杏寿郎さんの家の庭には、藤と桜が植えてある。今は季節が外れているので桜は見られない。来年には千寿郎くんと、できればお義父さまも一緒にお花見ができたらいいと言ったら、杏寿郎さんは困ったような顔をして微笑んでいた。

縁側に腰かけて庭を彩る藤を眺めるのが好きだ。時折、風に吹かれては簪の飾りのように花が揺れるのが美しかった。そうしてぼうっとしていると、鬼のことを忘れてしまうくらいに穏やかな時間がすぎていく。早く毎日がこうなればいい。剣士を辞めてからは、わたしはこんなふうに願うことしかできなくなった。

「六花、そんなところで冷えないか」

後ろからかけられた声に振り向くと、隊服を着た杏寿郎さんが立っていた。今日はまだ鴉からの知らせがないので連絡が来るのを家でゆっくり待っている。このまま鴉から連絡が来ませんように、とまた願ってしまう。こんなことを思っているとは悟られたくなくて、わたしはなんでもないようにできる限り楽しそうに笑って、杏寿郎さんを傍に呼んだ。

隣にゆっくり腰かける杏寿郎さんを見上げると、やっぱりわたしよりずっと大きくて、座っているのに見上げる形になる。なにも言わなくてもこちらを見てくれるからわたしが目を逸らさないとずっと見つめ合ってしまう。こっちは今だにどきどきと心臓が早くなるというのに、彼はむしろそうしているのが好きみたいで恥ずかしさがないようなのだ。男女の違いなのか、気質の違いなのか、考えてみてもわたしは杏寿郎さんしか知らないのでわかるはずもなかった。

「空気は少し冷たくなってきたが、今日は実に良い天気だな!」
「そうですね。太陽が眩しくて、杏寿郎さんみたい」
「…六花はほんとうに、そういうことを言うのが平気なんだな」
「なにか、変ですか…?」
「変ではない!だが俺は照れくさい!」
「それを言ったら杏寿郎さんのほうがもっと…!」

姿勢良く、そして腕を組んだまま、どおぉん!と快活に言うので呆気にとられてしまった。わたしが平気でいつまでも見つめ合える杏寿郎さんを不思議に思うように、彼も彼で不思議に思うことがあったみたいだ。きっとそれぞれで愛情表現の形が違うのだ。意外にも簡単に答えがわかった。

「杏寿郎さん、鴉が来るまでもう少し休んでいたらどうですか。最近ずっと任務が続いていましたし」
「それもそうだな!少し昼寝をするとしよう!」

けれど杏寿郎さんはそこから立ち上がらない。不思議に思って顔を見上げるとじっ…と穴が開きそうなくらいこちらを見ていた。びっくりして「きょ、杏寿郎さん…?」と声をかけるとずいっと近づかれたので、思わず後ろにのけぞってしまう。わたしの体の横に杏寿郎さんが片手をつく。もしかしたらこのまま押し倒されてしまうかもしれない。早くなる心臓を落ち着かせようと、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「六花、膝を借りたい」

ぽかん。そう、きっとそんな音がぴったりだった。自分で自分をビンタしそうになるのを堪えて、わたしは「どうぞ…」と控えめに杏寿郎さんに膝をあけわたす。やんわり乗る頭の重みは、思ったよりも軽かった。

遠くの空で鳥が鳴いているのが聞こえてくる。太陽の周りをぐるぐる回りながらまたどこかへ飛んでいった。もしかして彼らなら、鬼のいないどこか平和な場所を知っているんじゃないかと思った。地の上で脅かされることもなく、大切なひとを見送ることもなく、ふたりの永遠を探すことができるかもしれない。そこまで考えて空から視線を外した。こんなふうに願ったり空想ばかりで、自分が嫌になる。それはたぶん、ここから逃げたいという想いがそうさせている。

膝の上に視線を戻すと、杏寿郎さんは静かな寝息を立てていた。凛と美しい顔立ちはほんとうに絵のようで、こんなに近くで見ていてもやっぱり現実味がない。髪を手で梳きながら、何度も彼の頭を撫でる。どこにも行かないでほしい。そう思う。剣士をしていた頃はこんなに弱くなかった。育手が死んだとき以外、仲間が死んだって泣くのを我慢していた。失いたくないのはもうあなただけなのに、前よりずっと抱えるものが大きいように感じる。

さわさわと、少しだけ大きく風が吹いた。あ、と思ったときには藤の花がひとつ、ふたつ、と枝から外れてさらわれていく。どこかへ行ってしまう。そうしてひとつが、そよぐ空気の波に乗ってわたしの足元に舞い落ちた。

「六花…?」

ぽつりと落ちた藤の花を見ていたら目を覚ました杏寿郎さんに呼ばれた。すぐ下にいるその顔を見つめるとひどく安心する。大きな手のひらがそっとわたしの頬を包んだ。

「どうしてそんな顔をしているんだ?」

子供をあやすように、慈しみ深い顔をして彼がこっちを見つめる。

「杏寿郎さん。わたし、だめな妻です」
「そんなことはない!どうしてそう思う?」
「剣士の杏寿郎さんを好きになったのに、今はもう、剣士でなくなってほしいと思ってしまいます」

目が潤んだ気がした。万が一にも零れないように目元に力を込めたけれど、余計に悲痛な顔になってしまったんだろう、杏寿郎さんが心配そうな顔をしている。なにも言えずに黙っていると、そっと手を握られた。彼の口元に持っていかれ、やんわりとくちびるが触れる。まるで祈るような繋がれ方だった。

「大丈夫だ、六花。今度もまた帰ってくる。きみをひとりにはしない」
「ほんとうに?」
「ほんとうだ」
「わたしも杏寿郎さんをひとりにしたくない」

どこにも行かないでほしい、あなたが傷つくような場所へ。あなたがひとり、消えてしまうような場所へ。繋がれた手をできるだけ、強く強く握りしめた。杏寿郎さんは一瞬びっくりした顔をしながら、「ありがとう」と言ってわたしの手にしっかりとくちづけた。それに返すようにわたしも彼の額にくちづける。願いと誓いを込めた、そんな触れ合いだった。

風が吹く。足元にあった藤の花がころころと動いて足先にあたった。杏寿郎さんは揺れる藤をじっと眺めている。

「俺はきっとどんなになっても、六花のもとに帰ってくるよ」
「…はい。ずっとちゃんと待ってますね」

こっちを見ないまま言った彼の顔がどんな表情をしていたのかはわからない。でもきっと優しく微笑んでいるような気がした。あなたが帰ってきてくれるならわたしはずっと待つことができる。ふたりともがひとりきりにならないように、ここで会う約束をしよう。

「今日は、少し眠いな。鴉が来たら起こしてくれるか」

はい、と返事を返すと、身をよじって杏寿郎さんは上を向いたので、彼のくちびるに自分のくちびるをくっつけた。あなたの瞳に紛れもなく映るわたしの姿を見た。わたしの瞳にも、あなたが映っている。

「おやすみなさい、杏寿郎さん」









もう足の痛みが限界だった。体力は残っているはずなのに息切れがする。落ちた視力のせいで視界が悪くてちかちかするのが少し不快だった。本当はもっと早く着くつもりだったのに、自分の実力を見誤ったせいかだいぶ太陽が上ってしまっている。今日のためにせっかく千寿郎くんに鍛錬に付き合ってもらったというのに。

手に握りしめた一枚の紙は汗も染みてほとんどぐちゃぐちゃになっている。わたし宛に書かれた手紙のなかに入っていた、白百合の丘への地図だ。

手紙は、最期の一通というわけではなかった。いつから書いていたのかは知らないけれど、任務のたびに書いていたのがわかるほどの数があったのだ。他の柱達の様子、義勇さんと話したこと、任務帰りに見た朝日が美しかったこと、美味しい南国の果物を見つけたこと、そんな他愛のないことがたくさん綴られていた。

地図を見つけたとき、実は少し不安があった。彼は絵心がないのではないかと勝手に思っていたのだ。けれど予想に反し、きっと道に迷いやすいわたしのためを思って、丁寧に書かれたそれはとても見やすいものだった。

ここに来るまでに列車に乗った。彼と乗ったときよりずっとハイカラになっていてびっくりしたけれど、駅弁は相変わらず美味しかった。彼の字でひとつ、達筆すぎて読めないところがあった。困りながら歩いていると、白百合を運ぶ花売りの女性とすれ違ったので道を尋ねた。彼女も白百合の咲く丘を知っているみたいだった。

林のなかに人が通れる道を見つけた。おそらく知っている人には有名なのだろう、獣道というには幾分か整備されていて歩きやすい道のりになっていた。だんだんと開けてくる木々の向こうから、あの花の香りが漂ってくる。一歩、一歩、光に近づく。林を抜けてさらに一歩踏み出すと、ぶわっと大きな風が吹いた。

「ついた…」

一面に、白百合が広がっている。丘の向こうに流れる大きな川が太陽をうけて輝く。まるでこの世ではないような美しい景色だった。

花を潰さないように歩みを進める。歩いていくたびに白百合に囲まれていき、まるで天国みたいだ。あたりから漂う百合の香りはもっと強いと思っていたのに、香のように良い匂いだった。途中まで進んで足をとめる。少し前には川が流れ、後ろには白百合が広がる。すう、と思いきり息を吸い込んだ。

全身から力がふっと抜けて、わたしは白百合のなかに倒れこんだ。そのままごろりと体を返して、空を見る。青が広がる視界の端々に白百合の花びらが入り込んで、まるで絵のような視界になった。ちょうど真上には太陽が昇る。白い日差しが眩しくて、でも目を閉じたくなくて、手をかざしながらじっと眺めていた。やっぱり太陽は、彼みたいだ。

時間が止まったようだった。世界には最初からわたししかいなかったみたいに思える。でも違う。わたしの傍には、ちゃんとずっと、彼がいた。

空を一羽の鳥が飛んでいた。太陽へ向かい、鳥の影が消える。ようやく目を閉じた。浮かび上がってくる彼の顔と声に、今でも涙が出ないと言ったら嘘になる。でも幻のなかで、あの大きくてあたたかい手が抱きしめてくれるから、わたしはきっと大丈夫。

ゆっくりと瞼を開ける。澄んだ空は遠くて、まだ手は届きそうにない。視界がほんの少しだけ、ぼやけた。

「ぜんぶ、終わりましたよ。杏寿郎さん」

ひらり。一枚の花びらが散る。それは静かに、わたしのもとへ辿り着いた。












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