任務を終え、藤の家で一晩を過ごした。あたたかな空気を纏う、優しいひとたちに見送られる。どうかこれからも健やかに、どうか鬼に負けませんように。俺の人生の幸せを願う別れの言葉は、いつも胸のなかにひとつの雫のように滲んでいき、鬼との戦いで摩耗した心を癒してくれた。藤の家に手を振りながら、帰り道を急ぐ。

きみに会いたいと思う。鬼と斬り合う夜のなかでも、太陽が照らす眩い光のなかでも。

浄化されたような胸を押さえ、六花の姿を思い出す。俺には今、帰る場所がある。早く早く、と勝手に足が進む。家に帰ろう、きみが待っていてくれる唯一のその場所に。景色が流れていくようだった。逸る心のまま、俺は進んでいく。登りきった朝日が世界を輝かせていた。きみはきっとまだ眠っているだろう。今日の朝日が美しかったことを、教えてあげたいと思った。

帰り道には街があった。小さくも活気のある賑やかな街だった。平和に生きる街の人々の顔を見て、どうしてか胸がいっぱいになる。この人たちの元に、せめて鬼に与えられる悲しみが訪れないようにと願った。商店街のあたりに来ると、活気はいっそう大きくなる。なにか美味そうなものがあれば六花に買っていってやりたい。最近は千寿郎と揃って南国の果物に目がないと言っているのを聞いたのを覚えている。横目にちらちらと出店を眺めてみたがそれらしきものはなかった。

「お兄さん、お花はいかがですか」

南国の果物を諦めて帰路を急ごうと思い直したとき、ふわりとした声が俺を呼び止めた。振り向くとそこにはこじんまりとした花売りの店があり、その隣に娘がひとりで立っていた。六花とそう歳が変わらなく見える。まるで花のように、娘は気立よく微笑んだ。

「今日は白百合があるんです」

指で指し示された方向を追うと、幾本もがひとつに束ねられた白百合があった。野に咲く姿しか見たことがなかったので、小洒落たいでたちに思わず目が見開く。その純白は、触れたら弾けて消えてしまいそうなほど儚く、美しかった。大きな白い花びらから百合の匂いが漂う。思わず一歩近づいて眺めた。やはりただ美しく、そして可憐だった。

ふと、六花の顔が浮かぶ。白百合の花束を持つ彼女の姿が、以前お館様に教えていただいた写真のようにはっきりと頭のなかで想像できた。ただの妄想だろうか、それとも或いは。気づいたら白百合の花束を前に、考え込んでいた。手で顎のあたりを撫でながら、よく、よく、考える。これを渡したら、六花はどんな顔をするだろう。食べ物でなくてがっかりするだろうか。それも少し面白い。けれどきっと、おそらく、彼女は笑ってくれるだろう。そうして俺は、そんな彼女を抱きしめるのだ。

「お兄さん、恋仲は?」
「…妻がいる。俺の帰りを待っている」
「それならきっと喜んでくれますわ。これは結婚の花束ですから」
「そういうものなのか」
「そういうものなのです」

笑う娘の笑顔は尚も花のように可憐だったが、やはり商売としての気質も感じさせた。商売が上手いのだな、と素直に感心する。「わかった。もらおう」と花束をもらうことにした。

「花束ですから、そっと握ってくださいね。たとえばそう、奥様の手を握ると思って」
「ふむ!それなら力強く握ってしまうな!」
「あらまあ」

そのときばかりは、娘の笑顔は年相応のものに変わった。渡された花束は華やかさに比べ軽く、雑に扱えば簡単に花びらが散ってしまいそうだった。たしかにそっと握らなければいけない。六花のやわい手を思い出す。力強くとは言っても加減をしなければ潰れてしまいそうな手だ。花束を見ながら顔が少し綻ぶのがわかった。早く会いたい理由が増えてしまったみたいだ。娘に礼を伝えて、俺は街を後にした。

家まではまだ遠い。日が沈む前には着くはずだ。きっと六花が不器用なのに一生懸命に俺の夕餉を作って待ってくれている。今回の任務は遠出だったから、おそらく俺の好きな物が出るんだろう。

花束を持ち歩くのは思っていたよりも大変だった。ただの荷物のように片手間に体の横に持っていては花が散ってしまい、形も崩れてしまう。あんまり強く握りすぎると茎のところに仕込ませたという保水用の布から水を絞り出して、萎れさせてしまう。宝物だと思ってそっと抱えながら歩くしかなかった。道中、人は少なかったがそれでもどこか気恥ずかしい。男がこんなに可憐なものを大切に抱え歩く姿は人にどう映るのだろう。普段なら気にも止めないことだというのに、こんなことは初めてだった。

気恥ずかしさを誤魔化すために、六花に会ったときのことを考えることにした。おかえりなさいと無垢に笑う、そのあときっとこの花束に気づくから、驚いている間に渡してしまおう。なにがなにやらわからない顔をするきみは、きっと可愛い。花束を抱えるきみを俺は抱きしめてしまうかもしれない。花は潰れてしまわないだろうか。そして、それから、そうだ。

(愛しているのだと、伝えよう)

まだ言ったことのない言葉だった。けれどずっと胸の奥にあるものだ。口にしようと思うだけでも、泣きそうな気持ちになる。心臓が揺れるような、尊く重い言葉だと思った。けれど俺は伝えなければいけない。それが叶ううちに、六花と手を繋いでいられるうちに。小さく、誰にも聞こえない声で、愛していると呟いた。きみを前にしたときに声が震えないように、何度も何度も練習をした。

日が暮れる直前にやっと家に帰ってくることができた。近づくにつれ、俺がいないのに明るい家を見るだけで安心する。花は萎れていないようだった。花売りの娘が念入りに手をかけてくれたおかげだろう。

屋敷の門をくぐり、戸を開ける。漂う匂いはさつまいもだ。それだけで緩む頬にはもうなにも言い訳はできない。玄関から「六花!杏寿郎だ!ただいま帰った!」とできるだけ大きな声で言うと、言い終わるや否やドタドタと足音が聞こえてくる。走って来ないでも俺はここにいるというのに、まるでふたりともが会いたくてしょうがなかったようだ。足音が弱くなり、俺の前にようやくきみが現れた。

「おかえりなさい、杏寿郎さん」
「ただいま、六花」

明るい声が俺を呼ぶ。それだけで顔の筋肉がすべてやわくなったように綻んでしまう。飛びついてきそうな勢いだった六花は俺の抱えている花束に気づき、やはり驚いた顔をしたのでその間に花束を渡した。なにがなにやらわからないという表情をしながらおずおずと受け取って、こちらを見つめる。白百合を抱える姿が、まるで花嫁のようだった。

「これ、わたしに…?」
「もちろんだ!」
「…杏寿郎さん、ありがとう。とっても嬉しいです」

どんな顔をしてくれるだろうとずっと考えていたのに、それもすべて忘れてしまった。花のなかに浮かぶ六花の微笑みを見ていたら胸が締め付けられる。心地のいい、愛おしい痛みだ。触れたいような、触れてはいけないような眩しさを前にしてしまい、伝えたいことがあったはずなのに霞んでしまった。

喉元まで出かかった言葉を一旦飲み込んで、靴を脱いで家に上がる。部屋のほうに近づくにつれてさつまいもの匂いが濃くなっていった。あまりに胸がいっぱいになっていて忘れていた空腹を急に思い出す。俺の後ろを歩く六花の様子を時折見ながら廊下を進んだ。

「杏寿郎さんがいつか言っていた白百合の丘にも行きたいですね」
「そうだな。あそこは少し遠いから、この前よりも多く休みをもらう必要がある」
「…早く、鬼がみんないなくなったらいいのに」

少し曇った声色に立ち止まって振り向く。言っても仕方のないことだというのは誰しもが分かっているから、それを責めることはしなかった。花束をつぶさないようにやんわりと細い肩を抱き寄せる。一瞬で百合の香りに包まれてしまい、家ではないところにいる気持ちになった。

「六花、大丈夫だ。きっと俺たちがすべてを終わらせる」

頭を撫でながらなるべく優しく聞こえるように言う。彼女は腕のなかからこちらを見上げて無理矢理に微笑んだ。そんな顔をしないでほしい。けれど俺が鬼殺隊の剣士である限りは、それを言う資格はないのだろう。せめてこうしていられる今だけはと思い、抱きしめる腕に力を込める。応えるように胸にすり寄る彼女の体温を感じて、目を閉じた。

花が萎れてはいけないからと、六花の自室にとあてがった部屋へ寄って先に生けることにした。自室といっても、ついこの間からとうとうふたりで同じ部屋に眠るようになったので今は六花の荷物をしまっておく場所となっている。しかし彼女はほとんど荷物を持っていないので内装はいたって質素だった。こじんまりとした机の上に花瓶が置かれ、白百合が生けられる。物の少ない部屋のなかで、そこだけがやけに華やいでいて、そのちぐはぐさにふたり揃って笑ってしまった。

「杏寿郎さんだと思って大切にしますね」
「ありがとう!しかし、剣士を花にたとえるのは縁起が悪いな!」
「はっ!そうでした…!忘れてください…!ただただ大切にします!」
「そうだな!ただただ大切にしてくれると嬉しい!」

話していると自然に目が合う。照れてそらされてしまえばなにもできないが、六花はそのまま俺を見つめる。こういうときはくちづけをしても許される。そっと顔を寄せればやはり彼女はすぐに目を閉じた。くちびるをくっつけたり離したりするのを何度も繰り返す。どこにも逃げて行かないと分かっているのに求めることをやめないこの手は、彼女を抱き寄せて体を離さないようにしてしまう。控えめに俺の背に回る小さな両手もこのままずっと離れていかなければいい。

顔を離して彼女を見つめると瞳が潤み始めていた。切なさが漂うその表情を見つめてから額に軽くくちづける。六花、と名前を呼ぼうと思った。けれどそれよりも先に彼女が縋り付くようにして胸板に頭を引っつけてくる。今度こそ名前を呼んでも、黙ったままなにも言わない。代わりに俺を抱きしめる力がぎゅうぎゅうと強くなっていった。六花の肩が、少し震えてるように感じた。

「ほんとうに、おかえりなさい、杏寿郎さん」

絞り出すような声だった。俺の服を掴む手に、ぎゅ、とまた力が込められるのがわかる。泣いているのだろうか、それを確かめるのは野暮だろうと思い、どうか彼女が安心してくれるよう抱きしめ返した。幾分低い位置にある小さな頭に顔をすり寄せながら「ただいま」と静かに答える。微かに残っている百合の香りが鼻をついた。

「六花、六花。こっちを向いてくれ」

そう呼びかけても彼女はこちらを見上げてくれなかった。泣いていても泣いていなくても、きみの顔が見たい。そう言うと、観念したようにゆったりとした動きで六花はこちらを見た。やはり泣いていたのだろう。瞳には涙が滲んでいた。零れ落ちないように親指でそっとぬぐうと、彼女は居づらそうに身をよじる。

「本当はさっき、花を渡したときに伝えようと思っていたんだ」

不思議そうな顔が俺を見つめ続ける。帰ってくるまであんなに練習したのに、いざとなるとやはり上手く出てこなかった。声は震えそうにはなかったけれど、大きな感情を伴うそれは喉でつまってなかなか言葉にならない。黙り込んでなにも言えないでいる俺を六花が余計に不思議がる。きみの前では本当にただの男になってしまうと思った。そうしていると、ふいに彼女の手が伸びて俺の頬を包んだ。

「杏寿郎さん、大丈夫ですか」
「ああいや、俺は大丈夫だ」
「なんだか泣きそうに見えました」

六花の優しい声音に、緊張のようなものが解けていく。添えられた手に自分の手を重ねながら、手のひらにそっとくちびるを寄せた。違うよ、違うんだ六花。そう伝えても尚、彼女は心配そうな顔のままだった。傷ついているから心が締め付けられるんじゃない、失うのが怖いから泣きたくなるんじゃない。

六花の額にそっと自分の額をくっつける。そこから伝わる体温はかすかなものだったけれど、近くに感じられるだけでよかった。つっかえていたものがすべてなくなったように、想いがすんなりと言葉になる。

「違うんだ六花。きみを愛していると、伝えようと思ったんだ」

今、自分がどんな顔をしているか分からない。きっと情けない顔をしているに違いない。六花は目を少しだけ見開いて、すぐにその形を三日月のように和らげた。幸せそうに笑う顔が愛おしくて、どうしてか救われた気持ちになった。もう一度強く抱きしめられる。その腕にはもう縋り付くような寂しさは感じなかった。

そのまま六花の背と太もものあたりに手を回して抱き上げる。急なことに彼女は驚いて小さく声をあげた。落ちないように俺の首にしがみついて、慌てて名前を呼んでくる。

「杏寿郎さん、ご飯は…!」
「こうなってしまってはもう仕方がないな!」
「なにがですか杏寿郎さん!降ろしてください杏寿郎さん!」

腕のなかで逃れようと暴れる六花にもう一度しっかりとくちづけを落とすと、複雑な顔をして黙り込んでしまった。小首を傾げながら視線だけで伺うと、観念したようにぴったりくっついて、俺の胸板に顔を埋めたまま「もう、」と小さくこぼしていた。花束のときよりもいっそう大切に六花を抱えて歩いた。



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