司くんが眠りについてからの日々はおどろくほど平和だった。どこか緊張感のあった毎日はすっかり穏やかになって、わたしはまんまとパン作りにハマってしまっている。美味しく焼けたパンを見ながら、でも司くんは食事制限厳しかったからあんまりパンは食べてなかったなあなんて、結局ずっと司くんのことばかり考えていた。



「こんなところにいたのか」

夕焼けを吸い込もうとしている海を眺めていた。この時間は昼間の作業の片付けや夕食の準備でみんな忙しくしていてほとんど人が来ない。誰もいない砂浜は、3700年前に司くんと歩いたときと変わらず時間がとまったみたいに静かだった。

いつもより静かな声音の龍水がゆっくり近づいてきて、当たり前のように隣に並ぶ。少し前までそこには司くんがいたような気がしたけれど、鮮烈な眩しさを纏う龍水にすっかり上書きされてしまったような感覚に陥る。みんなと何かを話すときは快活に声を響かせている龍水が、こんなふうに優しく声を出すのはわたしだけだということに最近やっと気がついた。たぶん、司くんとわたしのことを千空くんか誰かから聞いて気を遣ってくれているんだろう。”美女”もとい女性にすべからく愛のある彼らしい立ち振る舞いだと思った。

いつもかぶっている海賊のような帽子を脱いでいる龍水は、見たことがないけれど3700年前の彼の姿そのままのような気がして緊張する。こんなことにならなければ絶対に出会うことなんてなかったようなひとが目の前にいるのは、冷静に考えると違和感が大きい。本当に不思議なことがあるものだとおかしくなって少し笑っていると、何のことかと戸惑った表情を見せたもののすぐに龍水も薄く笑った。

「夜の海は冷えるぞ。そんな薄着じゃ風邪を引く」
「だいじょうぶ。風邪ひいても薬があるからね」

心配してとめてくれた言葉を受け止めず、ざり、ざり、と砂浜をゆっくり歩く。そのあとを龍水がついてくる。まるでわたしがどこにも行かないように見張っているみたいでそれもまたおかしかった。

司くんが眠りについてから、時々ひとりこうして海に来る。彼の面影が残るものが今の時代にはもうここしかないのだ。眠らせた当人の千空くんはとっくに前を向いてそれこそ司くんのために少しでも早く科学の歩みを進めようとしているのに、わたしはいつまで経っても思い出に縋ってこんなところをうろうろしている。千空くんだって決して簡単に乗り越えたわけではないというのに、このままぼんやり漂ってどこかへ行けてしまえたらいいのにと考えたこともある。もしかしたら今もそう思っているかもしれない。

科学を信じていないわけではない。それでも自分がなにもできないせいで、ただ待っているだけのこの時間はあまりにもわたしに冷たかった。大きな手を、包んでくれるあの胸のなかを、最近はうまく思い出せないのだ。

少しずつ村のほうから離れていく。夕焼けはとっくに水平線に沈んでしまい、近くに道路も建物もないこの世界はあっという間に夜に包まれてしまった。それでも大昔よりずっと星が近いこの島は、宇宙からのほどこしをうけてやんわりあたりを照らしている。

「なまえ、あまり遠くへ行くな。そろそろ戻らねば皆に心配されるぞ」
「うん」
「それに今日のディナーは牡丹肉だ。取り合いになるぞこれは」
「うん。…龍水は、先に戻ってていいよ」
「なまえ」
「わたしはもう少し、散歩していくね」

そう言葉を返して歩き続けようとしたところで後ろからパシッと腕を掴まれた。そのまま少しだけ引っ張られてなしくずし的に龍水のほうを振り向く。月明かりがあるとはいえはっきりとそっちの表情は分からなかった。戸惑いがちに龍水、と呼んでみてもすぐに返事はなく、ただ腕を掴んでいる手に力が込められるだけだった。

もしかしたら本当にわたしがどこかへ行くと思われたのかもしれない。そんなことができたらとっくにそうしているので心配はいらないというのに、龍水に本音を話したことはなかったから誤解されるのも当然だった。強く握る手の上に自分の手を重ねて、「ちゃんと戻るよ」といつもの調子で言うとするりと手を離される。名残り惜しげに熱の残る腕は、潮風にさらされてすぐに冷たくなってしまった。

「ダメだ。俺と一緒に戻れ、なまえ」

まるで星々さえ惹き込むように、夜の微かな明かりたちが龍水の瞳を照らした。暗闇のなかですら太陽のように強い光を放つ龍水の目は、わたしを捉えて離さない。夜の海のように鈍く静かに光る司くんの瞳とは正反対だというのに、どこか似通うものを感じさせるのは、どちらの瞳にも炎に似た熱っぽさを奥に秘めているからだと思った。わたしはそういう目が苦手だった。心のなかを見透かされているような気もするし、見透かされていいとさえ思ってしまうから。

離れていたはずの龍水の手が、今度はわたしの手のひらに重なる。石化のヒビが残る指先をそっと絡められて、簡単には突き放せなくなる。今更逃げようと後ずさってみても意味はないことは分かっていた。

龍水がまるで願うような声で「なまえ」と呼ぶ。低く強い声に心臓が反応する。そんなふうにわたしを呼ばないでほしかった。また司くんのかけらが薄くなってしまうから。

「これで逃げられないだろう」
「ていうか恥ずかしいからその、手、離してほしい…」
「断る。離したら逃げるだろう」
「そんな、逃げたりしないよ」
「司のところへ」

龍水が司くんのことを口にするのは初めてだった。ほとんど入れ替わるようにして眠り、蘇った2人だからまるで見知った間柄のように名前を呼んでいるのを聞くと少し心がざわついた。

驚いてなにも言えなくなっているわたしを見て、さっきまでゆらりと光っていた瞳が和らぐ。どこか切なげに眉を下げながら、それでも優しく微笑む龍水がしっかりと見えてしまった。繋がれた手をやんわり握り直される。普段はなにをするにもあんなに豪快なのに、いざ女の子に触れるときは優しいんだなあと思った。近くにあるはずのさざなみの音が遠く感じる。手の甲をするりするりと親指で撫でられて、そこからじんわりあたたかくなっていくような気がした。

返す言葉がなにも思い浮かばなくて、重なり合う手をそのままに黙っていた。これ以上龍水を見ないように苦し紛れに俯く。当たり前なのだけど、足元にはただ砂浜が広がるだけで、返事の参考になりそうな情報はひとつもなかった。

「戻るぞ、なまえ」

だんまりを決め込んでいるわたしが、観念したと思ったのか龍水はゆっくり歩き出す。戻るとそう言ってわたしの名前を呼んだ声は穏やかで、思いのほか心のなかをあたたかくした。ゆっくり進むなかで何度か強く手を握り直されたけれど、わたしは同じ強さで龍水の手を握ることはできなかった。

前を歩く風に揺られる金色の髪は綺麗だ。きっと元の世界のままだったらこんなに近くで見ることなんてできなかっただろう。強引に思えてまるでこちらが壊れないか探るように触れるひとだなんて、知りもしなかっただろう。背の高い龍水の後ろ姿は、どこか、少しだけ、似ている。

「…なまえ?」

気づいたらわたしは龍水の手を離していた。急になくなったぬくもりに驚いたのか、龍水はすぐにこちらを振り返り大きく目を見開いている。ぱたぱた、と何度か瞬きを繰り返し、まるで離された手の意味を見出してしまったかのようで、その瞳には驚きだけではないなにかが宿っていた。

「寒く、なってきちゃった。早く戻ろ、龍水」

返事を待つことなく、わたしはすぐに龍水を追い抜いて村のほうへと急いだ。背後で小さく「ああ」という返事とともに足音が聞こえた。

何事もなかったかのように村へ辿り着く。それまでのあいだ、わたしたちは言葉を交わさなかった。なんだかなにも言ってはいけないような気がして、なかなか後ろを振り向けないでいた。

ようやく村に戻ったときにやっと龍水を見たら、いとも簡単に目が合った。ばち、と音が聞こえそうなくらい、強く見つめられたような気がする。わたしたちを見つけたスイカちゃんに呼ばれて龍水は颯爽と返事を返し先にみんなところへ戻っていった。

そのすれ違いざまに一瞬だけ、わたしを捉える鋭い目と触れた小指に、やけに、胸が揺さぶられた。



(王)
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