ぽつりと浮かぶまあるい月を見て、きみを思い出す。そう、ちょうどこんな感じ。わたしの世界を照らす、優しい光。



凍えることすら一人では上手にできなくて




「ただいま」

1人暮らしの部屋の扉を開けると、いい匂いが漂ってきた。なんの匂いか考えながら靴を脱いでいると、廊下とリビングをつなぐ扉が開いて、こちらに近寄ってくる足音が聞こえてくる。彼が非番の日はいつもこうして帰りを待っていてくれる。蒼也の靴があることを確認するだけで、不思議なほどに肩の力が抜けていく。

「おかえり」
「ただいま。ごはん、作っててくれたの?」
「ああ。作って待ってるって言ったからな」
「ありがとう」

蒼也はエプロンをつけていた。まだ晩ごはんを作っている途中のようだった。軽く買い物をしてきた荷物を持ってくれて、一緒にリビングまで戻る。テーブルにはすでに美味しそうなスープとサラダが用意されていて、なんだか自分で用意したときよりもずっとオシャレに見える。この前、蒼也と出かけた時に買った水色のトレンチコートをハンガーにかけながら、お腹が大きな音をたてるのを必死に我慢した。

「もうできるぞ」
「ふふ、ありがとう。エプロン…かっこいいね」
「今、かわいいって言おうとしたな?」
「し、してないよ!」
「…」

まんざらでもないのか、照れ隠しなのか、蒼也はかすかに笑ったような顔をしてすぐにキッチンへ戻った。部屋着に着替えていると、本日のメインディッシュを持って彼が戻ってくる。テーブルに上品に置かれた今日のごはんは、カツカレーだった。蒼也は意外とこういう、家庭料理っぽい料理を作る。いや、意外とって言ったらおかしいのかもしれないけど。わたしのイメージではもうちょっとオシャレな、料理名だけじゃなんの料理なのかよく分からないような料理の方が得意そうなのだけど、彼自身もこういう料理が好きらしい。

「おいしい!」
「そうか」
「あれ?蒼也のカツ、ちょっとコゲてない?」
「コゲてない」
「え、コゲてるよ」
「食べないと冷めるぞ」

となりのお皿のカツがどう見てもコゲていたが彼は認めなかった。蒼也はいつも、ちょっとデキの悪いおかずは自分のにして、わたしにはうまくできた方をくれる。そんなの気にしないのに、でもそんなことがとても嬉しかったりする。「ありがとう」と言うと「なにがだ」ととぼけて、コゲたカツをむしゃむしゃ食べていた。ふたりとも身長がそれほど変わらないけれど、座ると蒼也の方がやっぱり少し背が高い。ような気がした。やや差のある視線が重なると、わたしたちは自然と笑みがこぼれる。

「洗い物、わたしがするね」
「いやいい。それよりも風呂に入れ」
「蒼也は?」
「先に入った」
「そっか…」

ちょっと残念がってみせると、蒼也は照れくさそうに顔をそらして「すまん」と謝る。あやまらなくていいのに、蒼也は律儀だ。

「なまえ」
「うん?」
「俺は明日から遠征だ」
「…そ、っか」

彼は律儀なので、明日からの遠征のこともちゃんと前から教えてくれていた。わかっていたけど、いざ明日からとなるとやっぱり寂しい。また、薄暗い、ひとりの部屋に帰ってこなければいけなくなる。「1ヶ月だっけ」と確認すると「ああ」と申し訳なさそうな声が返ってくる。それがわたしへの罪悪感じゃなくて、少しでも、わたしと離れる寂しさからくるものだったならいいのに。分かりやすくしょんぼりしてしまったせいで、蒼也は心配そうな顔で見つめてくる。大丈夫、と言葉をかえそうとしたとき、そっと手をにぎられた。

「絶対に帰ってくる」

ぎゅっと、手をにぎる力が強くなる。

「ちゃんと、なまえのところに帰ってくる」

まっすぐに見つめてくる赤い瞳が心をとらえる。彼がゆれたように見えたのは、わたしが涙をこぼしてしまったからだ。

わたしの家族はある日、近界民の襲撃のせいでいなくなってしまった。友達と遊んでいつもより遅く帰った日のことだった。あれからもう何年も経ったけれど、家族が誰もいなくなって真っ暗になってしまった部屋を今でも時々夢に見る。自分しかいない薄暗い部屋にぼんやり浮かぶ灯は、家族の弔いのためにたてた線香のかすかな光だけで、どうしたって払いきれない暗闇に押し潰されそうだった。

でもいつしか、その暗闇をゆるやかに、けれどたしかに、とりのぞいてくれたのが蒼也だった。するりと手が離れて、わたしたちは見つめ合う。

「1ヶ月くらい平気だよ、寂しくない」
「俺は寂しいんだが…」
「えっ」
「なんてな」
「うそなの?」
「…うそなわけないだろう」

目を細めながら、蒼也はわたしを抱きしめた。まるで存在をたしかめるように、お互いをつよくつよく抱きしめる。孤独におびえるわたしを、きみはいつだって穏やかに包み込む。ひとりでは立てなかったのに、暗闇のなかでも歩いていけるようにしてくれた。それでもたどりつく先に、すぐ見えるところに、きみがいなければ息もできない。

「おみやげよろしくね」
「いや、遊びに行くわけじゃない」
「そっか」
「そうだ」

そういって優しく重なる唇からじんわり溶けあうような熱が、心のからっぽの部分をゆっくり満たしていく。

家族を失ったあの日から、もうずっとひとりで生きているような気がしていた。朝が来ても昼になっても、暗い部屋でいつも泣いていた。あのね、蒼也。わたしはまだ、ひとりで超える夜が怖くてたまらないよ。でも、きみが灯してくれたこのあたたかな光があれば、朝がくることを信じていられるんだ。
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