好きです、と湖畔のように澄んだ目をして炭次郎が言った。ここは冨岡くんの稽古場なのだけど、今はなぜかわたしと炭次郎しかいない。突然の出来事に呆気にとられて固まっていると、炭次郎はその目をそらさないままなにかを乞うようにわたしの名だけを呼んだ。

少し前の任務で怪我をしたわたしは鬼殺隊を辞めることした。本当はこの身がなくなるまで戦おうと思っていたけれど、家族を失い、ひとり家で待つ父に「なまえまでいなくならないでくれ」と泣かれてしまい、それに抗うことはできなかった。

実はそんな話は前々からしていて、ここ最近でやっと辞める日程が整ったのだ。わたしは水の呼吸の剣士だったので同じ門下でよく特訓をしてもらった冨岡くんに挨拶に来たはずなのに出迎えてくれたのは炭次郎だった。そんななか他愛のないことのように別れの挨拶をして、さて冨岡くんを待とうと思ったところで「好きです」と言われてしまったのだ。
色々思うことはあるけれどそれはそれとして、冨岡くんは一体どこにいるんだろう。

「…あの、ありがとう炭次郎。気持ちはとっても嬉しいよ、でも」
「もう会えなくなってしまうなんて、悲しすぎます」
「うん、そうだね。わたしも炭次郎に会えなくなるのは寂しいよ。でも」
「俺、会いに行きます。遠くても、きっと会いに行きます!」
「ありがとう。父と待ってるね。でも」
「お義父さんの好きな食べ物をお土産に持っていきます!」

ウソでしょ?もしかして、“でも“のその先を封じようとしてる?切なげな表情に反して、予想より頑なな一面を覗かせる炭次郎に対し、なにかを察知したわたしの本能がたらりと一筋冷や汗を流す。
冨岡くんと比べればずっと近い視線、けれど少しだけわたしより高い位置にある炭次郎の顔を見つめる。下がった眉でこちらの言葉を待つ様子に心のはしっこをつままれたような気持ちになり、頬に手を伸ばしそうになるのをやっと堪えた。

「炭次郎」
「…」
「わたしは少し年上だし、剣士として傷だらけの身だし、炭次郎の恋仲にはふさわしくないと思う」
「どうしてそんなことを言うんですか」
「炭次郎は強くて優しいから、時々忘れそうになってしまうけど、まだずっと子供なんだよ。だからこれから先、」
「でも俺、長男です……」
「……うん?」
「長男なので…心配ないと思います…」
「ちょう、なん……?」
「はい」
「(長男だからなに…!?なんなの…!?)」

びっくり戸惑っているあいだに、ゆらゆらと揺れていた彼の目が迷いを無くしたようにわたしを射抜いた。炭次郎が一歩、ずずいっと近づいてきたのでわたしはそれに合わせるように一歩あとずさる。近くで見れば見るほどその瞳は澄んでいた。その奥に少しだけ見慣れない熱を感じて、心の奥のどこからかこの長男からは逃げられないかもしれないという小さい声が聞こえてくる。
まだ保っているわたしの頑なな部分が必死に別のことを考える。そう、そうだ。冨岡くん、冨岡くん。本当にどこに行ったんだ。この時間に来るって鴉をちゃんと飛ばしたのに。

「なまえさん」

また炭次郎に名前を呼ばれる。心臓が揺れるほど優しい声が、わたしを惹き寄せる。

「俺を見てください」

わたしの両手を下から掬い上げるように、炭次郎の両手が指先を握る。傷だらけで少しだけがさがさとしたその手はあたたかくて、思ったよりも大きいと思った。
彼の親指がわたしの指から手の甲をすりすりとかすかに撫でている。それはまるで少しずつ心の壁を削っていくようで、真に触れられてしまいそうな気になって、どんどん鼓動が早くなっていった。

「なまえさんのことが好きなんです」
「だからわたしは、」
「本当に俺のこと、子供だと思っていますか」

そう言って小首を傾げるから、髪飾りがからんと綺麗に鳴った。両手を握られたままくいっと軽く引き寄せられて、炭次郎はもう目の前だ。きっともう逃げられない。
降参しそうな心を必死に押し殺していたからきっとわたしは変な顔をしたんだろう。さっきまで真剣な顔だった炭次郎がどこか満足そうに笑った。



(降伏に手招き)
..