラの表情は先程と何も変わらなくて、ファイは何を言っても無駄だろうと、瞬時に悟った。しかし、唐突に耳に入った「レイノ」と言う名にひゅっと息を吸い込む事になった。おそらくサクラにそう言った気はないのだろうが、このタイミングで言われるのは些か辛いものもある。そんな複雑な気持ちを抑え込む様にして、彼はサクラの手の平にそっと口付けた。――もう時間は、残り少ないかもしれないけど。
オレに出来る事なら、何だってしてやりたいんだ。
「ふう……」
黒鋼からもらった一杯だけの酒を呑み干したレイノは一足早く浴室に籠っていた。軽い水音が響き渡っている密室で息を吐くが、おそらく外には何も聞こえていないだろう。インフィニティに来てからと言うものの、心休まる場所は浴室と自室のみとなってしまった。以前ならば一行が集まるリビングが一番リラックス出来たのだが、今の状況ではただただ気まずいだけである。このタイミングでリビングにファイしか居ない、となった日には死ねる気がする。思わず自己嫌悪に陥りそうになるが、自身を鏡に映した時、ふと左足の刺青が視界に入った。
「これがバレた暁には『小狼』と黒鋼に殺されるかもしれない……」
(まあ、消し方知らないんだけど)
左の太腿にある、何処か違和感を感じるその刺青は、ミッドガルド国で夢に入り込んで来た飛王によって付けられた物である。その証拠に、この刺青の中央には蝙蝠のマークが刻まれていた。通常時に痛みはないのだが、気まぐれで疼く時がある分厄介なため、消したいのだが、なかなか上手く行かないものである。通常時には色が薄くなるそれはレイノにある記憶を呼び起こさせた。それは断片であるにも関わらず、彼女の中に懐かしさを込み上げさせるものだったのだ。
『旅をしてるんだね』
『うん……本当は、父様も一緒なんだけれど…悪い人に捕まっちゃったから』
『……寂しくない?』
『……さみ、し、い?』
しんしん、と静かに雪が降り積もり、一面は銀世界だ。そんな中、二人の幼子は互いに暖を取り合う様に擦り寄っていた。つい先ほど知り合ったばかりの二人は探り合う様に会話を進めている。その中で度々引っ掛かる違和感に、少年は思わず眉を顰めた。どうやらこの少女は人間としての感情が著しく欠如しているらしい。
『さみしい、は、分からない、けれど…ここ、がきゅっ、て…苦しくなる』
『……君はとても、不器用なんだね』
『ぶき、よう?』
『優しいんだね、ってこと』
たどたどしく言葉を紡ぐ中で、少女は胸元辺りの服が皺になるくらいに握り締めた。その様子を見て、感情がない訳ではないのだろうか、と少年は思案する。そして、その後に続けた言葉にぽっと顔を赤らめた彼女に、彼はゆるり、と口角を緩めたのだ。――ああ、何だ。感情がないんじゃない。どうやって気持ちを出せば良いのか分からないだけなのだと、その時に悟った。その時に、微笑ましい、と言う感情も知った。
『もう行っちゃうの?』
『うん……やる事が、あるから』
『初めての友だち、だから、寂しい……』
『…私も、さみしい、んだと、思う』
『…ねえ、ソール、また、来てくれる……?』
『会いに、来る…あなたに』
止む事がない雪は、二人の間にも割り込んで行く。それと色素の薄い金髪が同化してしまうのは仕方のない事だと思えた。囁く様に言葉を紡ぐ二人の声は空気に吸い込まれて行き、しかしそこには確かに情が垣間見えたのだ。「ソール」と呼ばれた少女は少年の方へ真っ直ぐな視線を向け、少し力を込めて言葉を紡ぐ。しかし、すぐに後ろを向いてしまった彼女は何処からか自身の身長の何倍もある魔術具を取り出し、それをきゅっと握ってみせた。そして、再びこちらに顔を向けたのだ。
『またね、―――』
その時に浮かんだ笑顔は、紛れもなく本物だった。
「……あーあ」
いつの間に泣いていたんだろう。全身が濡れているのに、どうしてこんなにも心は熱いのだろう。身体は冷たいはずなのに、このままで良いはずなのに、わたしの身体はただただ温もりを求めていた。誰でも良い訳じゃない。ただあの人に、ファイさんの傍にいたいだけだ。記憶の中の少年の正体も分かっている。それでもそんな訳ない、と拒絶するのはやはり、あの人がわたしを選ぶ訳ないと思っているからだろう。
ずっとずっと好きだった。「私」がわたしになる前から好きだった。ずっと貴方の笑顔に惹かれていた。苦手だと線を引いて、惹かれるのが恐い、と思っていた事に初めて気づいた。傍にいて欲しかった。サクラちゃんじゃなくて、わたしを見て欲しかった。けれど、こんな汚いわたしを見せたくはなかった。
「さ、みしい…ファイさ、ん」
ただ貴方に触れたいだけなのに、貴方はそれさえ叶えてくれない。
「おい」
思い切り泣いたせいで一向に赤みが引かないレイノの目は、誰がどう見ても彼女の顔には似合っていなかった。彼女の白い肌に「赤」と言う色は酷く目立つのである。それに気付いたのは立派な酒豪である黒鋼だけである事が唯一の救いであろう。こんなところをモコナにでも見られれば、彼女は罪悪感や申し訳なさで死ねる気がする。
「っ…く、ろがね…いたんだ」
「……また泣いたのか」
「…黒鋼は本当目ざといよねぇ。何で気づいちゃうかな、恥ずかしい」
「お前はすぐ茶化すよな。それ止めろ」
「……ごめん」
本当は誰にも見られたくはなかったのだが、もしここに誰も居なくても、明日になればきっと誰かにバレていただろう。その事が分かっているから、レイノは何時もの様にへらり、と軽く笑うのだ。けど、それは黒鋼には通用しない。分かっていた筈なのにやってしまうのは彼女の悪い癖だ。
「…そんなにすきか」
「へ、――」
「そんなにすきか、あいつのこと」
「な、に言って…」
「――すきか」
「く、くろがね…?」
僅かに続いた沈黙の後(のち)、黒鋼は唐突に言葉を発した。あまりに前触れのないその言葉に、レイノはぱちくり、と瞳を丸くさせたのである。しかし、その問い掛けが止まる事はなく、二人の距離は決して縮まってなどいないのに何処か迫られている様に感じた。シャワーの後の汗とは違うものが噴き出す中、彼女は唐突に目の前の男に腕を引っ張られ、抱き締められたのである。
「…れじゃ」
「え…?」
ぼそり、と呟かれたその言葉は確かに耳に届いた筈なのに、レイノは信じられない、と言いたげに戸惑いがちに声を漏らした。黒鋼には珍しい小さな声に驚いてしまったのもその要因かも知れない。頭を押さえられているせいで彼の顔が見れない事も立派な理由になるのかも知れない。そんな多くの可能性を考えて、彼女は改めて自分は無知である事を悟ったのだ。
「――俺じゃ、だめか」
けれど、その震える声から何かを悟ったのも本当だった。
「……なんてな。驚きすぎだろ」
「……へ?」
「すっげぇ間抜けヅラ。それ、小僧に見せてやろうか?」
「や、やだよ!」
「声でけぇ、起きるだろうが」
「っ…お酒! 呑む!」
「へいへい」