「めんどくせえことになんねえといいがな」

司くんが目覚めてすぐに、千空くんが呟いた。こっちのほうを見ながら言うのでわたし絡みのなにかかと思ったけれど心当たりがなさすぎて気にもとめていなかった。わたしはただ、やっと戻ってきてくれた司くんの手を離さないように強く強く、握りしめていた。



「未来ちゃんは?」
「うん、眠ったよ」

村の近くの浜辺に座って音のない海を見つめていた。目覚めてからの一通りの感動のご対面と現況の把握のために忙しかった司くんはやっとすべてが終わったらしい。最初からわたしがどこにいるのか分かっていたかのように見つけられて、隣に座る。船造りのためにあまった木材をちょうどベンチにして並んでいると、まるで昔に戻ったみたいだった。横を見ると夜の風になびく司くんの長い髪が見える。

しばらく見つめ合ってからどちらがなにを言うでもなくわたし達は海に視線を戻した。さざなみに耳をすませているだけで、すべてを取り戻したような気になる。体の横に置いていた手にあたたかさを感じると、そこには司くんの大きな手が重なるようにして置かれていた。あたたかさが懐かしくて、こうして触れているのに恋しくて、胸の奥が痛くなる。

重なった手に応えるように手のひらを返して握りしめた。さっきだって十分につないでいたはずなのに、海辺の肌寒さがそうさせたのか、わたしたちはきっと確かな熱を求めていた。

繋がれていない片方の手がわたしの頬にそっと触れる。もう逃げることのできない距離に司くんがいる。そんなに見つめられると恥ずかしい、と昔から伝えているのに司くんは決してやめようとしない。他にいくらでも目を引くひとがいるのにいつだって真っ直ぐ、余所見もせずにわたしだけをその瞳に写してくれている。眼差しは泣きそうなほどに優しくて、名前を呼ぶ声は甘くて、司くんが隣にいるだけでとろけてしまいそうだ。

「なまえ、俺がいないあいだ、泣いてはいなかった?」
「泣いてないよ。でもね、ちょっとさびしかった」

情けないよね、と自嘲して笑おうとする前に司くんの顔が近づいてわたしの口をふさいだ。頬に添えられた手にかすかに引き寄せられて、油断して開いたままの口のなかに熱くてやわらかい舌が入ってくる。びっくりしてつないだままの手を強く握ったらそれ以上の力でしっかりと握り直された。

呼吸をしようとして少しだけ顔が離れる。間近で満足げに歪む顔を見て、わたしはしてやられた気持ちになった。やめてよ、とも、びっくりした、とも言えず、けれど恥ずかしくてそのままいるのはいたたまれなくなって、顔を隠すように司くんの胸に擦り寄る。司くんは小さく笑いながらそのままわたしの頭を優しく撫でてくれた。

「ちょっとか。少しショックかな」
「それは言葉のあやというか…」
「まあここは賑やかだからね、うん」

照れが落ち着いていつの間にかすっぽり抱きしめられた腕のなかから司くんを見上げると、本当に、昔となにも変わらない彼がいた。あたたかい体温が、動く心臓が、司くんの存在を知らしめてくれる。それがこんなにわたしを安心させることに、彼は気付いているのだろうか。心臓の音を聞き逃さないようにそっと左胸に耳をあてた。冷たい海の風はもう感じない。司くんに守られているみたいで、このまま眠りにつけそうだった。

「ここは村から近いから、誰かに見られた恥ずかしいよ」
「こんな時間だ。きっと誰も起きていないよ」
「そうかなあ」
「それとも、ちゃんと人目につかないところへ行こうか」
「司くん…。あ、でもあっちのほうまで行くと本当に誰もいないの」
「…暗くて危ないな。俺がいないあいだ、散歩でもしていた?」
「たまにね。龍水と一緒のときは少し遠くまで歩いてた」
「龍水?」

司くんがぴくりと反応する。一体誰のことか頭のなかで答え合わせをしているみたいだった。少ししてからようやく顔と名前が一致したようで、「ああ、彼か」と納得していた。それから司くんはわたしを神妙な面持ちでじっと見つめながら、ふむ、とひとり思案に入る。一体なにを考えているのか、なんの心当たりもないほど、わたしは鈍感ではなかった。

降りてきた沈黙が少しだけ居心地が悪い。なにも言わない司くんに不安を覚えて、誤魔化すように広い背中へ腕を回す。力を込めるとそれに気づいた司くんがそっとわたしを抱きしめ返すのがわかった。まるで壊れないように、あんまり優しく触れるから、もっと痛いぐらいでもいいのにと思ったけれど、言えなかった。司くんがわたしに触れるとき、いつも撫でるようなやわらかさでしか触れないのをよく分かっている。

そういえば龍水もそうだった。その目はいつも爛々と輝いて世界のすべてを喰らいそうな顔をしているのに、どうしてかふたりで話すときは少し困ったような顔をして、不用意には触れてこない。そういうことをしそうなのに、龍水はいつも想像よりずっと優しかった。わたしが笑うと安心したように龍水も笑うから、この人の前では寂しいそぶりを見せてはいけないと思っていた。こうして司くんの腕のなかにいるのに他のひとのことを思い出したのなんて初めてだ。かき消すように、わたしはさらに腕に力を込める。

「龍水は、司くんがいないあいだのわたしを心配してくれてたの」
「うん」
「あんな感じだけど優しいんだよ。毎日落ち込んでふわふわしてたから、放っておけなかっただけだと思う」
「うん、そうだね」
「司くんが心配するようなこと、なんにもないよ」

それでも司くんは、うん、とは言わなかった。まるでそのなかに閉じ込めるように力を込めてぎゅうぎゅうと抱きしめられる。少しの隙間もないように触れ合う体が心地良くてわたしはそのまま目を閉じた。

広い背中と、あたたかい手は、龍水も持っている。わたしはちゃんと触れたことはないけど、きっと今までたくさんの女の子たちが龍水のぬくもりに触れてきたんだろう。鮮烈な輝きに目を奪われる気持ちはなんとなく想像ができた。けれどわたしは、司くんの危ういまでの強さに身を委ねると決めたのだ。ここがいちばん幸せなことを、誰でもない司くんが教えてくれたから。

「なまえ。俺を見て」

見てるよ。ずっと。わたしには司くんだけ。そう想いを乗せてしっかりと見つめる。澄んだ彼の目にたしかにわたしが映っているのが見えた。それだけで十分なほど、司くんからの気持ちを感じられる。親指がわたしのくちびるをたどるように撫でる。その少しの動作すら好きで、このままどうにでもしてほしいと思った。

「ずっと、俺を見ていて」

うん、と誓いに似たような返事をする前にそれは司くんに飲み込まれた。慈しむような優しいキスがわたしをどこまでも溶かそうとしてくる。なまぬるい舌が入ってくるのが気持ちよくてされるがままになりながら、司くんの背中に縋りつく。このまま息もできなくなっていい。それぐらいにわたしの心も体も司くんでいっぱいにしてくれたらきっともう余計なことを考えないでいられる。時折漏れる吐息に混じってわたしを呼ぶ声がして、その度に心臓が強く跳ねた。司くんがくれるものはなにもかもが甘くて、目眩がする。

食み合うようなキスのなかでうっすら目を開けると当たり前に目の前には司くんがいる。でもどうしてか目が合わなくて、じっとどこかを睨みつけるようにしているのがぼんやり見えた。つられてそっちに視線を移そうとも思ったけれど、ちょうど司くんの両手に顔を包まれてどこにもいけなくなった。触れる手つきはいつものように優しかったけれど、いっそう深く、まるで暴くような終わらないキスに溺れそうでだんだんなにも考えられなくなっていく。

とろけそうな意識の中でもう一度見つめた司くんの目の奥にはやっぱり炎のような熱があって、わたしはその時、どうしてか龍水のことを思い出した。



(獣)
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