獅子王のことを、「獅子王」って呼ぶのはたぶん女の子のなかだとわたしぐらいしかいなかったように思う。学校に通っていたときも、石の世界で目覚めたときも。みんな獅子王くんとか司くんとか、今となってはだいたい司って呼ばれてる。ただの呼び方で特別もなにもないけど、それでもわたしはなんとなく他の女の子たちよりは獅子王にとってちょっと違う女の子なんじゃないかなと、自惚れていた。



とろける前に言ってごらん




「獅子王、千空が呼んでたよ」
「ああ、うん。今行くよ、ありがとうみょうじ」

テントの入り口から控えめに中を覗き込むと、読んでいた本のようなものをぱたんと閉じて、獅子王はいつものように穏やかに微笑んだ。すれ違いざまに「ちょっと行ってくる」と言ってテントを出て行き、千空のところへと向かっていった。

わたしと獅子王は同じ高校の同級生だった。1年か2年か、忘れたけど昔同じクラスになって、そのときはほとんど話せなかったし、3年のときにはとうとうクラスが離れた。けれどなんの因果か同じ委員会になったので、その集まりで顔を合わせることが増えた。有名人で大人気の獅子王司に興味がないわけではなかったけど、微笑みをたやさないながらもどこか他の人と線を引いているような彼に対して、他のみんなみたいに無邪気に近寄れるほど強いハートを持っていなかった。それなりの距離感で接していたのだけど、幸か不幸かそれが獅子王にとっても都合のよいものだったらしく、気づいたら他のみんなよりも仲良くなれていた、と、思う。たぶん。獅子王くんとか司くんとか呼ぶのはなんとなく気恥ずかしくて、獅子王と呼んでいたら彼もまたわたしをみょうじと気軽に呼んでくれた。

そんなとても普通で健全な同級生のわたしたちが色んな意味でお互い特別な存在になったのは、石化から目覚めてからだ。別に付き合ってるとかそういう色っぽいものではなくて、家族も友達も誰もいない世界での"唯一の同級生"という肩書的な意味だ。ただ、以前まではわたしも獅子王もお互いが唯一無二だったけれど、未来ちゃんが目覚めてからはそれもなくなってしまった。ただの同級生が家族という強固な関係にはとうてい並べない。加えて千空との関係性、科学王国での立場などなど、あっけなくまた獅子王は雲の上の人になってしまった。同級生という細い糸は、それ以上でもそれ以下でもないという壁に感じる。相変わらず遠いところにいる人を見るように、わたしは獅子王を見つめていた。

「はっはー!こんなところにいたのかなまえ!」
「あ、龍水」
「探したぞ。今日のディナーの準備に人手がいるらしくてな。フランソワからのご指名だ」
「えっわたし!?」
「うん?高校で料理部だったんだろう?現代料理だからな。知見のある人材が求められている」
「知見ていうほどじゃないけど…」
「フランソワが見込んでいる」
「フランソワからなんて恐れ多いなあ」
「無駄な謙遜だな。フランソワが目覚める前、なまえが作ってくれた飯は確かにうまかったぞ」

ボーッと過去に想いを馳せていたところにやってきた龍水はまるで太陽みたいだった。軽やかだけど忌憚のない言葉がわたしの不安をふんわり吹き飛ばしてくれた。「また作ってほしいぐらいだ!一般家庭の料理をな!」と、褒めているのかそうでないのかよく分からない龍水の言葉に、複雑だけどまんざらでもない気持ちになる。

「調理中はこの俺が見守ってやる。行こうなまえ」
「え?龍水は手伝わないの?」
「人の畑を荒らす趣味はない!」
「だめだよ、手伝おうよ…」

はっはー!と楽しそうにしながらもしっかりわたしの腰に手を添えてエスコートしてくれる龍水。こういうところが上流階級のお坊ちゃんなのか、ただのプレイボーイなのか判断しかねるけど、龍水にそうされるのはぜんぜん嫌じゃなかった。紳士のエスコートに甘んじてそのまま獅子王のテントから離れようとした時、パキッ、と反対方向から変な音が聞こえたので思わずわたしも龍水も立ち止まる。

「2人で仲良くどこに行くのかな?」

にっこり。そう、にっこりだ。千空のところから戻ってきたらしい獅子王が、まさに仁王立ち(笑顔)してそこにいた。なんとなく変な空気を感じてしまい「えっ、えっと、」とくちごもる。龍水を見るとまったく動じていないようで、なんのアピールなのか「これからディナーの準備をしに行くところだ!」とわたしと肩を組むようにして元気よく宣言した。それほどまでにディナーが楽しみなんだろう。きっと今日は高級食材を使った長いカタカナの名前のメニューを作るんだ。きっとそうだ。メニューを伝えたら獅子王も喜ぶかもしれない。

「すまないが、みょうじには今から俺の手伝いをしてもらうんだ」
「(エッ)」
「フゥン。ディナーより大事か?」
「うん。ディナーより大事だね」
「なんの手伝いだ?」
「…武器に必要な木材の選定をしてもらう」
「(エッ!?)」
「はっはー!それはなまえよりももっと適任がいるはずだな!それこそ村の美女たちに頼んだほうが効率がいいだろう!」
「いいや、みょうじが適任だね。3700年前、俺とみょうじは同じ緑化委員会として1年ものあいだ2人で緑を耕した知識と育んだコンビネーションがある」
「(エーッ!?)」

2人ともただでさえ迫力のある顔だから妙に緊迫感があるのに内容があまりにもだったので、一体どこからツッコんでいいか分からない。しばらく睨み合いが続く。(なぜ?)わたしは龍水に肩を抱かれながらこのビリビリした空気に圧倒されて冷や汗でダラダラになっていた。

「それから」
「む」
「いくら仲が良くても、女性にそう気安く触れるもんじゃあないと思うよ」

目を回しそうになっていると、いつのまにか目の前に来ていた獅子王がやんわりと龍水の手を掴み、わたしから離れさせていた。その一瞬の動きに龍水もびっくりしたようで、何か言いたそうな顔をしているように見えたけど結局「フゥン…」といつものように言うだけでそれ以上言葉は発さなかった。「仕方ない」と、用事が終わったら後から来るように、とだけわたしに伝えてヒラヒラと後ろ姿で手を振りながら去っていった。去り際に「司もただの男だな」とどこか悪戯めいた声色で呟いていたのだけど、たぶん獅子王には言わないほうがいいんだろうと思った。まあこの距離だし獅子王なら聞こえているかもしれないけど、やぶへびになりそうなので触れないでおこう。

まるで嵐が去っていったかのようにしーんとなる残されたわたしと獅子王。いやでも武器に使う木材?を探すんだよね。緑化委員だけど、花とかネギとかニラを植えていただけだからスイカにも手伝ってもらったほうがいいような気もする。ちらり、と背の高い獅子王をうかがうとぱちっと目が合った。にこ、とさっき龍水といたときとはぜんぜん違う、それこそファンの子たちならとろけてしまいそうな優しい顔をされて、また変な汗が、出てきそうになる。

「木材、探しに行く…?」
「うん。行こうか」
「ふたり、で…?誰かほかに、」
「もうだいたい目星はつけてあるから、みょうじは木が弱っていたり傷んだりしていないか確認してくれるかな」
「う、うん…」
「久しぶりの緑化委員会の活動だから気合を入れよう、うん」
「えっ?う、うん。…うん…??」

元々真面目な人ではあるけど、獅子王がそんなに緑化委員会に思い入れがあったなんて意外だ。









森の中へやってきた。昔はこんなにたくさんの緑に囲まれたこともなかったので、もうすっかりこの景色に慣れたとはいえ森の美しさと独特の心地よい静けさはとても好きだ。そんな自然に癒されているわたしだけど、隣を歩く獅子王はそうでもないらしい。口数の多いタイプではないものの、それにしても道中は完全に無言で明らかに様子がおかしかった。獅子王と2人でいると静かな時間になることは珍しくない。でもこんなふうに、居心地の悪さを感じるのは初めてだった。

「…あの、獅子王」
「…うん?」
「なんか、怒ってる?」
「…え?」
「え?」
「俺が?」
「獅子王が」
「…」
「…」

思い切って聞いてみるとびっくりした顔をされた。それからしばらく獅子王は考え込む。

「いや、怒ってはいない。うん」
「じゃあどうしたの?」
「……もしかしたら俺は、コールドスリープしている間にだいぶみょうじに置いていかれたのかもしれない、と思ってね」
「えええ、わたしに?逆だよ絶対、逆!」
「逆?」

きょとんとした顔をされてわたしはちょっと笑った。コールドスリープとはいえそこまで長い間じゃない。確かに、獅子王が起きるのを待っている間は途方もなく長く感じたけど、それでもわたしが感じている獅子王との距離に感じたら大したことじゃないのだ。

わたしが目覚めたのは、司帝国の時代だった。起こされたのは、料理部で料理が上手だと思ったからという理由だった。今考えればプロのトレーナーに囲まれていた獅子王がただの一般人な上に、部活でなんとな〜く料理をしていただけ(しかもお菓子作り多め)の同級生を目覚めさせるなんておかしい。だから氷月くんは最初わたしにちょっと感じが悪かった。

それでも、選んでもらえたのが本当に嬉しかった。調理担当としては一生懸命頑張っていたし主要メンバーみたいな位置だったような気がしなくもない。男子も女子も、わたし以外に同じ学校の人は誰も目覚めていなかった。ただその獅子王に選ばれたという事実が、少しずつわたしの勘違いを助長させたのもまた事実だ。

「だって獅子王は千空と仲直りする前も後も、世界がどんなでも、特別な人になっちゃうし」
「それは、」
「わたしはこの世界でやっと追いつけるかもって思ったのに、結局こんな感じだし。あはは」

重くなりそうな空気を乾いた笑いで誤魔化しても、自分の言葉がチクチク心に刺さる痛みは誤魔化せなかった。自覚していたものの、改めて言葉にすると客観性が増してダメージが大きくなる。それに言い終わってから、こんなにただの普通の人間なのに、獅子王の隣に並びたいと思っている自分に気付いて急に恥ずかしくなった。

わたしはただの同級生で、獅子王からしたら同じ学校に通っているうちの1人ってだけで、同じ緑化委員会で一緒にパンジーを育ててただけで、たまたま料理作れそうな奴ってだけで、それを偶然思い出してもらえたから復活できただけで、こうしてどんどん人が増えて文明が進んでいくたびに、獅子王とわたしの距離は元の遠いところに戻っていく。もしかしたら、そもそも最初からそんなに近い距離にはいなかったかもしれない。

「これから文明が戻ってもしまたおんなじ高校に通えたら、また緑化委員会で仲良くしてね。なーんて、」

言葉を全部言い切る前に、いつの間にか少し後ろを歩いていた獅子王に腕を掴まれた。

「し、しおう、どうしたの…?」
「分からないけど、いや、うん…なんだか腹が立って」
「えっ!?ご、ごめんわたしなんか変なこと言った…?」
「…言ったと思う」

腕を握っている手に少し力が込められる。痛くはない、ただ触れたところがじんわり熱くて、でもそれがどちらの体温のせいなのかはわからない。真っ直ぐわたしを見る獅子王の瞳が少しだけ揺れていて、腹が立っているというよりも悲しそうな顔だった。それがなぜなのかは検討も付かない。ただ掴まれた腕にばかり神経が集中して、うまく思考が働かない。

「どうして俺を遠ざけるようなことを言うのかなと思ってね」
「遠ざけてるわけでは、なくて、」
「みょうじは俺から、離れていこうとしてる?」

まるで捨てられた子犬のような心細い瞳をして、長い睫毛を揺らして、掠れた声を出されたら切なくなってしまう。なんでそんな顔をするの。ずっとこの顔を見つめていたらまた勘違いしてしまう。遠ざけようとしているわけがない。離れていくどころか、元々近くにいれたなんて思っていなかった。わたしはこんなにも獅子王に近づきたくて、でもそれが叶わなくて胸が痛い夜ばかり過ごしているのに。どうしてそんな。

「ちがうよ…わたしはむしろ、もっと獅子王に、」
「俺に?」
「っ、」
「ちゃんと言ってほしい、みょうじ」

掴まれた腕から、もう一歩だけ引き寄せられる。見上げた獅子王はさっきとは違う、男の人みたいな顔で真っ直ぐにこちらを見ている。それなのに聞き返してくる声は聞いたことないくらい甘く響いて、緊張して言葉が詰まる。まるで尋問されているみたいなのに、本当は言うつもりなんてなかったのに、秘めていた気持ちを言いそうになってしまう。

迷って沈黙していたけれど逃してもらうどころかさらにぐいっと引き寄せられて、もうほとんど抱きしめられているかのような至近距離で獅子王と見つめ合う。掴まれている腕はすっかり熱くて火傷しそうで、かすかに触れている体のいくつかの場所も熱を帯び初めていた。ああ、ダメだ。軟弱なわたしじゃあ、この熱に耐えられない。

「もっと獅子王に、近づきたいし、見て、ほしい…」

自分でもちゃんと声が出ているのか分からなくなるくらいか細い声だったはずだ。文字通り絞り出したその声が届いているかを確認するのは恥ずかしすぎて、言う前から顔を俯けた。

「…うん。よく分かったよ」

ふいに柔らかくなった声色におそるおそる顔をあげる。ほとんど真下にいるわたしを見下ろしている獅子王とすぐに目が合ったけれど、その顔はさっきまでとは全然違う、満足に満ちた優しい…笑顔と言うよりも、心なしかニヤついているようにさえ見える恍惚とした顔だった。

「なっ、えっ、なに!?」
「なにって?」
「なんか獅子王、ニヤニヤしてない!?か、からかったの…!?」
「からかってはないよ、うん」
「うそ!なんか変、笑顔がすごい、やらしい!」
「え?やらしいは心外だな…」

してやられた気分!我に返ったわたしは一連の流れが一気に脳内でリピートされてしまい、死ぬほど恥ずかしくなって顔が熱くなった。漫画ならボッ!と湯気が出ていてもおかしくないくらいだ。

1人だけご満悦そうに微笑んでいる獅子王はいつの間にかわたしの腰に両腕を回して、抱きしめられてこそいないものの、その広い胸の中にすっぽりと収められて逃げ出せない状態になっていた。こんなのは恥ずかしすぎるので必死に逃げようともがいてみたけど、ただの料理部員且つ緑化委員会のわたしが霊長類最強の高校生の腕の中から逃げ出せるはずもなく。少しでも距離を取るためにに精一杯上半身をそらして獅子王から距離をとった。

「い、いくら仲がよくても気安く女性に触れたらいけないんじゃなかったの…!」
「うん。でも、近づきたいって言ったのはみょうじだよ」
「ずっ!!!」

ずるい!大声でそう叫ぼうとしたら、わたしの野太い声とは裏腹にちゅっ、と可愛い音が響いた。

「今日はこれくらいで戻ろうか」

リップ音がしたのはわたしのおでこからだった。あと少し動いたらお互いの鼻がつきそうなくらいの距離で獅子王は微笑んで、腰に回していた手を呆気なく離した。わたしはというと、キスされたおでこを片手でおさえて放心状態だ。なにが、一体なにが、今、起きた…?

「ああ、あと。お近づきの印に俺からひとつ提案があるんだけど」
「な…ななな…ななななな……」
「俺もみょうじを名前で呼びたい」

いいかな?と小首をかしげながら言われたら、うんと頷くしかできない。「俺の名前も呼んでくれると嬉しい」と返されたので、これもまた、うんと頷くしかできなかった。

獅子王はその崇高な瞳をやわらく細めてわたしを満足げに見つめてからゆっくりと来た道を戻り始めた。木材を取りに行くとあれだけ盛大に言ったのに手ぶらで帰ったら絶対に変に思われる。龍水にそこをいじられたら誤魔化せる自信がない。

「なまえ、行こう」

ついてこないわたしを振り返った獅子王は、眩しいくらい優しく微笑んでいた。熱くなるおでこをおさえたままやっとの思いで後を追いかける。少し緊張したけど、もう隣に立っても許されるような気がしてちゃんと並んで歩いた。心のなかで「司」と呟いてみたら、やけにドキドキした。
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