「旅行?」
「ああ。お館様と柱達のはからいで、ゆっくりしてきたらどうかと」
「そんな…!とても歓楽な響きですが…でも、鬼殺隊のみんなが日夜戦っているというのにいいんでしょうか…」
「六花…」
「…わたしだけ道中の列車で美味しい駅弁を食べるなんて!!」
「六花…?」
「しかも!美肌もち肌効果のある温泉に入るなんて!」
「温泉がいいんだな、六花」
「あまつさえ!夜ごはんは鯛の活け造りだなんて!!」
「鯛が食べたいんだな、六花」
「そんなの!!申し訳なくてどうしようもありませんよわたしはぁ!!」
「うむ。楽しみにしてくれて俺は嬉しいぞ、六花」

言い終わると同時に、ばぁん!!と旅路支度が済んでしまっていた。準備だけは早い女なのです。というわけで、杏寿郎さんのはからいで温泉旅行に行くことになりました!





ガタンガタン、と走る列車が上下に揺れる。車輪が線路に当たる音だと杏寿郎さんが教えてくれた。ふたり並んで座れる座席は、体の大きい杏寿郎さんが座るだけでほとんど埋まっているように見える。とんとん、と窓際のほうの席を叩いて「おいで」と言われたのでとなりに座ってみたら、空いてるほうの隙間はわたしにぴったりだったようでさほど狭さは感じなかった。列車が揺れるたびに、互いの肩が触れたり離れたりする。もう少しくっついていたいような、このぐらいでもいいようなもどかしい気持ちになって、ちらりととなりを見上げるとすぐに目が合う。これはこれで心地よいのかもしれない。そして駅弁が美味しい。

「うまい!」
「美味しいですね杏寿郎さん。今食べてるのは鮭ですか?」
「鮭だ!うまい!食べ終わった!次だ!」
「いいなあいっぱい食べられて。わたしはさすがに二個でお腹がいっぱいです」
「二個も食べられるなら上等だ!むう!この鹿肉、うまい!うまい!」
「(じびえの弁当!?)」
「六花、きみも食べるといい!」
「ええ!いいんですか?」
「ああ!つまむぐらいなら入るだろう!」

そう言って杏寿郎さんがひらりと、じびえをつまんでわたしの目の前に差し出してくれた。

「あ、あれ…杏寿郎さん…」
「…!!」
「このまま食べて、いいんですか…」
「うむ…!」

わたしたちは緊張の面持ちで"あーん"を行なった。美味しい!じびえ、美味しい!今すぐそうやってはしゃぎたいくらいだったけれど、照れのほうが勝ってしまいできなかった。もぐもぐ、と口を動かしながら真顔で杏寿郎さんを見る。杏寿郎さんも、口角は上がっているけれど真顔でこちらを見ている。わたしがごくん!と飲み込んだのと同時にふたりとも我に返ったのか、「お、美味しいです」「それはよかった」と言いながら顔を赤くしてお互いに目を逸らし合った。

窓の外にはたくさんの景色が流れていく。反射してかすかに映る自分の表情はこれでもかというほどゆるみきっていて、剣士のときなら諫めていただろうけれど、刀を握ることもなくなった今ではこのやわらかい時間に浸っていたいという気持ちのほうが強くあった。

ふたりとも、今日は鬼殺隊の隊服を着ていない。傍から見たら鬼なんて知りもしないただの夫婦のように見えているかもしれない。わたしにはそれだけで、心がふわふわと漂うような気持ちだった。もしいつか鬼がいなくなってくれたのなら、きっとこんなのが日常になるのだろう。もしかしたら遠い、けれどもしかしたらそう遠くない未来に思いを馳せる。はやくそんな日が来ればいい。これまで見落としてきたたくさんの美しい風景を、ふたりでどこまでも辿りに行きたい。

照れが落ち着いて杏寿郎さんのほうを見たら、いつからこちらを向いていたのかすぐにぱちりと目が合う。彼はとっくに照れがおさまっていたようだ。わたしの世界に当たり前のように映り込む杏寿郎さんが愛おしくて綻ぶ気持ちが隠しきれない。そしてそれに答えるように、杏寿郎さんもまた優しく笑ってくれた。

「君が楽しそうでよかった」
「そりゃあ、わたしは楽しいですよ。自分の行きたいところばかり言ってしまったし…」
「構わない。俺も温泉に行きたかったからな!弁当もうまい!鯛も楽しみだ!」
「ほんとうですか?」
「ああ、ほんとうだよ」

いつの間にお弁当を片付けたのか、杏寿郎さんの手がすっと伸びてきてわたしの頭を優しく撫でる。

「それに俺は、六花が楽しそうにしていることが、とても嬉しい」

大きな目が弧を描く、初めて見るその満面の笑みが眩しくて目を閉じそうになるのを必死に堪えた。覚えておきたい、目に焼き付けておきたい。ずっとあなたの笑う顔を見ていたい。「わたしだってそうですよ」と言い返すと、杏寿郎さんは少しびっくりした顔をして、でも嬉しそうに「ありがとう」とまたわたしの頭を撫でた。幸せがあんまり胸をくすぐるので我慢できなくなって笑い合う。まだ目的地にもついていないのに、わたしの胸はもういっぱいになりそうだった。

「少し喉が渇いたな。茶をもらってこよう!」

そう言って杏寿郎さんが立ち上がったときだった。今まで杏寿郎さんの陰に隠れて見えていなかったとなりの列の座席があらわになる。そこで目に飛び込んできた人物に、わたしは思わず声をあげた。

「義勇さん!?」
「("義勇"さん…!?)」
「久しぶりだな、六花」
「("六花"…!?)」
「偶然だな。煉獄」
「よもや……冨岡……!」

通路に突っ立ったまま杏寿郎さんは義勇さんを凝視していた。さっきまでのまるでお花畑のような空気とは一転、とても微妙な空気になる。義勇さんは隊服を着ていて、寛三郎と一緒に駅弁を食べているところだった。びっくりしているわたしたちにかまわず、もぐもぐとお弁当を食べ続ける義勇さんと寛三郎。混乱で珍しく固まっていた杏寿郎さんがハッ!となったところで、義勇さんは話しだした。

「俺もこっちのほうで任務がある」
「そうだったんですか…」
「もしかしたらと思っていた」
「ということは義勇さん、一体いつからそこに!?」
「最初からだ」

穴があったら入りたい。わたしも杏寿郎さんもきっとそう思っているはずだ。なぜならふたりとも顔から湯気を出しまくっているからだ。義勇さんだけが何食わぬ顔をしてもぐもぐしている。それにしてもどうして気づかなかったんだろう。最初からいたというのに、わたしはともかく杏寿郎さんまで気配に気づかないなんて。ふたりして浮かれ倒していたのだろうか。

少しでも顔の熱を冷ますために自分の両手で頬を覆ってみるがあまり効果はなさそうだ。杏寿郎さんは相変わらず突っ立ったまま、なぜかずっとこっちを見ながらもぐもぐしている義勇さんをじっと見ている。義勇さん、なんでこっち見て食べるんだろう。あと、どうしてとなりの列に座っているのに声をかけてくれなかったんだろう。ていうか、なんでとなりの列に座ったんだろう。義勇さん、そういうところあるなあ。

「煉獄」
「!」
「俺も茶が飲みたい」
「!!」
「だからお前たちの分ももらってきてやろう」
「!!!」

もぐ、からのドヤ、という顔で義勇さんはおもむろに立ち上がりお茶をもらいに売り子を探しに行った。その頭には寛三郎が乗っている。去り際、途中で振り返って謎の無表情を残していった義勇さんに杏寿郎さんは不思議でいっぱいのような顔をしている。

「どういう意味だろう、あの顔は!」
「たぶん、"気を利かせてやったぞ、どうだ凄いだろう俺は、ムフフ"という顔だと思います」
「なぜ分かるんだ六花!」
「義勇さん、誤解されやすいですけどすべてのことに悪気がない人なので…」
「むう…!!!」

杏寿郎さんは驚きながらも大人しく席に戻ってきた。体重で椅子が少し沈む。腕を組みながら「よもやよもや…」と、珍しく小声で呟く杏寿郎さんは照れているというよりもどこか複雑そうな顔をしていた。わたしはいまだにさっきのお花畑を義勇さんに全部見られて、いや聞かれていたのが恥ずかしいのだけれど、茶化すような人ではないのでこれ以上考えないことにした。

「義勇さん、一体どういう感情でずっと座っていたんでしょう…」
「むう…」
「杏寿郎さん?」

少し様子のおかしい杏寿郎さんを不安に思って伺うと、じっと見つめられた。何を考えているのか分からない、ぐるぐるの瞳にどきりとする。

「冨岡と、いささか親し気な雰囲気を感じた」
「え?わたしがですか?」
「もちろん!俺は冨岡を同じ柱として仲間だと、戦友と書いて"とも"だと思っているが、名前で呼び合うほどの仲ではない!」

それを義勇さんが聞いたら次から名前で呼ばれそうだなあ、杏寿郎さん。と、ぼんやり思ったけれど、おそらくこういうのが"親し気"に見える要因かもしれないと自分でも気づかされる。

義勇さんとは、鬼殺隊に入っていたときに任務で一緒になることが多かった。柱との任務がしょっちゅうあるわけではないので、そのなかでもわたしは義勇さんか杏寿郎さんと一緒になることが確率として高かっただけだ。杏寿郎さんに関しては偶然だと思うけれど、義勇さんに関しては昔々にお館様直々に「義勇と六花は相性がいいみたいだから、よろしく頼むよ」とお手紙をもらったことがあるのでなにかしらのはからいはあったのだろう。当時は一体どういうことかと思ったけれど、義勇さんは元来口数が極端に少ない人なので、何回か任務をこなすうちに腑に落ちた。

そういった経緯を話すと、杏寿郎さんはいまだほんの少し複雑そうな顔のまま「なるほど」とつぶやいた。腕を組んだまま宙を見て、それからわたしのほうを見る。少し伺うような、そんな顔だった。杏寿郎さんの口がなにか言葉を象ろうとしたところで、ぬっと竹筒が2本、目の前に現れた。

「義勇さん!」
「受け取れ。俺は次で降りる」
「え!?別に邪魔だなんて思っていませんよ!?なにも降りなくても!」
「違う。次の駅で任務がある」
「はっ!そういうことですか…」
「それに俺は邪魔をしていない」
「もっ、もちろんです!」
「…」

じと、という効果音にぴったりの目をして義勇さんはわたしと杏寿郎さんを代わりばんこに見た。その肩で寛三郎がちうちう、と竹筒に入った水を飲んでいる。不可解な沈黙に支配されて三者三様に戸惑っていると、列車がギキィーッと音を立てて止まった。車掌が駅の名前を大きな声で乗客たちに伝えている。それを聞いて、とくに何も言わずいそいそと身支度を整える義勇さん。いや、なにか言ってください…。そう思いつつも、わたしも気の利いた言葉が言えないままなので黙っていた。久しぶりに見た義勇さんの背中を眺めていたら、鬼殺隊で共に戦っていた頃をぼんやりと思い出した。

わたしが入院しているとき、義勇さんもお見舞いに来てくれた。今後剣士として戦えない話を誰かから聞いて別れの挨拶をしに来てくれたのだろう。さらには一体どこから得た情報なのか、わたしの好きなおまんじゅうを持って、ゆれる水面のように静かにとなりにいてくれた。たいした話はしていない、結局最後まで別れの言葉もなかったし、ましてや杏寿郎さんのように結婚の話をされたわけでもないけれど、義勇さんがかけてくれた言葉はずっと胸になかにしまってある。

『六花、お前は死ぬな』

一通り身支度を終えた義勇さんがわたしたちに向き直った。ここでもやっぱり、別れの言葉は思い浮かばなかった。

「義勇さんも、死んじゃだめですよ」
「…ああ」

願いに似た言葉に、笑ったのかそうでないのか分からないけれど、義勇さんは優しく返事をしてくれた。最後に振り返った顔にどこか安堵が滲んでいるような気がして、きっとこの人はわたしのことを心配してどうにか様子を見たかったのだろうと分かった。

車両を出ていく背を見送り、改札に立つ義勇さんに窓越しに手を振る。振り返されたその手が、どうかこれからの悲しみに汚されてしまわないようにと願った。ああ、流れていく景色に義勇さんが溶けていく。わたしはもうあそこに戻ることはできない。一抹の寂しさが心に乗り込んできたけれど、そっとつながれた手に一緒に包まれて、幻のように霞んでいった。すぐそばには、美しい緋を纏う大切な人がいる。

「六花、そろそろ出発だ」
「はい、杏寿郎さん」

手をつないだまま並んで座り、それでも足りなくて少し高い杏寿郎さんの肩に頭を乗せた。そこにそっと重なる杏寿郎さんの頭の重みが心地よい。

汽笛を鳴らし、走り出す。ガタンガタン、と列車が揺れる。行くあてを探すふたりをどこまでも運んでいく。こうして寄り添い合いながら、一体どこまで行けるだろう。どうかこの旅の終わりには、幸いが待っていますように。わたしたちだけの、大きな幸いが。



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