少し残ったミルクティーと溶け始めた氷がコップの底で混ざり合う。そんなに喉が渇いていたわけではないのに、ほとんど最初のほうに飲み干してしまった。水のような、ミルクティーのような、薄茶色の液体を飲むか飲まないか考えて、もうどのくらい経っただろう。目の前の液体とにらめっこするのをやめて、セルフサービスの水をとりに席を立つ。なんとなく横を向いたらはた、と目が合った。

「伏黒くん」
「…どうも」

席から少し離れたところに、真っ黒の制服に身を包んだ伏黒くんが立っていた。彼はだいぶ大人びた子だけれど、このカフェは少し敷居が高かったようでなんだか居心地悪そうにしている。かわいいな、なんて思って眺めていたらちょっとソワソワした様子で遠慮がちにわたしのほうへやってきた。

「もしかして今出ようとしてました?」
「ううん、お水をとりに」
「よかった」

なにが、よかった?と思っていると伏黒くんはアイスコーヒーをわたしの隣の席に置いて当たり前のように隣に座った。小洒落たカウンター席はやたら足が高くて座るのにちょっと苦労したのに、伏黒くんはなんてことなく腰かける。子供のわりにその姿がとても様になっているのでイケメンは得だなあと思った。自分ののついでに一応伏黒くんの分のお水も持って席に戻る。後ろから見てもやっぱり絵になっている伏黒くん。五条さんと並んでいるときなんて、まるで雑誌を見ているみたいだといつも思う。

「どうしたの?伏黒くんて、趣味カフェ巡りだっけ?」
「全然違います」
「だよね」
「…外から、なまえさんがいるのが見えたんで」

隣の伏黒くんを見ると、からん、と氷を鳴らしてコーヒーを飲んでいた。その横顔が少し赤くなっているように見えたのは、きっと錯覚じゃない。わたしはすぐに持ってきた水に視線を戻してその横顔を見なかったことにした。

学校の近くにぽつんとあるこのカフェは、どちらかというと純喫茶に近くて、常連以外はとても入りにくい店構えだった。最初に連れてきてくれたのは五条さんだった。それから何度か2人で来たり、ひとりで来たりを繰り返して、今ではすっかりわたしが五条さんを待つ時に使うくらいになっていた。窓側のカウンター席は外からよく見える。五条さんに少しでも早く見つけてもらえるように、何回も通ううちに発見した特等席だ。

「五条先生ならまだかかりそうですよ」
「え、そうなの?」
「出るところ学長に捕まってるの見ました」
「そっか…長そうだね…」

からん、とお水に入れた氷が鳴った。かすかに揺れる水面を眺めながらふうっと短く息を吐く。五条さんを待つのには慣れている。どんなに遅くても、どんなに長くても、あの人はいつもちゃんとわたしを迎えに来てくれる。だから途方もない雑音の中にひとりで置き去りにされていても、悲しくならずに待っていられる。その間にたとえミルクティーがただの茶色の液体と成り下がっていても、ちっとも虚しくなんかない。

「…伏黒くんは、戻らなくていいの?」
「あ、いや俺は…今日は暇なので」
「そっか」
「はい」

伏黒くんはそれ以上とくに何も言わなかった。話題を探そうとも思ったけどそれほど重い沈黙ではなかったのでわたしも空気に任せることにした。ミルクティーの入っていたコップはすっかり氷が溶け切って、いよいよよくわからない液体になっている。さっきまで中途半端に混じり合っていたというのに今ではすっかり綺麗に白濁色だ。わたしも五条さんと、こんな風に自然と世界に馴染んでいるんだろうか。はたから見て、ちゃんとお似合いの恋人同士に見えるんだろうか。もしかしたらわたしばっかり好きなのが周りにバレバレで、かわいそうな彼女に見えていたり、はたまた、付け入る隙がありまくりの危ういカップルに思われているんじゃないだろうか。ちらりと伏黒くんの方を見たら、簡単に目が合ってしまった。顔だけじゃなくほとんど体もこちらを向いている状態で頬杖をついている。

「…腹減りません?」
「…えっ?」
「ここサンドイッチくらいしかないみたいで」
「あ、でもわたし、」
「五条先生には、俺から連絡しときます」

どうしよう、と迷った。伏黒くんがあまりに真っ直ぐに見つめてくるから、断ってはいけないような錯覚をした。からん、と音を鳴ならしたのはまだ半分も残っているアイスコーヒーのグラス。わたしが渡したお水のほうはもうすでに飲み終わってしまっているようだった。迷ってしまった。揺らいでしまった。なんかもう、いいかなって、思ってしまった。だんだんと店の雑音が遠くなっていくのを感じていた。胸のなかをひっそりと蝕んでいた寂しさや虚しさがわたしの背中を押すように少しずつ大きくなっていく。まだ、五条さんから連絡はない。会おうと約束した時間からはもう2時間が過ぎている。バカみたい。頭のなかで誰かの声が響いた。

こんこん、

「!」

外がよく見える窓際のカウンター席は、外からよく見える場所と同義だ。わたし達はほとんど2人同時にガラス窓の外に目をやった。伏黒くんの前のあたりで、ガラスを叩いて外からこちらに合図しているサングラスの五条さんがいた。ああ、来た。やっと来た。安心して、逃げ場ができたような気がして、さっきまでの空気が一瞬で溶けたように雑音が近くなる。

「あ、ごめん伏黒くん。五条さん来たみたい、だから」
「……っす」

伏黒くんの表情はなにも映さない。五条さんに軽く目をやってそのままわたしを見ずに自分の手元を見ていた。こっちにおいでと店から出るように促す五条さんの仕草に、慌てて準備をする。その間も伏黒くんはやっぱりどこかを見ていて、でも触れたらいけないような気がして、「ごめんね、じゃあね」と軽く声をかけて去ろうとした。

「なまえさん」
「え?」

踵を返したら腕をぱしっと掴まれ引き止められる。反射的に振り向くと目が合った伏黒くんはやっぱり真っ直ぐで、今はそれがちくちくと心に刺さるようで、目を合わしづらい。

「また、誘います」
「……うん」

それから曖昧に笑って、わたしはすぐに店を出る。五条さんはごめんねと何回も謝ってくれた。髪の毛が少し乱れているとわたしの頭をそっと撫でて髪を整えられる。お腹が空いてるかお互いに確認をして、何かを食べに行こうという話になった。店の前から離れようとするときにはしっかりと手を繋がれて、待たせたお詫びだよと言ってわたしのバッグまで持とうとしてくれた。それから内緒話をするみたいに耳元に顔を寄せて、「もしかして僕の悪口言ってた?」と茶化された。そしてそのすべてを、お店の中から伏黒くんは、ずっと見ていた。

「恵と何話してたの?」
「…お腹、すいたねって」
「そっかそっか」

五条さんのわたしの手を握る力が少し強くなった。さっきまで彼を待っていた時間なんて存在していないかのように、その時の話はそれっきりしなかった。

少しだけ後ろ髪を引かれる思いをしたのは、お腹を空かせている高校生を不釣り合いのカフェに置き去りにしてしまった罪悪感ではない。あの時、五条さんが迎えにきていてくれなかったらわたしはどうしていたんだろうという、少しの好奇心だ。伏黒くんと2人で店を出ていたんだろうか。

「なに食べようかなあ」
「わたし、お肉がいいです」
「お、いいね!肉!」

五条さんの明るい声音に引っ張られて、わたしの声も高くなる。五条さんと手を繋いでいるというのに、伏黒くんと2人で並んで歩く姿を一瞬想像して、すぐに振り払った。あの子と並んで歩くなんてそんなこと、わたしにできるわけがない。

わたしと五条さんが、大人の持っているこの寂しさは、あまりにもくすんでいる。こんな泥のような感情に振り回される世界にあの子を引きずり込んではいけない。都合のいい体温や言葉で寄り添い合ってしまうやり方なんかを示してはいけない。なんとなくだけど、五条さんもそう思っているのだと感じた。

(わたしのこと…)

そう、せめて。

(真っすぐ、見るんだもんなあ)

きみがわたしなんかを好きじゃなければ、もっと簡単にその手をとってあげられたのに。
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