科学の海は広くて深くてどこまでも果てしない。進むうちに何度も失敗と挫折に出会うけれど、それでも一歩一歩、歩み続ければ答えに辿り着くことができる。たとえこの道が間違っていてもやり直せることを知っている。だから、未知に手を伸ばすことなんて少しも怖くなかった。

「千空ちゃん、本当はひとつだけ"復活液"持ってるでしょ」

まるで教師が生徒を優しく諭すような口ぶりで、ゲンはにこやかに言ってきた。返事を返さず短く笑って耳をかくふりをする。通り過ぎようとする俺のあとをそろそろとついてくるので、観念して足を止めた。振り返ると相変わらず食えない笑みのゲンと目が合う。

「なんだ?復活させたい奴でもいんのか?どうしてもってんなら売ってやらねえこともねえぞ」
「待った待った千空ちゃん!なんか勘違いしてるでしょ!俺はそんなの欲しくないってば〜!」

じゃあ一体なにが目的でそんなことを、と思ったが大方予想はついているのでわざわざ口にはしなかった。チラリとわざと視線を自分の後ろにあるテントに向ければ、それに釣られてゲンの視線も同じ場所へ動いた。

クロムの研究室からさらに離れた場所に、自分専用の倉庫として立てたテントがある。大樹と杠を除けば誰も立ち入ったことのないそのテントの存在を、特にゲンのような勘のいい人間達が気にしていないわけがなかった。それでも何も詮索してこないのは、本当にただの倉庫だと信じて気にしていないか、明らかに何かあるという点に気を遣っているかのどちらかだ。ゲンは100億%後者だがその気遣いも昨日が最終期限だったようで、わざわざ俺がテントから出てくるという逃れようのないタイミングで声をかけてきた。本当のことを話すまで諦めてはくれないだろうことは容易に想像がつく。

「別に弱み握ろうとか思ってないよ」
「ほー、そりゃあずいぶんお優しいことだな。さすがメンタリスト、わざわざメンタルケアにでも来てくれたのか?」
「うーん、まあそれも間違いではないかもね。だってさあ、どうしても気になっちゃうんだよ」
「あ"ー?」
「見てらんないんだもん、あのテントから出てくる千空ちゃんの顔」

ゲンの表情はなんとも言い難くて、そうだ、あいつもたまにこんな顔をしていたのを思い出した。薄く微笑むその目はどこか慈愛が滲んでいて、けれど少し悲しみの影が落ちている。しばらく見ているとこっちの胸のほうが痛くなるような。そんな顔で、あいつは俺を見るんだ。

テントの中にはこれまで作ってきた機械の余り部品や薬品、メモの他に、なまえの石像がいる。石像だから正しくは"置いてある"だというのに、大樹や杠がそう言うせいでいつの間にかうつってしまった。

なまえの石像は、あの日一緒にいた教室からは随分遠い場所に行きついてしまったけれどすぐに見つけ出した。それから復活液が完成した時点でなまえ用にひとつとっておいてある。フランソワを復活させる時にもし記者が持っていなければこれを使おうと思っていたがそれには至らなかった。そんなふうにしてこれまでずっと目覚めさせるタイミングを考えて、復活液をバカみたいにご丁寧に保管していたらここまできてしまった。

「大樹か杠になんか言われたか」
「よく分かったねえ。正確には2人ともから」
「ククッ、余計なことしやがって」
「2人の気持ちは分かるよ。まあでも、千空ちゃんの立場なら仕方ないよねえ」
「…」
「奇跡の洞窟もない上、ここまで村が大きくなった今じゃもう個人の好みと判断じゃあ安易に誰かを復活させるなんてできないし」

重いよねえ、責任。と、試すような口ぶりでゲンは言う。メンタルケアに来たのか煽りに来たのか分からないがこれもこいつなりの気遣いみたいなものなのだろう。それに乗ってやるのも悪くはなかったが、ゲン達が予想している理由と俺の感情には少しズレがある。なまえを目覚めさせないのは航海という目的に対して合理的な判断か、という理由だけではない。自分でもコントロールすることのできない感情が、所謂非合理的なそれが、なまえに手を伸ばすことを躊躇わせる。

「…なまえはめんどくせーんだ」
「…………は?」
「運動神経悪くてすぐコケるし、変なもん食うとすぐ腹壊す。ビビリで暗いところは苦手だし、好き嫌い多くて食べるもんも偏ってる。スマホがねーと耐えられねえタチで、手先は不器用で体力もねえ」
「え、えっ?悪口?どうしたの千空ちゃん?」
「つまりだ。このテントの中で横たわってる奴は、死ぬほどこのストーンワールドに向いてねえんだよ」

理屈で考えればなまえを復活させることは100億%非合理的だ。何もできないなまえを蘇らせるのならそれなりの理由がいる。洞窟が無くなった今、復活液はヘタをすれば争いの種にもなりかねない代物なのだ。明白だ。迷う必要なんかひとつもない。なまえのことはまだ蘇らせるべきじゃない。

「ねえ千空ちゃん」
「なんだよ」
「俺にはどうも…それでもそのなまえちゃんを目覚めさせたいって言ってるように聞こえるんだけど」

ゲンのほうは見なかった。暗い空を見上げて、星の遠さを確かめる。

なまえが目覚めた時、一体どんな顔をするだろう。あいつを取り囲む現実から、一体どれだけ守ってやれるのだろうと考える。今までだってこれからだってきっと俺のやり方は変わらない。ひとつひとつ、答えに辿り着くまで進むことをやめはしない。だから失敗することなんて何も怖くなかった。でもなまえは違う。科学のようなルールはないし、間違えれば何かが壊れてしまうかもしれないのだ。それがあいつ自身なのか、俺たちの関係なのかは分からない。いつだってなまえが入り込む出来事は予測がつかなくて、それでも3700年前ならもう少しマシだったのに。初めてだった。なまえとの未来に怖気づいたのは。

このまま文明が安定するまでなまえは石化させておいたほうがいい。あいつのためにも、おそらくそれは、俺のためにも。そんな分かりきった答えを毎日毎日、必死に言い聞かせている。

(本当はな、)

未知の未来に怖気づく情けない自分もストーンワールドに向いてないなまえのことも、全部ひっくるめて背負ったっていいんだ。あの日、届かなかった手に辿り着けるなら。
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