人間の感情がスイッチで管理できたらいいのに。そうすれば、泣きたいスイッチを押すまでは泣かなくてすむし、怒りたいスイッチを押すまでは怒らなくてすむ。そうすれば、そうできたなら。こんなにカッコ悪いところを、憧れのイケメン店員さんに見られることもなかったのに。



Everything is in his hands.




「あれ、なまえさんじゃないですか」
「あ、ケホッ、安室さん…」
「喉、ちょっと枯れてます?」
「は、はい…」

安室さんは片手にスーパーの買い物袋を持っている。ちらりと確認したが牛乳が入っていたので、きっとポアロの買い出しに出てきてんだろう。安室さんがこういう庶民的なものを平気で持ってるの、なんだかちょっと面白い。そこが家庭的でまたイイって、あーちゃんも言ってた。わたしもそう思う。カフェの買い出しも仕事だから家庭的とかじゃないけど。

「なまえさんは、今日はいつもよりメイクに気合いを入れたんですね」
「え、えっ!?」
「…まつ毛が」
「えええ!?」

安室さんがスマホのカメラをインカメにしてわたしの顔の前に持ってきてくれた。そこに写っていたのはマスカラが落ちて目の周りに細くて黒い汚れがついているアホみたいな自分の顔だった。余念ありまくりだ。あとなんか黒ごまみたい、美味しそうではないけど。おかしいな、ウォータープルーフのはずなのに、さっき目をこすっちゃったからかな。どうしよう、と困っていると、安室さんはくすっと笑ってから(すごくかっこいい)ポケットからハンカチを取り出し差し出してくれた。

「これで少しは拭きとれませんか?」
「…いや!!大丈夫です!!そんな!!安室さんの!!ハンカチを汚したりしたら!!」
「炎上?」
「します!!!!」

それはもう大声でしっかり答えると安室さんはおかしそうに笑った。笑いごとじゃないよ安室さん。あなたはJKのあいだではもはやアイドル並みの人気者なんですよ、とまでは言わなかったけれど。「いいから、使ってください」と駄目押しされ、安室さんに言われたら受け取らないわけにはいかないので綺麗で高そうなハンカチをうけとり、安室さんの掲げるスマホを見つつ、内心土下座をしながら落ちたマスカラを拭きとることにした。

「安室さん、優しいんですね」
「いえいえ。いつもご贔屓にしてくれる可愛い常連さんのためですから」
「(テスト勉強を犠牲にして通いまくった甲斐があった…ありがとうあーちゃん…そしてなんかごめんあーちゃん…)」
「拭きとれそうですか?」
「な、なんとか」

よかった、と微笑む安室さんはただただイケメンだった。いくら常連だからって、どうしてこんなに当たり前に人に優しくできるんだろう。きっと安室さんは彼女にもとびっきり優しいんだろうな。と、思って、わたしはまた自分の状況を思い出した。スマホのインカメに映る瞳がたちまち揺れて、赤くなる。ばか、だめだ。せっかくマスカラ拭いたのに。泣きたいスイッチは押してないつもりだった。それでも涙は勝手にぽろぽろ流れてきて、わたしは思わず顔を両手で覆った。

「っう、ぅぅ…っ」
「…大丈夫ですか?って、大丈夫ではないんですよね」
「うっ、ひっく、」
「すみません。僕と会ってしまったから、なまえさんに余計に気を遣わせてしまいましたね」

そんなことない、そんなことないよ安室さん。そう言いたかったけど、涙が流れるのに反応するみたいに嗚咽しかでなくて、首をぶんぶんとふることしかできなかった。安室さんのあやすような優しい声が心地よい。まるで泣いてもいいよって言われてるみたいで、全然こらえきれなかった。こんなに泣いたら、せっかくのバッチリメイクも、ズレないように決めた前髪も、なにもかもぐしゃくじゃになっちゃう。あーあ、今日こそアイツに会えると思ったのに。可愛いって、好きだよって、今日こそ言ってもらえると思ったのに。

「……めんどくさいって、言われちゃった…っ」
「…酷いことを、言う人がいるんですね」
「だから、もうやだっ、て、」
「そんなやつ、こっちから願い下げですよね」
「でも、わたし…、それでもっ」
「…好き、なんですよね」

安室さんは、わたしの頭をポンポンすることも、肩をさすることもない。けれどもったいないほどの優しい声で、ひとつひとつ、わたしの気持ちを汲み取っていく。さすが毛利コゴローの弟子なだけあるな、推理がうまいんだな。推理は関係ないか。逆立つ毛並みをゆっくり丁寧に梳かすように、安室さんが心を落ち着けてくれる。それからもうしばらくして、やっと涙はおさまった。

「あむ、ろさん…ありがとう、ございます…ゲホッ」
「また声が枯れちゃいましたね」
「う…はい…」
「喉が枯れているときは、はちみつたっぷりの白湯がいいですよ」
「白湯…?」
「はい。せっかくなので、なまえさんには僕のスペシャルブレンドをごちそうします」
「え……えっ!?」
「一緒にポアロまで行きましょう」
「どっ、同伴!?」
「え?」

思わず不適切な表現をしてしまったけれど安室さんは何食わぬ顔をしていた。そんな、2人で歩いているところを見られたらなにを言われるか分からないというのに!怖くなって慌てて遠慮したのに、安室さんは楽しそうに笑って受け入れてくれない。それどころか、

「炎上したら、そのカレも悔しがるでしょうね」
「え?」
「こんなに可愛い女の子を逃したことを」

ね、と言いながらウィンクをキメる安室さん。彼は29歳(あーちゃん情報)。泣いてもいいよスイッチと、ときめいてもいいよスイッチを巧みに使いこなす、とあるカフェの店員さんだ。
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