しとしと、と雨が降っていた。世界を優しく洗い流すような、水と、泥と、花の濡れた匂いがする。煉獄さんのお屋敷の庭に咲く藤が、ひとつ、ふたつ、ぽつりと地面に落ちた。

「六花、茶を飲もう」

部屋の縁側に座って庭を眺めていた。静かに入ってきた煉獄さんの手の上には、おぼんに乗ったお茶とお菓子が見える。

結局、あれからお義父さまには「勝手にしろ」とだけ言われて終わってしまった。わたしも、きっと煉獄さんも千寿郎くんも、いたたまれないようなやるせないような気持ちのままで、その日は終わってしまった。あれから幾日か過ぎたというのに、心にはまだモヤモヤが残っている。無礼をしたこと、けれどとても悲しくてそれを我慢できなかったこと。そして、わたしは煉獄さんのことをなにも知らないのだと、気づいてしまったこと。おぼんを挟んで、隣に煉獄さんが座った。

「雨が降っても、もうあたたかいな」
「煉獄さんといる日に雨を見たのは初めてかもしれません」
「うーん…そうだったか?」
「でも、煉獄さんといるから気づかなかっただけなのかも」
「俺と?」
「だって夜のときすら、空が暗いなんて思わなかった。煉獄さんが、そこにいたなら」
「…そうか」

まるで閃光のように、あなたは揺るぎのない道を示す。わたしにとってそんな人だった。強くて気高い炎柱の彼に憧れない隊員などいたのだろうか。きっと他の柱たちにでさえ煉獄さんは特別だったはずだ。そう思うくらいに、この人は眩しい。そんなあなたの太陽を宿した瞳に陰を作るのが、家族であったこと、父であったことを知りもしなかった。わたしはただ妻という肩書を背に、隣に並んでいるだけなのだ。あなたが照らす光のなかに、隠れるように、縋るように、ひとりではもう生きていけないから。みっともなくて情けなくて、隣の煉獄さんの顔を見ることができなかった。

「煉獄さんは、どうしてわたしに結婚しようだなんて言ってくれたのですか」
「…」
「その、わたしよりもっと、煉獄さんならふさわしい方が、」
「名を呼んでくれないな」
「え…えっ?」
「この前、父上と話したときは何度も呼んでくれただろう」
「エッ!?いや、それはその、ご挨拶だったし、わたし以外全員煉獄さんなので名前で呼ばないとややこしくなるかなって…」
「六花」
「あ、う、えと…」
「杏寿郎と、呼んでほしい」
「は、はい…きょうじゅ、ろうさん…」

わたしが呼ぶと杏寿郎さんは満足そうに口元緩めて笑った。そのままごくっとお茶を飲む。その流れに影響されてわたしもなんとなくお茶を飲もうとしたけれど、まだ淹れたてのようで熱く、とてもじゃないがごくっとは飲めなかった。煉獄さん、じゃなくて、杏寿郎さんは熱いの平気なんだなあ。ちびちびとお茶を飲むと、少し渋かった。

「杏寿郎さん、は、すんなり呼んでくれますよね、わたしの名前」
「ああ!慣れているからな!」
「慣れ…!?」
「俺はもう何度も、心の中で君の名を呼んでいたから」
「!?」

思わずお茶をこぼしそうになるのをやっと堪えた。湯呑をおぼんに戻す杏寿郎さんのほうを見たら目が合って、なんだか恥ずかしくなる。

「俺が柱になったことを六花に話した日を覚えているか?」
「も、もちろん!」
「あの日も、実は父上に会っていたんだ」

あの日というのはきっと、わたしが偶然にも煉獄さんに遭遇し、炎柱になったことを聞かされた日のことだ。よく覚えている。『俺は柱になったよ、白雪』そう静かに言った顔が、なにか決意に満ちていたことも。それまで時折同じように任務へ行っていた人が―あの頃からすでに柱になるのではと噂をされるほどの人ではあったけれども―一気に遠くへ行ってしまったような気持ちになったことまで、よく。煉獄さんは、雨なのか、藤なのか、どこか分からないけれど、少し遠くを見ながら穏やかに話を続けた。

「父にはどうでもいいと言われた」
「んなっ…!(あの人は本当に…!!)」
「けれど六花。それよりも君が、」
「わたしが?」
「喜んでくれただろう?自分のことのように」

細められた目には優しさが滲んでいて、まるで昨日のことのようにあの日を覚えている顔に見えた。おかげでわたしまで鮮明に思い出してしまい、興奮して杏寿郎さんにすごい!と多分100回くらい言ったり、気が済むまでまとわりついて自分の知ってる煉獄さんの武勇伝をなぜか本人に喋りまくったりしたことまでばっちり蘇ってきた。むしろなんで今まで忘れてたんだ。確かそのままなぜか一緒にご飯まで食べた気がするしその間もずっとわたしが喋り倒していた気がする。なんでおばかなのだろう。穴があったら入りたい。

「俺はそれが嬉しかった。そしてなにより救われた」
「あんなにウナギをおかわりしてすみませんでした…」
「うまいウナギだった」
「そうでしたけど…」
「…うまかったんだ。今までで一番」

そんなに美味しいウナギだったかな?と思ったけれど、杏寿郎さんの顔を見たらそんなことは聞けなかった。きっとそういうことじゃない。(そりゃあそうだ)

「…でも杏寿郎さん。わたしじゃなくても、きっと誰だってわたしのようになります。柱になったことはもちろん、杏寿郎さんがすごいことなんて、みんな知っています」
「だが君だった。あの日俺の前に現れて、心を埋めてくれたのは、六花だったんだ」

あんまり真剣なまなざしで見つめられてしまったので、恥ずかしいというのに目をそらすことができなかった。あの日、きっと杏寿郎さんの柱就任の話を聞いたのなら、誰もがわたしのように彼を讃えたはずだ。それはきっと神様が決めていたことなのだろう。けれど運命が、もしかしたら、その役目にわたしを選んだ。確かな理由があろうと、気まぐれだろうと。杏寿郎さんは視線を外に戻しながら、そこからの日々を辿るように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。ひとつひとつ、本をめくるように。

「それからだ。時折、君を思い出すようになった」

「俺のこともなんでもないことも君に話したくなって、鴉に手紙を運んでもらおうと思った」

「迷惑だろうかと考えてやめたり、やっぱり送るべきだと思い立ったりを繰り返して」

「するとだんだん会いたくなって、そうしてやっと、恋だと気づいた」

雨の音は、幾分前からもう遠くなっている。杏寿郎さんの日々のなかにわたしがいたという事実が胸を締め付けて、泣きそうになる。どきどきと、彼の穏やかな声音に反して心臓が早くなっていった。思い返す毎日が、まるでわたしの中にもあるように、過去を新たに彩る。その想いに心がいっぱいになって、これ以上なにかが触れたら割れてしまいそうだった。

「君は俺を、まるで神のように例えてくれるがそんなものじゃない」
「そんな…」
「好きな女に手紙も送れない、ただの男だ」

くるりとこちらを見る目はいつものようにまんまるで、きらりと控えめに光っていた。

「六花。俺は、君が好きだ。君が想うよりずっと」
「杏寿郎さん、」
「結婚の申し出を受けてくれて、ありがとう」

少し困ったように眉を下げて杏寿郎さんは微笑んだ。わたしの知らなかった、杏寿郎さんの表情だ。神様のようにまばゆい彼は、なにも本当に雲の上にいたわけじゃなかった。同じ場所にいて、誰も彼もと同じように、おそるおそる好きなひとに手を伸ばしていたのだ。まるで光を掴んだかのように切なげな顔をするあなたに、わたしだって伝えなくてはいけない。救われたと言った彼の言葉に、わたしのほうが救われたことを。ただ隣に並ぶだけじゃなくて、あなたと寄り添い合って生きることができる喜びを。一体どんな風に言ったら、あなたに、

「六花、」

呼ばれる声に自然と体が反応した。視線が合って、どこか深くで結ばれたような錯覚。それからそれが当たり前のことかのように、ゆっくりと近づく杏寿郎さんを感じながら目を閉じた。かすかな音を立てて唇が触れ合って、なんだかこのまま全部、わたしの気持ちが伝わっていくような気がした。間におぼんが置いてあるくらいの距離ではきっと、この溢れる想いをとどめることはできないのだろう。少し唇が離れて目を開けると、逃れようのない距離でまた視線が交わった。

「白百合の、たくさん咲く丘を見つけたんだ」
「丘?」
「ああ。前に、任務の帰りに。美しくてずっと心に残っている」
「素敵ですね」
「いつか、一緒に見に行こう」
「はい。約束ですよ」
「ああ。約束は破らない」

わたしたちは、誓うようにまた唇を重ねた。雨はいつの間にかあがっている。地面に落ちたふたつの藤は、晴れ間からのぞく光の筋にやさしく包まれていた。



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