ふと、景色を見つめる横顔が、ぼんやり光って見えてまるで絵のなかをのぞきこんでしまったような気持ちになった。杏寿郎さん、と名前を呼べば簡単に振り返ってわたしに視線を落としてくれるのに、今でもどこかあなたを遠く感じる。このままちゃんと繋ぎとめておかないと、知らない場所へ行ってしまいそうだと思った。大きくあたたかい手を、捕まえるように握った。

「きれいですね、藤の花」
「ああ。本当に美しい庭園だ」

列車を降りて宿についたところで、宿の主に付近で名所と言われる藤の庭園があると教えてもらった。夕食までの時間をつぶそうと散歩ついでに見に行くと、一面に藤が植えられた幻想的な庭園が広がっていた。花が天井のように頭上を覆って、並木道はどこまでも続いてる。このままこの道を辿って歩き続けていったら、どこか別の世界へ行ってしまいそうな気がした。

庭園を静かに眺める杏寿郎さんの金色の髪と藤の淡い紫が反射して、光に埋もれて見える。見失わないように手を強く握り直すと同じように強く、握り返してくれた。こちらを向いた半月にやわらぐ瞳に安心して、傍らに寄り添うように杏寿郎さんにひっつく。なにか言われることもなく、縮まった距離を彼も受けて入れてくれていることがわかった。気づかれないように、もう少し、そっと杏寿郎さんの肩に顔を寄せる。

「六花? どうした?」
「なんだか杏寿郎さんが消えてしまいそうで」
「俺がか? それは面白い例えだな!」
「もう、笑わないでください。本当にそう思ったんです。だから」
「捕まえていようというわけか」

そう言いながらじっとわたしのほうを見る。みなまで言われると恥ずかしくて目をそらしそうになったけれど、捕まえておかなければいけないので「そうです」と小さい声で返事をした。

その言葉のあと、満足げに微笑んだ杏寿郎さんが見えたと思ったらそのままくちづけを落とされる。すぐにくちびるが離れていったので、こんな外で、という抗議の視線を送ったけれど、また軽く笑われて同じように短くくちづけされた。さすがに恥ずかしくなって、これ以上なにもされないように杏寿郎さんの肩に顔を押し付ける。顔は見えないけれどきっと笑われているに違いない。そうしていると「そろそろ戻ろうか」と優しい声がした。

杏寿郎さんに手を引かれながら宿へと戻る。藤を纏うような杏寿郎さんは、やっぱりどこかに連れていかれてしまいそうで、少しだけ怖かった。









「エッ!? 混浴!?」
「いや、部屋に露天風呂がついているだけだ」

夢みたいだった藤の庭園から一転、宿に戻って部屋へ入るとなんと部屋のなかに温泉があった。びっくりして思わず大袈裟に後ずさる。杏寿郎さんは全然まったく動揺していない。いや、杏寿郎さんが選んだ宿なのだから知っていたはずだし、動揺するわけがない。でもそんな、それなら言ってくれればよかったのに。プルプルとうろたえながら杏寿郎さんを見ると、絶対こっちが何を考えているか分かってるだろうに知らないような顔できょとんとしていた。ずるい、ずるいですよ杏寿郎さん。

そんなわたしを知らんぷりしてずかずかと部屋に入っていった杏寿郎さんが表戸を開けると、こじんまりとした綺麗な庭と、敷地内を仕切る柵の向こうに広がる緑の景色が広がる。しかし杏寿郎さんは「うむ、美しいな」と一言だけの感想を述べて、食卓とともに丁寧に並べられた座椅子にどっかりと腰かけた。そのままわたしたちの間には沈黙が流れる。

やはり、と確信めいた予感がする。列車を降りてからどうも杏寿郎さんの様子がおかしい。おかしな挙動をするわけではなく、ただただ静かなのだ。このうえなく、静かなのだ。いつもならなにかとたくさんつく「!」という印が語尾にほとんどついていないのがその証拠だと思う。鬼殺隊でしかも柱であるこの人がちょっとの長旅で疲れたとは考えにくいけれど、もしもともと疲れがたまっていたり調子が悪いのだとしたら不思議ではない。たとえば怪我を隠して呼吸で誤魔化しながら任務を続けることはままあることだ。

「杏寿郎さん、どうかしたんですか?」
「どうかしたとは、どうした?」
「…列車を降りてから元気がないように感じます」
「…そんなことはない!」
「あ!今、そんなことのある間がありました!」
「気のせいだな!」
「なっ、絶対気のせいじゃないです!意外と分かりやすいですね杏寿郎さん!」
「むう…!鋭いな!さすが冨岡とうまくやっていただけのことはある!」

ややいつもの杏寿郎さんに戻りつつあったもののけしかけるのをやめたらまた静かになってしまった。なんとなく、少しだけ、しょんぼりしているように見える。本当は座椅子は机を挟んで向かい合って置いてあったのだけれど、今はその距離すらもどかしかった。わたしは杏寿郎さんの隣にちょこんと座り、じっと彼を見つめる。一瞬、居心地悪そうに眼を背けられたが気にせず見つめ続けていると、すぐに視線が戻ってきた。

「少し思うところがあった」
「どうしたんですか…?」
「六花。俺はもしかしたら、きみの未来を奪ってしまったのかもしれないと、思ったんだ」

どういうことか分からない、という顔をして見つめると、体の向きをわたしのほうに向けて座りなおしてくれた。まるで自嘲するように困った顔をされたので、杏寿郎さんでもそんな顔をするのだなと心のなかでぼんやり思った。

「冨岡と話しているときのきみを見て俺は驚いた」
「義勇さん? なぜここで義勇さんが…」
「俺よりもずっと親し気で、六花も楽しそうに見えたんだ」
「……杏寿郎さ、」
「よもや、冨岡に嫉妬するとはな」

ぱちりと音が聞こえそうなくらいに、ふたりの視線がかち合う。杏寿郎さんほどの人でも嫉妬なんてするんだなあと、また他人事のように思った。

だってそうしなければ、たぶんわたしは今、普通にしていられない。必死に知らんぷりをしようと思ったのに、言葉と、杏寿郎さんのわたしを探るような視線と、まるで拒絶しないでほしいと縋るかのようにそっと握られた手のせいで、じわじわと胸の奥が熱くなってくる。そうしている間にとうとうみぞおちのもっと奥のほうがぎゅっとつままれてしまった。痛いような甘いような感覚が脳みそにまで広がっていく。

かわいい。

気まずそうに視線を外して、見慣れないいびつな笑みで沈黙を誤魔化しながら次の言葉を探して黙ってしまった杏寿郎さんが、かわいい。そう気づいてしまったのだ。

「本当は他に想う男がいたんじゃないかと、そんなことに今気づいたんだ」
「きょ、杏寿郎さん、わたしはですね…!」
「六花は、俺以外と一緒になる未来もあったのかもしれない」
「なっ、」

なんでそんなことを言うんですか、と声をあげかけたけれど、それより先に杏寿郎さんの言葉が続いた。ただ重なるようにして握られていた手を、強く、握りしめられる。

「ただ俺は、それでもきみを絶対に手放さない」

さっきまでかわいらしく泳いでいたはずの瞳が、爛々とした輝きを取り戻してわたしの目に映るぜんぶになる。握られた手をするりと持ち上げられて、形を確かめさせるように杏寿郎さんの頬に導かれる。あつい。この熱が、わたしのものか彼のものかは、もう分からなくてもいい。

言葉はきっと必要なかった。そっと近づいてきた杏寿郎さんを脳裏にとどめて目を閉じる。いつものやさしいくちづけがわたしを満たしていく。かわいい、嬉しい、それよりもっと大きくて心のなかを満たす大きな気持ち。愛しい、と思った。もしかしたら杏寿郎さんもそうなのかもしれない。大きな両手が逃がさないかのようにわたしの顔を覆うので、その手にそっと自分の手を重ねた。

乱れはじめた呼吸を整えながらうっすら目を開けると、杏寿郎さんと目が合う。ゆらりとしたほのかな影をまとう視線はいつもと違う鋭さを持っていて、知らない男の人ようだった。

「六花」
「杏寿郎、さん、待って」

いつのまにか押し倒されていて、覆いかぶさるようにして上にいる杏寿郎さんをなんとかして制止する。かたい胸板をやんわり押し戻すとほとほと困った顔をされてしまい、どうしてこんなときに限ってそんなかわいい表情をするんだろうと胸をしめつけた。

「さっき、他に好いた男がいたんじゃないかって、言いましたよね」

浅い呼吸のまま話したので言葉がとぎれとぎれになる。杏寿郎さんはきょとんとした顔をしてから、少しだけ切なげに眉を歪めて「ああ」とだけ言った。

「わたし、杏寿郎さんだけなんです。初めて会ったときからずっと。こんなに視線を奪われてしまうのも、憧れで胸がいっぱいになるのも、そのせいで時々切なくなるのも」

わたしを見下げる杏寿郎さんの頬にもう一度手を伸ばす。彼がいつもそうしてくれるように親指で静かに撫でた。慈しむように触れているのはこっちなのに、なぜかわたしのほうが泣きたくなって、息をのむ。

じんわり、ゆっくりと、熱が体のなかへ溶けていく。きっとわたしたちの想いはまだ愛には辿り着いていない。それでも捕まえておきたくて、手放したくなくて、壊さないように大切に大切に幸せの上を歩こうとするこの時間は、たしかに愛に近づいていると信じたかった。

「ふたりで向かう旅路があんなにも幸せだったのも、ぜんぶぜんぶ、杏寿郎さんだけ」

表情を確かめる間もなく、杏寿郎さんは胸のなかに落ちるようにしてわたしを抱きしめる。自分よりずっと大きな体が子供みたいに乗っかっているのは不思議な感覚だったけれど、決して嫌なんかじゃなかった。さっきまで熱いほどに感じていたものは気づけばあたたかいぬくもりになっていて、おどろくほど心地よい。

胸元にうずまっている杏寿郎さんの頭だけが見える。ほわほわの髪の毛が、かわいい。思わず手を伸ばして、やわやわと頭を撫でた。男の人にするようなことではないかなと心配になったけれど、杏寿郎さんはなにも言わない。ぎゅうぎゅうと何度も抱きしめ直してきて、わたしに体を預けるようにして大人しくしている。

「杏寿郎さん、もしかして眠っちゃいましたか」
「まさか。起きている」
「なんだか」
「言うな。言わないでくれ」
「…はい」

よしよし、といよいよもって子供にするように杏寿郎さんの頭を撫でる。いつもは伝わるのが恥ずかしいと思うのに、今はどうかこの手のひらから気持ちがすべて伝わっていたらいいなと思う。

ちょっとしてから「ご夕食をお持ちしました」と仲居さんから声がかかった。起き上がろうと上体を起こした杏寿郎さんの少し複雑そうな顔と目が合って、それがなんだかおかしくて静かに笑い合ってから短くくちづけをした。満たされた心から、幸せな気持ちがあふれてこぼれてしまったような気がする。

運ばれてきた鯛の活け造りは想像していたよりもずっと豪華で、杏寿郎さんも「うまい!わっしょい!」と言いながら食べていた。穏やかにすぎていく時間に、時々泣きそうになる。今日はこんな気持ちばっかりだ。そんなわたしに気づいているのか、杏寿郎さんは時折ひどく優しい目をしてわたしを見てくれる。

明日にはもう帰らなければいけない。杏寿郎さんはまた戦いに行かなかければいけない。彼がいない間、わたしはこの思い出を抱いてひとりで眠れるだろうか。そんな先の心配をしていて、ひとつ思い出した。

「…杏寿郎さん、あの、お風呂ってどうやって入るんですか…」
「一緒に入らないのか?」
「エッ!!!」
「混浴と言ったのは六花だぞ」

勝ち誇った顔で見つめられる。そんなばかな。お風呂、どうしよう!



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