ああ不安だ。とても不安だ。人生でこれまでにないくらいに不安だ。任務で水柱の冨岡義勇さんと2人きりだったあのときよりも不安だ。口から内臓がすべて出てきてしまいそうだ。いっそ出てきたほうがちょっと笑えて気がまぎれるんじゃないだろうか?そう思って内臓を出そうと試みたところで、ぽん、と背中を軽くたたかれた。

「なにも鬼に会いに行くわけじゃない。安心しろ白雪」
「煉獄さん…」
「まあ多少気難しいところはあるが、人の父だ。食われることはない!」
「そりゃあそうですけど…」
「あと、そうだな。名を呼ぼう」
「え?」
「夫婦なのに苗字で呼び合っていてはおかしいだろう?だから今日は名を呼び合おう!」
「えっ!?唐突!煉獄さん、いつだって唐突ですよ!」
「さあ、行こう六花!俺が君の手を引くから、なにも恐れることはない」
「…!」

まばゆい太陽の光をまとってわたしの手をとる煉獄さんは、おとぎばなしの神様のようだ。彼のあとをついて行けばなにも怖くない。鬼殺隊にいるときからそんなことは誰よりも知っている。けれどこの手がこんなに大きくて、あたたかいことは初めて知った。握られた手を眺めているとなんだか頭がぽーっとするような気持ちになって、わたしは一瞬だけ緊張を忘れる。ゆっくり前を歩く足についていくたびに、不思議と心が軽くなっていくようだった。そうしてわたしはやっと、煉獄さんのお父さんが待つご実家へと足を踏み入れる。

今日は、煉獄さんのお父上へ結婚のご挨拶をする日だ。

「(きききき緊張するう〜〜〜〜)」

とはいえ、やっぱり緊張するものはどうしようもなかった。

「父上!先の手紙でお伝えした通り、結婚の挨拶へと参りました!」
「は、はじめまして…!白雪六花と申します!こ、この度はお日柄もよく…!」

煉獄さんはとてもいい姿勢で正座し、縁側に座りこちらに背を向けているお父上もといお義父さまへ呼びかけた。わたしも煉獄さんの言葉に続き挨拶をしたが、しかし、そのあとに続いたのは沈黙だ。あれ、あれれ?おかしいな?まさか聞こえなかったとか?煉獄さんの声が聞こえないなんてことあるかな?そう思っていると、少しお義父さま寄りに座っている千寿郎くんが困った顔をしてこっちとそっちを見比べている。やっぱりおかしな空気になっているようだ。

「…父上」
「フン!」
「(フン…?)」

煉獄さんの呼びかけに、聞き間違いだとは思うのだけれど、まるで吐き捨てるような鼻息を鳴らしてから、お義父さまはゆっくりとこちらを向いた。その手には酒瓶を持ち、無精髭は生えたまま。煉獄さんによく似た美しい髪の毛だって、ぼさぼさだった。なんだか意外だ。煉獄さんのお父さんだからもっと厳格っぽい人かと思った。なんとなく拍子が抜けて肩の力まで抜けてしまったが、それがわたしというやつのダメなところなのだとすぐに反省することになる。

「何が結婚だ!柱になったからって浮かれているのか、杏寿郎!」
「!?」
「…浮かれてはおりません。柱になった今だからこそ、新たな家族をようやっと迎え入れられると思ったのです」
「迎え入れてなんになる?また何者にもなれない哀れな子どもでも増やすつもりか?」

あ、これは怪しいな、雲行きが。すぐにやばい空気を察知した。お義父さまは酒瓶を片手にどすどすと部屋のほうまでやってくる。座ることもしないまま、煉獄さんを見下ろして険しい顔で厳しい言葉を浴びせていく。わたしは呆気にとられて絶句した。ち、違う、思ってた結婚の挨拶と、違う。

冷や汗がだらだらと流れ始め、思わず千寿郎くんのほうを見るとそれはもう申し訳なさそうな顔をしていた。この穏やかじゃない空気をどうにかしたかったけれど、口を挟もうにもそんな隙は微塵もない。心配になって隣の煉獄さんをちらりと伺えば、いつものような自信に満ち満ちた顔ではなくなっていた。初めて見る、少し、悲しそうな顔。あ、これはよくないな、雲行きが。

「それともどっかから良い血筋の娘でも見つけてきたのか」
「父上。それは、六花の前で言うようなことではない」
「お前はいくら言っても分からないようだから言ってやる。無駄だぞ、杏寿郎」

お義父さまはゆっくりと煉獄さんの前にきてしゃがみ込む。その顔は冗談にも、結婚をする息子を祝うような顔ではなかった。諦めたようにお義父さまと目を合わせる煉獄さんの横顔にももはや笑みはない。ただ静かに、父の言葉を待っている。張り詰めた冷たい空気がわたし達を包み、まるでなにか悪いことをしてしまったかのように息が苦しくなる錯覚を覚えた。

(どうして。どうしてだろう。)

わたしが気にくわなかったのならそれでもよかった。認めてもらえるようにいくらでもなんだってしようと思っていたからだ。けれどさっきから感じる違和感は、そんなことではない気がした。だってお義父さまはわたしのことなんて見ていやしない。もっと別の、根深いなにか、薄暗いものを引きずって、それを煉獄さんにぶつけようとしているように思えてならない。そうでなきゃ、あんなにいつも爛々としている煉獄さんの瞳が、月明りを失った夜のような色になるはずがない。ちらりとお義父さまを見れば、淀んだ炎を灯した目をして煉獄さんを睨みつけていた。

「結婚などくだらん!何の才能もない人間が、いくら血を繋ごうと何の意味もない!またお前と同じような塵芥が増えるだけだ!」
「父上、それは違います。この結婚は、」
「口答えをするな!…杏寿郎、柱になったからといって勘違いするなよ!どうせすぐに、自分がいかに無力な愚図だか気づくことになる!しょうもない、そういう星のもとに生まれたんだ!俺も!お前も!」
「父上――」
「…ちょっと!」
「!」

気付けば、わたしは立ち上がっていた。なにか言葉が浮かんできたわけではない。ただもうこれ以上、殴るかのような鋭い言葉を、煉獄さんに浴びせるのをやめてほしかっただけだった。口を挟む隙などなかったので無理矢理に挟んだ。さっきまで一瞥もくれていなかったであろうわたしをやっと視界にいれてくれたお義父さまと視線を合わせる。じりじりと射殺されそうな強い圧に少したじろいでしまった。

「あの!なんか!先ほどから!話が変な方向にいってしまっている気がするのですが!」
「なんだと…?」
「父上!」
「結婚の報告に来たので、できれば「おめでとう!」か「お前にうちの息子はやらん!」みたいな、そういう言葉をいただけると嬉しいです!!」

煉獄さんが慌てて対峙しあうわたしとお義父さまの間に入る。頭の中には、これ以上なにも言わないほうがいいと分かっている冷静なわたしと、腹の底にふつふつと確かな怒りを蓄えて我慢できずにいるわたしの2人がいる。ここで出しゃばれば結局煉獄さんと千寿郎くんがあとで困るというのは容易に想像がついた。それでも、まるで血が沸騰したように、自分の気持ちを抑えることができない。湧き上がるこの気持ちはいささか形容しがたく、けれど確かに、この場でぶつけなければいけないものだと思った。

「なんだお前は…?俺たちの家のことに口を出すつもりか?」
「わ、わたしは…!」
「フン、もう嫁になったつもりか?一体お前に何が分かるというんだ!」
「わかりません!!!」
「なっ、にぃ……!?」

ぎゅっと両の手を握りしめる。少し怖かったけれどお義父さまからは絶対に目を逸らさないようにした。心配そうに小さくわたしを呼ぶ煉獄さんの声も聞こえないふりをして、ずんっと一歩前へ出る。自分の心臓がばくばくと鳴っているのが聞こえた。

「わたしには、親がありません。わたしが赤子の頃、すぐに鬼に食われて死にました。白雪六花という名は、育手がくれたものです。育手は親同然ですが、それでもわたしは、家族というものを知りません。けれど…そんなものはよくある話です!」

煉獄さんとおんなじまんまるの瞳を鋭く歪ませながら、お義父さまがこちらを睨みつける。

「そんなよくあることが、あなた達には訪れていない。…特別なのですよ、奇跡なのですよ」
「黙れ!そんなことは今関係ない!」
「いいえ黙りません!なのになぜ、家族にそんなひどいことが言えるのですか!」
「六花、もういい!」
「いいえよくないです!人生での大きな決断を、なぜおめでとうと一言祝ってやれないのですか!」
「黙れ……っ」
「そりゃあ相手がこんな身寄りのない小娘でがっかりしたかもしれないですけど…でも!それならそれで、「え?本当に大丈夫?もっと家柄とかこう、大丈夫?」みたいに、心配するとかすればいいじゃないですか!」
「ッゴチャゴチャ喧しい!黙れと言っているのが聞こえないのか小娘!」

大きな怒鳴り声が広い部屋に響き、静かな沈黙の波をうける。

「だって…親とは、家族とは、そういうものではないんですか……?」

いつの間にか、煉獄さんも千寿郎くんも立ち上がっていた。気付いたら、固く握りしめていた拳は怒りでぶるぶる震えている。鼻の奥が、目の奥が、火をくべたように熱い。大声を出してすっとしたはずの胸のなかにはまるで塵がところどころに引っかかったようにモヤモヤとしていた。わたしは今、夫となる人の父親を、一体どんな顔で見ているのだろうか。

「どうしてもっと、幸せを噛み締めてくれないのですか。どうしてもっと、大切に、してくれないのですか」
「六花…」
「もういいです!お義父さまが杏寿郎さんを大切にしないなら、その一万倍わたしが大切にします!」
「!」
「行きましょう杏寿郎さん!」

わたしは煉獄さんの腕を掴み、そそくさとその場を立ち去った。行儀が悪いことは分かっていたが、八つ当たりするように襖をピシャアン!と思いっきり閉めた。ごめんね千寿郎くん。

ずんずんずんずんと廊下を進む。胸の中は、ざわざわしていた。頭に上っていた血はいつのまにか体のあちこちへ流れていき、どんどん冷静になっていく。落ち着けば落ち着くほど、お義父さまの言っていた言葉が頭に響いてくる。なんで、なんで、というどうしようもない気持ちが心のなかでいっぱいになって、なぜだかわたしが傷ついているような気分になった。一番傷ついているのは、一体誰なのかもわからないというのに。

「…六花。一度、部屋に戻ろうか」

煉獄さんの声で、わたしはやっと冷静になれた気がした。










父の部屋から少し離れた客室で、俺たちはやっと落ち着いた。部屋には鳥の鳴き声が流れているが、向かい合って座る俺たちのあいだにはずっと沈黙が降りている。六花はその瞳いっぱいに涙をためているが、流すまいと眉間にしわを寄せ、口を固く結び、難しい顔をして必死にこらえていた。その姿がいじらしくて、とうの俺はなぜだか勝手に口元が綻ぶ。

「六花」
「…ごめんなさい。お義父さまにあんなことを」
「いや、いい。父上があんなにびっくりしている顔を見たのは初めてだった。新鮮だった」

六花は繊細で、優しい子だ。人の想いも鬼の想いも、同じように汲んでしまい、たやすく影響されてしまう。それは危うく弱いところでもあったけれど、俺には何よりも、美しい心に思えた。彼女には家族がいない。育手も昨年亡くしたと聞いている。大切なものが少ないからこそ、何一つこぼれおちないように、いつだって強く握りしめているのが彼女の生き方だ。だから、まるで大切なものなどないかのようにふるまう父が許せなかったのだろう。思い描いていた家族というものが、あまりに残酷に見えて傷ついてしまったのだろう。

俯いて強く握りこぶしを作っている六花の手に、自分の手を重ねた。小さくて少し冷たい手はまるで子供のようだ。手を握るだけでは足りないのだと思い、隣に移動してそっと六花を引き寄せた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」
「六花、六花。泣かなくていい」
「杏寿郎さん、杏寿郎さん。わたしは、杏寿郎さんほど強くて優しいひとを知らないの」
「ああ」
「杏寿郎さんほど眩しくて真っ直ぐで、健やかなひとを知らないの」
「ああ」
「憧れていたんです。気高く正しいあなたに、ずっとわたしは、柱の誰よりも」
「ああ、ありがとう六花。ありがとう」
「だからあんなふうに、たとえお父さんでも、あなたを侮辱するひとが許せなかった」

はらはらと泣く顔を、その小さな両手が覆う。頼りなく震える肩がかわいそうですぐに強く抱きしめた。優しい六花、俺のためにどうか泣かないでほしい。薄い背中を、幼い千寿郎に母がそうしていたようにとん、とん、と静かにたたき続けた。

六花から香る花のような匂いに身を寄せる。妻が泣いているというのに、俺はどこかで、杏寿郎さん、と呼ぶ声が響くたび胸の中がいっぱいになっていくのを感じていた。あたたかい気持ちがこみあげてきて、なぜだか少し泣きたくなった。

「六花、こんなときにすまないが」
「うっ、ひっく、はい…」
「くちづけをしたくなった」
「だめです」
「…むう……」

泣き声に混じり聞こえた断りの言葉は、いやにはっきりきっぱりとしていた。



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