別に、いつまでもずっと一緒にいるわけはないと思っていた。そのうえあの頃のわたし達はどう考えても子供で、上手なさよならの仕方なんて知るわけもなくて。これから出会うたくさんの未来の出来事に2人の過去が埋もれないようにと、思い出を作ることぐらいしかできなかった。

「東京?」
「おう。なんか急に決まっちゃって」

タハハ、と困ったように笑う顔を見て、ため息をつく。そのうちこういうやりとりも懐かしく思う日が来るのかな。

「ふーん。そっかあ。じゃあさ、」
「うん?どした?」







「なんか、ドキドキするね」
「…俺もしかしてヤバいことしてない?」
「悠仁がヤバいならわたしもヤバくなっちゃうじゃん」
「いやこれは、たぶん、ヤバいとおもう…お、俺が…」
「なにが?えっ、どうしたの?」
「いや……」
「悠仁?」
「タンマ!一旦こっち見ないで…!」
「なになに?」

 悠仁の家には、今はもう悠仁以外誰もいない。ちょっと絡みづらかったけどなんやかんやわたしを受け入れてくれていた悠仁のおじいちゃんは少し前に亡くなってしまった。
 それからの夜を、彼がどんな風に過ごしていたのかは知らない。悠仁はそういうこと、わたしにはなにも言わないから。けれど、お葬式がすべて終わったある日、珍しく一緒に帰ろうと言われたその道中で、少し泣きそうな顔をしながらおじいちゃんとの昔話をしてくれた悠仁の横顔から察するに、彼なりのやり方で乗り越えようとしていたんだろう。
 泣けないのか頑張って我慢してるのか分からなくて、放っておいたら消えちゃいそうな悠仁の手をできるだけつよく握りしめたら「ありがとな」と言われた。夕陽をうけてきらきら揺れていた瞳がとても綺麗だったことを今でもはっきりと覚えている。

 冷えきっていたあの時の手と違って、今つないでいる悠仁の手はあったかい。あったかいを通り越してちょっと汗ばんでいる、気がする。
 明日か明後日か、すぐにでも東京へ行ってしまうという悠仁と少しでも一緒にいたくて、今日は一緒に眠ろうと誘ったのはわたしだった。
 初めて使う虎杖家の布団に違和感を抱きながらも、すぐ近くで悠仁の体温を感じられるだけで、安心を通り越してびっくりするくらいしっくりきていた。2人分の布団の上で、わたし達は大真面目に天井を見て、ただ手をつないで、時折となりの横顔を盗み見てはお互いの存在に安心する。
 眠いせいなのか、このままふわふわと浮かび上がってしまいそうな不思議な感覚のなかで、2人のほかには誰もいない夜にとけこんでいた。

「悠仁。手、汗かいてる?」
「エッ!あー、かいてるかも…ごめん」
「ううん大丈夫。ねえ、もしかして緊張してるの?」
「は、してねーし!全然してねーし!」
「なんだあ。わたしはしてるよ。お母さんとお父さんに怪しまれてないかな、とか」
「……………」
「あ、バレても悠仁は悪くないから気にしないでね」
「いやでも多分俺が悪いことになりそうな気がする」
「え?なんで?」
「だってそういうもんじゃん………別にいいんだけど……」
「…さっきから悠仁、変だよ」
「へぁっ!?(変にもなっちゃうでしょうが!?)」
「あは、変な顔〜」
「(ッだぁ〜〜〜!!!)」

 悠仁の様子がおかしくて、わたしはこらえきれずに笑ってしまった。何かを訴えたそうな顔でこっちを見ているのが分かる。それでもずっと手を離さずにいてくれる悠仁に安心してしっかりと握り直すと、それに応えるように強く握り返してくれた。
 なのにわたしにはまだ足りなくて、重なった悠仁の指を自分の指で確かめるようにすりすりとさする。大きくてあたたかい指が心地いい。
 ひとつひとつ、ゆっくり、しっかり、覚えておこう。どうせ誰も、この気持ちもこの時間も、どこにもしまっておいてはくれないから。

「……」
「……なあ」
「……」
「なまえ?」
「……」
「……もう寝た?」
「……」
「…え、寝れんの…?このシチュエーションで……?」
「悠仁は眠れないの?」
「ウワッ!起きてた!」
「起きてるでしょ。もったいないもん、悠仁と一緒にいるのに」

 ね?と綻ぶままの顔で横を見たら、同じようにこっちを見ていた悠仁と目が合った。いつもとは違う近距離に、一瞬、息がとまりそうになる。
 微かな灯りをうけて、いつかの日のように光る悠仁の目。しばらく見つめていると、つん、と鼻の奥が痛くなった。

(悠仁、あのね、)

 わたし、きみの顔を見ているとどうしてか時々泣きたくなるよ。嬉しくなったり安心したり、こんなにそばにいるのに無性に寂しくなってどうしようもなくなってしまう。悠仁がくれる時間が優しくて、心がいつも失うことを恐れている。きみがわたしを忘れることと同じぐらい、わたしがきみを忘れてしまうことが怖い。

「…泣いてる?」
「ううん、泣いてないよ。だいじょうぶ」

 笑って誤魔化しながら、天井に視線を戻した。星空でもなんでもない薄暗さのおかげで、きっとわたしの顔はよく見えていないはずだ。

「なまえ」
「なあに?」
「もっとそっち行っていい?」

 布団がずれる音がして、悠仁が上半身だけ起き上がったのが分かった。わたしを見下ろす目と視線が交わって、急に心臓が早くなる。ついさっきまでこのまま眠れそうなくらい夜のまどろみに沈みかけていたのに、一気に引き上げられてしまった。
 見慣れない薄暗い天井が悠仁の影に遮られる。そのままわたしの体を包むようにふんわりと落ちてきた体温のせいで、静かなはずのふたりぼっちの夜が鮮明になった。

「そんな、一生の別れみたいな顔すんなよ」
「…っだって、」
「大丈夫だよ、会えるよ。新幹線乗れば」
「悠仁、電車代あるの?」
「ん?」
「ちゃんとバイトする?」
「えっ、俺だけ…?」
「やなの…?」
「いやする!するって!」
「ぜったいだよ、」
「するよ」
「うん、」
「…だから泣くなよ、なまえ」
「ゆう、じ、」

 ぎゅうぎゅうとわたしを締め付ける腕は、多分上手な抱きしめ方を知らない。それでもこのまま離してくれなくていいと思った。悠仁の気持ちがそのまま伝わってくるような気がして心地よかった。自分の手を回した背中は思っていたよりも広くてどこを掴んだらいいか分からなかったので、とにかく離れないためにしがみつくように力を込める。
 しばらくしてから、いつのまにかこぼれていた涙を悠仁が拭ってくれた。

「俺、なんのバイトが似合うと思う?」
「…コンビニ」
「マジ!?」
「わかんない…。他になにかあるかな?」
「パチンコの店員?」
「えぇ…やだあ…」

 いつものおふざけをして、わたし達は笑った。ふたりぼっちの布団の中は、毎日が霞んでしまうくらい特別に楽しくて幸せで、このまま永遠になるような気さえした。
 悠仁の手がわたしの頬を優しく包んだので、擦り寄りながらその手に自分の手を重ねる。いつもより、今までより、ずっとずっと近いところに悠仁がいる。わたしはもうそれだけで、これだけがあれば、何もいらないのに。
 わたしはあとどれくらいのあいだ、悠仁の大きな手を、優しい声を、世界のすべてのようなこの気持ちを、覚えていられるんだろう。

「悠仁の手、あついね」
「…」
「どうしたの?」
「おじさんおばさん、ごめんなさい」
「えっ、懺悔…?」

 伸びてくる悠仁の手が優しくわたしを撫でる。ゆっくり目を閉じて、夜に身を任せた。

 嬉しいのも切ないのも、抱えきれないほど愛おしかった。それはわたし達が子供だからではなくて、おそらく大人になっても同じような重さで胸の中に生まれてしまうものなんだと、気づき始めていた。
 それでもどうか、過去にも未来にも埋もれることなく、ずっとこの幸せな恋を覚えていられますように。できるなら失くさずに、いられますように。
..