まがいものの憎悪
白は嫌いだ。昔着ていた服を思い出すし、自分の手がより汚れて見える。刃物を持つのも嫌いだ。人の肉を切り裂くあの感覚を思い出す。心の中では「嫌だ嫌だ」と言いながらも頭の中は真っ白で、ただただ血を流す事しか出来なかったあの頃を思い出す。――ただただ弱かったあの日々は、わたしにとっては嫌な思い出だ。
夕方ごろ、イーグルに再び呼び出されたレイノは二度目のお茶会に付き合わされた。その後に本題として今夜の「チェス」の話をしたから良かったが、もしもお茶会の為だけに呼び出したのならば彼女はこの温室をぶち壊していただろう。
「…あなた、こう言うの気にする人なんですか?」
「そのドン引きしてるような目止めていただけますか?」
「だって…ねぇ?」
「俺に振るな心底困る」
イーグルに手渡されたとある物をまじまじと見つめ、レイノはぼそり、と呟いた。それに対して彼は何時も浮かべている温和な笑みを浮かべ、しかし、何処か苛立っている様な声色をこの場に響かせた。そんな彼の新たな一面を見ても彼女の様子は先程と何ら変わりは無く、矛先をジェオに向けたのだ。その時のジェオの表情は被害者に相応しい良い顔をしていたと言う。
「…本当に良いのか」
「構いません。今更迷うとでも思います?」
「…いや、思わないな」
先程までの楽しげな雰囲気は、ランティスが言葉を紡ぐ事によって一変した。その言葉に僅かに目を見開くが、すぐに目を細め、レイノは困った様に彼を見上げる。そして、思い切り笑んだのだ。その思い切りの良さが、その表情があまりにも明るくて、あの女が言っていた事は嘘なのではないか、そんな事を思ってしまったのだ。その腹に隠れる黒い感情を知らずに、彼はただ目の前の彼女を憐れむ様に見下ろした。
「そろそろ、わたしも我慢の限界なんだよねぇ」
僅かな暗がりを見せた少女の表情に気付く者は、まだ居ない。
夜、レイノとモコナを除く一行は「チェス」の会場に赴いた。サクラは何時もの様にファイに支えられながら階段を上って行く。この行為をどれだけ重ねられても、慣れはしない。寧ろ罪悪感が募って行くのだ。目の前に映るファイの微笑みはやはり貼り付けられたもので、少し悲しい気もする。
そんな時、サクラの手がピク、とファイの手の上で跳ねたのだ。その直後に強めに握られた自身の手に思わず目を見開くと、目の前の翡翠色の瞳には自身の驚いた顔が映っている。
「ファイさん」
「なぁに?」
「言ってくれましたよね、わたしの望み通りにと」
「それが、我が姫の望みならば」
「じゃあ、たった今これから、自分を一番大切にすると、貴方の一番大切な人の傍にいる、と約束して下さい」
「…サクラちゃん」
サクラちゃんのその言葉のせいで、オレの脳内はなぜか今ここにいないレイノちゃんでいっぱいになってしまった。昨日あんな事をやって、一夜で忘れられるはずもないんだけど。横から注がれる忍者さんと『小狼』くんの視線には気づいてるけど、それにかまけている暇はないみたいだ。
「準備はよろしいですか?」
「最後のマスターは貴方ですか」
「一応責任者ですから」
そんなファイの思考を途切れさせたのは柔らかな声色をしたイーグルの一声だった。両隣にはジェオとランティスを携え、臨戦態勢は充分なようだ。そんな彼らを見つめるサクラの視線は冷たく、そして冷静だった。しかし心の中では、この場に居ないレイノを案じる気持ちが垣間見えていたように思う。
「さて、最後の『チェス』は駒は互いにひとりで行いたいと思うんですが、いかがですか?」
「おれがやる」
「了解しました」
イーグルが提案を持ち掛けた瞬間、ジェオとランティスの顔色が、少しばかり暗くなった気がするが気のせいだろうか。そんな僅かな変化にも気付かず、『小狼』はただ前を見つめて口を開く。その答えに対して、イーグルは快く笑みで答えた。その『小狼』の答えに反対する者はこの場にはいない。『小狼』が黒鋼とすれ違う瞬間、忠告を受ける。その意味が分かる時はそう遠くはない。
サクラとイーグルがそれぞれ指定の席へ腰を落ち着けるとステージと階段が離れ、卵型の椅子が鎖で吊り下げられる。ガコン、と言う音と共に二人の身体が一度揺れる。しかし、その二人の視線が揺らぐ事はなかった。こちらも臨戦態勢は万端なのである。するとふと、彼の形の良い唇がゆっくりと弧を描く。
「武器ですが、それは、いつも使っているものではないのでしょう? 貴方の最も得意とする武器で闘いましょう。魔力とやらも、使用可で」
「監視してやがったのはあいつらか」
長々と紡がれた言葉たちは、『小狼』にとっては確信を生み出すもの達だった。黒鋼の言う通り、『小狼』も同じ様な事を考えているのだろう。そんな彼らの反応に先程よりも深い笑みを浮かべたイーグルは「その力も、マスターの精神力次第ですが」と付け加えた。一方で、ファイは何かを考え込む様に眉を顰めている。脳内に浮かんでいる人影が誰なのか、それが分かる者はファイだけなのだが。
イーグルの言葉を聞いた『小狼』はサクラの頷く様子を目に焼き付け、持っていた武器をステージ外に居る黒鋼に投げ付けた。そして両手をクロスさせ、その間から魔力が込められた剣を取り出したのだ。
「では、こちらの駒を……レイノさん」
「は…?」
そう言われて出て来た人物は確かにレイノだった。しかし、この国に来てから何時も着ていた黒のワンピースではなく、ところどころにビーズが散りばめられている白のワンピースだ。何時もならサイドで緩く纏められている髪も無造作に下ろされ、右側に淡い紫色のバレッタを付けている。「異世界の同一人物」なのではない、正真正銘仲間である彼女だ。――なぜ、お前が、そっちにいるんだ。
「武器はこれで良いですか?」
「…魔力は?」
「善処します」
「従順な上司は嫌いじゃないです。今日はよろしくお願いします」
驚く『小狼』らを他所に、イーグルは何処からか取り出した刀をレイノに差し出す。指先で刀をそっとなぞるその姿は美しく、そして、その行為そのものが酷く手慣れたものだった。背でイーグルの言葉を受け止めながら、彼女はそれを一振りする。ブン、と風を切る音が清々しい。コツ、と靴音を鳴らし、彼女は『小狼』と対峙した。その時の顔は、今でも忘れられない。
「『小狼』も、よろしくね」
――目元が笑わないお前の中には、確かに怒りが棲んでいた。
「お前、何考えてるんだ……?」
「『小狼』でも分かんないの?」
「何で、わざわざそっちに…」
「…さぁ。ただ、わたしとイーグルさんの利害が一致したから、かなぁ」
砂埃が舞っては、レイノと『小狼』は目を細めた。そして再び、互いの顔を瞳に映す。状況は同じである筈なのに、二人の表情はまるで異なったものだ。場外に居るファイや黒鋼でさえも同じく、サクラに至っては泣きそうである。そんな反応をレイノは嘲笑で吹き飛ばし、冷ややかな瞳で『小狼』を見つめたのだ。
その後、その場に戦闘開始の声が響き渡る。
その音が合図だった様にレイノは素早く刀を構え、その切っ先を『小狼』に向けた。彼女の双眸は彼にしか注がれておらず、それらには確かに殺気が込められている。――本気だ。――すぐに分かった。けれど、理解は出来なかった。休む暇もなく与えられる突撃に彼は身体を翻す事しか出来ず、その瞳には未だに迷いがあるようだ。仲間である筈の彼女に手を出したくない、そう言う要因も勿論ある。しかし、過去をどれだけ遡っても彼女に勝てたためしがない。それが一番の要因だった。そんな彼の気持ちを察したのか、彼女は一つ舌打ちを響かせてその手を地面に触れさせる。すると、その場から一直線に鋭い雷撃が突き進んで行ったのだ。
「その魔術…レイノ、お前…死ぬ気か?」
「どうだろうね」
「っ…答えろ」
「…じゃあ『小狼』、貴方が姫さんを殺してくれるの?」
その雷撃は見た事があった。今と同じくらいの時、レイノ自身が「まだまだ体力が足りないからすごい疲れるんだけどね」と言っていた攻撃魔法だ。人間、そう簡単に体力が付く訳ではない。彼女を見れば、肩で息をしている。膨大な魔力を使用した証拠だ。このまま剣術ではなく魔術を使い続けていれば、いずれ彼女は倒れてしまうだろう。それも承知の上なのか、彼女はとんでもない事を口にした。
「は…?」
「この国に来てからの姫さんの自分勝手な行動は目にあまる。『小狼』も思ってたでしょ? それらしい言葉で自分を抑えてても、彼女を守るのは自分が良かったって、一度も思わなかった訳がないでしょう」
「レイノ!」
「――だからさ」
『小狼』が目を見開いている間にもレイノは手の平に電気の球体を浮かばせている。そこからはパチパチ、と痛々しい音が鳴っていた。それをふわふわ、と浮かばせては淡々と紡がれる言葉に図星を突かれたらしい彼は、思わず声を荒げたのだ。しかしそれでは止まらず、彼女はふ、といやらしく口角を歪めたのである。
「目の前で人が死ねば、ちょっとは目を覚ますんじゃないかってね」
――ぞくり、と粟立つ背筋に、おれは確かに恐怖を感じた。
「レイノちゃん…」
「…『小狼』、分かった? 今のわたしは敵。敵ならそれを、わたしを、倒さなきゃね?」
「っ……分かってる」
その瞬間、刀と剣が擦れ、痛々しい金属音がその場に響いた。互いが引かぬその攻撃は、時折地面をも抉る。唐突に飛び出して来る小さな石の欠片を避けながら、レイノは『小狼』の懐に潜り込み、彼の顔を蹴り上げた。それだけでは終わらず、加えて彼の顔を狙って再び足を振り翳したのである。しかしそれは彼の剣によって跳ね除けられ、二人はそれぞれのマスターの隣にある柱に着地した。
ピピッと言った機械音が微かに響く。それが合図だった様に二人は柱を足場にして再び飛び出した。『小狼』はその勢いを利用してレイノに鳩尾を喰らわせる。しかしそれは彼女の手の平で受け止められ、準備していたであろう魔術で彼の身体を吹き飛ばした。そして、再び彼の腹に蹴りを入れたのである。
その時の勢いで『小狼』の身体は一瞬場外に飛び出すが、彼は地面に突き刺した剣を足場とし、軽やかに宙を舞った。そして、再び金属同士を擦り合わせたのだ。その時のレイノの口元には、違和感な程の笑みが浮かんでいた。
「あいつ、どう言うつもりだ?」
今回の「チェス」が始まってから、いや、『小狼』くんの相手があの子だと分かってからオレは、ただただ呆然と周りに浮かぶモニターを眺めていた。ふとこの場に響いた「黒鋼」の独り善がりな問いかけにも答えない。いや、答えられない、なのかもしれない。あの子が今何を考えているのか、オレには皆目見当も付かないから。昨夜やった事は人として最低な事だと思うけど、少しでも前までのような距離に戻れるかもしれないと思ったのは勘違いだったんだろうか。
「お前昨日あいつと話したろ?」
「…オレさ、正直、あの子の事は何でも分かってると思ってた」
「あ?」
「良いから黙って」
飽きもせずにオレに問い掛けて来る「黒鋼」は相も変わらず「東京」以前と何も変わらなくて、あの子の心を支える器に相応しいと柄にもなく納得していた。そこまで分かっているのに、あの子が思っていること、今までならすぐにある程度は分かっていたはずなのに、今は靄がかかったようにあやふやだ。それを言おうと思ったのに口を挟む横の男に苛立ちを感じて投げ付ける様に言葉を紡げば、「黒鋼」は呆れた様な目でオレを見た。何でだ。
「…何も、分かってなかった」
「…おう」
「あの子はいつになったら、オレの隣にいてくれるんだろう」
「お前が突き放したんだろうが」
「…傷つけたくなかった。だから、離した。そうしたらもう泣かないと思った。けど、そうしたら、あの子が何を考えてるのか、余計に分からなくなった」
最初は良く分からない子だと思った。傷だらけなのにヘラヘラ笑って(オレも他人の事は言えないけど)、何を考えてるのか分からなかった。次は、小狼くんと同じで良く無茶をする子だな、と思った。少しでもオレが目を離すといつの間にか傷を作ってて、女の子なのに何でこんなにグイグイ行っちゃうんだろうって思ってた。それからずっと観察してて、ただ誰かを守りたいだけなんだと気付いた。そこでふと、この子は誰に守られるんだろう、そんな事を思っていた。ジェイド国で死にかけたあの子を助けて、やっとの事で温もりに触れられて、失くしたくないものだと気づいた。
そこからは守ろうと必死だった。慣れない事をして疲れても、あの子の弾ける様な笑顔を見たら達成感さえ芽生えた。いつの間にか、すきになってた。だから「黒鋼」の気持ちの変化にもすぐ気づいたし、馬鹿みたいに妬いてた。その時くらいから、オレの気持ちはきっと歪んでた。その後、「東京」でオレが傷ついた事に泣いたあの子を見て、離れる事を決心した。なのに中途半端に身体の関係だけは持ってあの子を本気で突き放す事なんて出来ず、最低だと思う。
けど、それでも、あの子の隣を奪られたくなかった。そんな気持ちだけが空回りして、気づいたらあの子の気持ちも何もかもが分からなくなっていた。近い距離に甘えていたのかもしれない。だから、オレよりも近いところにいる「黒鋼」にムカついた。いや、何も分からなくなったオレ自身にムカついていたのかもしれない。だから、その後の「黒鋼」の言葉に思わず顔を歪めたんだ。
「あいつはいつでも、お前の事しか頭にねーよ」
刀の切っ先を『小狼』に向けて突き出したかと思えば、次には大振りで刀を振り翳し、その直後にひじ打ちを喰らわせようとする。そんな強弱が付いた連続攻撃に彼の足場はぐら付き、その隙を突いたレイノの手によって彼の身体は痛々しくも地面に叩き付けられた。そして、身動きが取れなくなった彼目掛けて隠し持っていた短剣を向けるが、それは避けられた。しかし、先ほど叩き付けられた衝撃で背中の傷が開いてしまったらしい。
「目を、目を…閉じてろ。おれを見なくていい。ただ勝つ事だけを考えろ」
「小狼君…」
血がサクラの視界から外れて行くその一瞬は、彼女にとっては罪悪感を募らせる以外の何ものでもなかった。しかし、そんな時に限って『小狼』は彼女が欲しい言葉をくれるのだ。あれだけの仕打ちをしたのにも関わらず、この人はどれだけの優しさを持っているのだろう。けれど、「有り難う」と言う場面でもない。そう考えた彼女は黙って翡翠の瞳を隠した。そう、これで良い。レイノが怒る理由も分かる。けれど、それで諦め切れるほど甘い考えでここまで進んで来た訳ではないのだ。
「さすが、『彼女』を望むだけはある。まあ、それも当然といえば当然なんですが……さて、レイノさん、そろそろアレ使えませんか?」
「アレって…今ですか?」
「ええ。力、残ってますよね?」
「…精神力、大丈夫なんですか?」
「善処します」
「廃人になっても知りませんよ」
「その時は貴女も道連れです」
「……ほんと、いい性格してる」
そんなサクラの一連の判断を見ていたイーグルはふ、と笑みを浮かべ、それを深めた表情をレイノに向けた。それに気付かないレイノは彼の言葉にぱちくり、と瞬きを繰り返すだけである。しかし、そんな彼の歪んだ一面を見てしまったレイノは口角を引き攣らせ、鼻で笑ってみせたのだ。ほんと、喰えない野郎である。しかしそれも一瞬の事で、ピピッと言った機械音を耳にすればレイノの表情は研ぎ澄まされたものとなったのだ。
レイノは刀を構え直し、それを使って『小狼』に突撃を繰り返す。それをまともに受けていたが、サクラの首元から機械音が響けば彼は軽やかに後ろに向かってステップを踏んだのだ。しかしその程度の距離は今回のレイノの攻撃では、さほど変わりはない。レイノはふと小さく唇を動かし、ぶつぶつ、と何やら呟いている。それが何かは定かではないが、それが長引く程レイノを纏う力が強まっている気がした。その呟きが終わった瞬間、レイノの口元には笑みが浮かんでおり、足元には独特な魔法陣が現れていた。彼がそれに気付いた時には既に遅く、ステージいっぱいにレイノの魔力が充満したのだ。
「なんだありゃ」
「あんな力使わせんなよ! お互い怪我じゃすまねぇだろ!」
「イーグルは考えてやっている」
「手加減してるって!?」
「いや、本気だ」
「だから、本気でやったら二人とも死ぬっつってんだよ!!」
黒鋼が目を見開いて見た先にはビリビリ、と空気が震えている様(さま)が広がっていた。その中で唯一目を瞑っているサクラはよほど集中しているようだ。一方、その様子を見ていたジェオは黒鋼以上に驚愕しているようである。隣に居るランティスは落ち着いていると言っても予想よりも酷い現状に思わず身体を震わせた。しかし、自身よりも感情を昂らせている者が居れば、落ち着くと言うものだ。そんなランティスが見る先には俯いているファイが映っていた。
ステージ上に居る『小狼』は見た目よりも衝撃が大きいレイノの攻撃を剣一本で凌ぐので精一杯だったようだ。ビリビリ、と痙攣する手首は彼女の攻撃が本気である事を示している。その痺れが取れない内に煙を裂いて現れた彼女の息は荒く、酷く疲弊していたように見えた。
「さっさとくたばって、よ!」
荒々しく投げ付けられたその言葉は、何処か投げやりな雰囲気を孕んでいたように思う。その言葉と共に迫るレイノの両足は地面にクレーターを作った。どうやら魔力で筋力を強化していた様である。その攻撃に加えて短剣を投げ付けられた『小狼』は勢いに負けて後転し、その身体はサクラが座る卵型の玉座の下まで投げ出された。その後に呟かれた「次で決着をつける」と言う彼の言葉はレイノの耳にもきちんと入っている。
これが最後の攻撃となるのだろう。レイノと『小狼』はそれぞれの武器に魔力を込め、それを相手に向けた。その直前、一瞬だったが、彼女がファイと黒鋼の方に視線を寄越したのは気のせいだったのだろうか。
「――雷帝招来!」
その意味が分かるのは、意外にも近しい未来なのである。