ここは真っ暗だ。
見慣れた闇から漂う気配はきっと孤独だ。疲れて歩みを止めてもよりかかるところさえ解らない暗闇が眼前に広がっている。そう比喩したのは電気の消えた自室だった。水槽越しに見渡した部屋はまるで家具達も寝静まったように沈黙を守っていて誰もいないことを告げる。

ひとりになると決まって思い出すことがあった。
今よりも幾分も小さな水槽ではあるが、こんな風に暗い部屋を水槽越しに見ていた。穏やかな声に安堵して必死に耳を傾けた。あの人がいなくなるその日まで。それから唐突にやってきた終わりは光と地獄を教えてくれた。あんなに美しいものがある世界が地獄というのはとても皮肉だった。けれどあの美しさがあるのなら、孤独でも平気なのではと思った。いや、思っていた。水に漂わなければ息もできないのに、彼女に手をひかれ空の下を歩いてしまうまでは。

水の中で微かな空気が弾ける。こんな微かな空気では彼女だって生きることができない。そう、だからきっと僕たちは共に生きることができない。そう考えた時に、異常なほど、孤独を感じた。どれだけ手をとってくれても、どれだけ傍らにいてくれても、拭い去れない隔たりが息をつまらせる。苦しくなる。ここでさえ、呼吸ができなくなりそうだった。

「ツェッドさん?」
「!」

突然、控えめに開いた扉から差し込む光が眩しくて目を細めた。そこにいたのはなまえさんだった。返事の代わりに名前を呼ぶと安心したように息をついて静かに部屋に入ってきた。水槽に向かって真っすぐ歩いてくる彼女を迎えるために、厚いガラスに寄ってぺたりと手のひらをつけた。

「ごめんなさい、眠ってましたか?」
「いえ、ぜんぜん。どうかしたんですか?」
「わたしもそろそろ帰るので、挨拶にきました」
「ああ、そうですね。夜も遅くなりましたし、早めに帰った方がいいです」
「…ツェッドさん、体はもう大丈夫ですか?」
「はい、なんとか。まあなんてことないです。お師匠様の修行に比べれば」
「よかった…。最近色々あったから、なんとなく心配してたんです」
「えっ」
「…あ、そういえばレオくんが楽しみにしてましたよ。新年会」

聞き返そうとすると話をはぐらかされてしまった。新年会、と言葉だけ返すと彼女はやわらかそうな頬をゆるめて少しだけ笑った。もう一度名前を呼ぶと瞳と目が合う。どきりとして、言葉につまってしまい「あ、えっと、」と口ごもっているとなまえさんが困っている僕を察して言葉を続けてくれた。

「えへへ。わたしも楽しみなんです、新年会」
「盛り上がるみたいですからね、新年会というのは」
「ふふ、そうじゃないんです」
「えっ」
「ニューイヤーパーティっていうのは、特別なんですよ」
「特別?」

はい、と優しく笑った彼女は水槽に手をついてじっと見つめてきた。その手は僕がガラスについていた手に重ねるように合わせられていて、ガラスの遮られて今は少しも触れていないけれど、あの白く細い手があたたかいということを思い出させる。その温度を思い出したように、僕の胸の奥の方が熱をもった、気がした。彼女は重ね合わせた、けれど触れ合ってはいない2人の手を見つめながら言った。

「大切な人達に1年間のたくさんのありがとうを伝えて、来年もその次もまたよろしくね・って約束をする日なんです」

手から視線を外して、また僕の目を見る。まるで今、本当にそう言われているみたいで、視線を外すことができなかった。きっと、きっと触れていたら、彼女の手を握りしめていただろうけれど、それができないので冷たい水槽を指先で撫でることしかできなくて。けれど「素敵ですよね」と、微笑む瞳がおそらく、たぶん、それを僕に伝えようとしている気がして、溢れかえりそうになる何かを必死に胸に押しとどめて呼吸した。ああ、息ができる、水の中でなくても、この狭い水槽の外が地獄だとしても、あなたがいてくれれば。そう思った。

「だから、そんな特別な日をツェッドさんと過ごせることが、わたしはとても嬉しいんです」

優しい彼女は微笑む。水槽越しのなまえさんの指先が少しだけ動いて、ガラスを撫でていた。

「ーそれは確かに、特別な日ですね」

見つめる瞳に僕が映っていて、きっと僕の瞳にも彼女が映っていて、それが切なくなるほど幸せなことだと気づいたけれど上手く言葉にはできなかった。どうすればこの喜びがあなたに伝わるのかは、パーティーまでに考えておこう。そしてきっと伝えよう。彼らが、彼女が、教えてくれた世界の愛しさを。



(君を覆う優しい銀河)..