殴られたわたしの頬をてのひらで包むようにして触れながら、悲しい顔をしていた杏寿郎さんが頭から離れない。あなたが、そんな顔をする必要はないというのに、なにも言うことができなかった。

「千寿郎くん、眠りましたよ」

杏寿郎さんの寝室へ入りながら声をかけると、こちらに目を合わせてはくれたものの返事はなかった。布団のうえに規則正しく座りながら、じっと宙を見ている。心配をかけたことが悔やまれる神妙なその横顔にかける言葉は浮かばない。心なしか気が沈んでいるようにさえ感じる。そんな杏寿郎さんの顔を見るのは初めてだったのでどうにかしたかったのに、自分の気の利かなさが嫌になった。それでも何事もなかったかのようにすることはできなくて、わたしはただ布団の横に座る。

任務から帰ってきた杏寿郎さんは、珍しく怪我をしていた。本人はたいしたことがないと言っていたけれど、腹のあたりを切られたというその傷は痛々しかった。戦いが終わりほとんどそのまま戻ってきたというので、わたしと千寿郎くんに絡んできた男達に容赦がなかったのは気が高ぶっていたせいかもしれない。千寿郎くんにはとても怖い思いをさせてしまっただろう。震える小さな身体がどうにかしてわたしを守ろうとしてくれていた健気さを思うと、胸が痛くなる。もしかしたら杏寿郎さんも同じことを考えているのだと思った。

「杏寿郎さん。怪我、痛みませんか」

おずおずとしたわたしの声に杏寿郎さんが振り向く。なんでそんなことを、と言いたげな驚いた顔だった。つい先刻まで男達に蹴っ飛ばされていたわたしが言うことではないのは分かっていたけれど、ほかに言えることがなかったのだ。「俺のことなど」とようやく話してくれたことに安心して顔が緩む。目が合うと、杏寿郎さんは観念をしたかのように大きく溜息をはいてわたしに向きなおる。ちょいちょい、と手招かれもう少し杏寿郎さんに近づいた。ほとんど膝がくっつきそうなくらいの距離で見つめ合うと、その大きな両手にわたしの両手がすくわれる。にぎにぎと確かめるようにして触れる指先はいつもと違って少し生ぬるかった。

「男達に囲まれているのがきみと千寿郎だと気づいた時、心臓が止まるかと思った」

やんわり触れていた手に力が入りぎゅっと握られる。杏寿郎さんは思いつめる顔をしてぽつぽつと話し出した。三日もかかる任務と聞いた瞬間に一日で終わらせると決意したらしい。それでもほとんど丸二日はかかってしまった。ともに隊を組んだ面々が新婚の杏寿郎さんを気遣って一足早く帰してくれたので、偶然にも昨日、わたしと千寿郎くんを助けることができたんだそうだ。

そこまで言って、杏寿郎さんはまた黙った。次の言葉を待つように顔を覗き込んでいたらふいにその手がわたしの頬に伸びる。まるで痛まないようにとあまりにそっと触れるから少しくすぐったかった。そのまま大きな手はするすると首のほうへ落ちていく。杏寿郎さんの目がじっとわたしを捉えて離さない。

「痛むところはないか」
「わたし、元剣士ですよ。これくらいはへっちゃらです」
「…たまらなく、嫌だった。六花を傷つけられるのが」

笑ってみせても杏寿郎さんは笑ってくれずに余計に悲しそうな顔をした。千寿郎くんとした会話をぼんやり思い出す。痛いとか苦しいとか、大切なひとには感じてほしくない。もしできるなら、道に転がる石ころでさえよけてあげたい。あたたかい光のなかにずっといられるように。それは途方もない願いだというのにたやすく脅かされることをわたし達は知っている。杏寿郎さんから向けられる悲痛なまでの気持ちが届いたような気がして、なんだか泣きそうになる。本当はまだ少し痛む頬も身体も、あなたに包まれればすべてなかったことにできる気がした。

すまない、とまたあなたは謝る。わたしはやっと「なにを謝ることがあるんですか」と笑って言うことができた。そのまま抱き寄せられて、陽だまりの匂いがする腕のなかに閉じこめられる。ここがいちばん明るいところのように感じて、ゆっくりと目を閉じた。杏寿郎さんの手がわたしの身体のあちこちをゆっくり撫でていく。痛くないか、辛くないか。耳元で聞こえる甲斐甲斐しい声にすべてを委ねたくなる。

「杏寿郎さんの手、きもちいい」

身を寄せながら呟くといっそう強く抱きしめられた。撫でる手が止まり、杏寿郎さんの腕のなかから顔を見上げると、切なげに揺れる瞳の奥にわたしが映っているのが見えた。

「六花」
「は、」

い、という音を出す前に杏寿郎さんの顔が目の前にあった。いつもぱちくりとしている不思議で大きな目は伏せられていて、同じようにわたしも目を閉じた。すべてが包み込まれるようなやわらかい感触が唇にあたったと思えば、そのまますぐに離れていく。けれど顔はすぐ近くにあるままで見つめ合うには恥ずかしいというのに、杏寿郎さんの手がいつの間にかわたしの顔をやんわり包んで逃げ場を奪っていた。

「杏寿郎さん」と、意を決して名前を呼ぼうとしたもののまたすぐにそれは奪われた。今度はすぐに離れていかない。ちうちう、とかわいい音を立てては唇を食んでいる。少しあいた隙間から舌がやってくる。頭がぼうっとするようなくちづけが続いて少し息が苦しくなってきたところで、杏寿郎さんがゆっくり離れる。名残惜し気に行き場を失った舌が空気に触れた。

まるでわたしがどんな表情をしているのか確認するようにじっくりと顔を見られる。悔しいのでこちらからもしっかり彼の顔を見てやれば、こんなふうにしておいて、自分はひどく優しい顔で微笑んでいた。足の先が、頭のてっぺんが、ちりちりと熱くなる。ふたりともきっと呼吸が乱れているのにどうしてかその息苦しさがもどかしかった。ぎゅっ、と杏寿郎さんに肩のあたりの服を掴む。こうしていないとこのまま倒れてしまいそうだった。

「六花。もう少しだけ、触れてもいいか」
「や、もうだめです、」
「すまない」

ずるいと思った。聞いておいてわたしの返事がなんだろうと意思を曲げるつもりはなかったのだ。顔を包んでいた手がさっきと同じように身体を撫でる。ひとつ違うのはその指先が熱くて、触れたところが溶けてしまいそうになるくらいだったこと。まるで赤ん坊を寝かせるように杏寿郎さんにそっと運ばれて布団の上に組み敷かれる。

わたしを見下ろす瞳はどこか獣に似た雄々しさを帯び、逃れることができなければこのまま喰われてしまうのだとわかった。けれどわたしはきっと逃げないだろう。応えるように精一杯腕を伸ばして抱きつくと、一瞬杏寿郎さんの身体が強張った。

戦っているとき、この手を失ったらもうきみに触れられなくなると思った。きみが傷つけられているとき、その光を失ったらもうきみに触れられなくなると思った。杏寿郎さんの静かな声がわたしたちを切なく包む。平穏な日々のすぐ隣に、どうしてかいつも悲しみが消えない。寄り添い合って生まれていた幸せは、本当は精一杯手繰り寄せていただけだったのかもしれない。

力を抜いて布団に身を預けると、しゅるりと帯を解かれて襟の合わせが綻ぶのを感じた。杏寿郎さんの手はわたしの素肌を辿る。触れるところから熱くなって朝日に焼き付けられているみたいだ。寄せられた唇を受け入れるとそのまま呼吸ごと食べられる。息ができない、声も出せない。胸の奥を駆り立てる熱がくちから離れていき、見つめ合う時間もないまま今度は首筋に顔を寄せられる。くすぐったくて恥ずかしくて、どこにも力が入らなくなる。

「きょう、じゅろうさん、」
「そんな顔をされると悪いことをしている気分になるな」

両手をついてこちらを見下ろしている杏寿郎さんが、少し眉を下げて困ったような苦しそうな顔をしていた。その瞳には、これからなにをされるのかわたしにもわかるくらいじっとりとした熱がこもっていて、そらすことができなかった。早くなる心臓は、恐れているのか、高鳴っているのか、自分でも分からない。

「六花。痛むところは、本当にないか」

震えそうな喉だったのにやけにちゃんと「はい」と言えた。それを聞いた杏寿郎さんは片手で器用に自分の帯を解き、次には着物がはらりとはだける。いつも優しく抱き寄せられる場所の素肌があらわになって、胸の奥がどくん、と鳴ってしまう。彼の髪と、目と、身体が、とても綺麗だと思った。

見惚れている間にすぐに唇が触れ合う。そのまま強く抱き合って、なるべく長くくちづけをした。杏寿郎さんの肌と重なって、ほんとうにこのまま溶けてしまいそうだった。



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