花に水をやるような感覚だった。水をあげて、綺麗だねと声をかけているうちに芽吹く美しいものが恋だと思っていた。けれど開いたつぼみは思っていたよりずっと眩しくて、思わず顔を覆って目を背けた。そうしていつの間にか水をやることをやめてしまったから、花のことなんてすっかり忘れていた。
 花が枯れるのと同じように、心だって消えてなくなってしまうと思ったから。



「なまえさん!」

 彼と同じようにわたしを呼ぶ声にゆっくり反応する。顔を上げると虎杖くんが軽い足取りでこちらへやってくるところだった。食べていたお弁当のおかずの卵焼きを飲み込んでから挨拶をすると、虎杖くんは当たり前にとなりに腰掛ける。高専の中庭の一角に気まぐれのように置かれた木製ベンチからは、かすかに軋む音が聞こえた。
 目の前に広がっている中庭には風が流れていて、耳をすませると木の葉の揺れ重なる音が聞こえてくる。ここはたくさんの雑音から遠い場所だった。いつの間にか足を運ぶようになっていたここでお昼ご飯を食べるのがわたしの習慣だった。時折となりに誰かがやってくることがあるのだけど、ここ最近はずっと虎杖くんがいる。
 虎杖くんは両手に抱えていた3、4個ぐらいのおにぎりと2つの惣菜パン、それからペットボトルのお茶を一気にベンチに広げる。おにぎりのひとつが転がってわたしのふとももに当たって、とまった。

「袋に入れて貰えばよかったのに」
「これくらいならいけるかなって思って」
「食べ物たくさん持ってこっちにくる虎杖くん面白かったよ」
「え、別にウケ狙ったわけじゃねーッス…」
「なんかね、ワンちゃんみたいだった」
「ワンちゃん?そんなかわいいもんじゃないでしょ俺」
「そうかな?言われない?野薔薇ちゃんとかに」
「言われない。それならなまえさんのほうがワンちゃんぽい」
「なにそれえ」

 その言葉に笑っていると、虎杖くんはおにぎりをひとつ手に取った。器用に包みを剥がしてから海苔を巻いて、大きな口を開く。ぱくっというよりばくっという食べ方なので、ひとくちで半分くらいなくなってしまう。そのままおにぎりはばくばくっと食べ進められて、あっという間になくなった。相変わらず食べるのが早い。男の子ってみんなこうなんだろうか。少なくとも彼は、もう少しゆっくり、それこそわたしと同じくらいのペースでもぐもぐと食べていたような気がする。
 半ば感心するように眺めているともう次のおにぎりに手を伸ばしている。だんだんおにぎりが小さく見えてくるけどそんなことはないはず。またふたくち、さんくちくらいでおにぎりはなくなってしまった。

「なまえさん、弁当食べないの?」
「虎杖くん見てるとなんだか満腹中枢が刺激される」
「なるほど、まんぷくちゅーすーね」
「分かってないね?虎杖くん」

 知ってる知ってる、と言いつつ食べることに集中しているようなので、わたしの言った満腹中枢の真意にはあまり興味はなさそうだった。虎杖くんを横目に見ながらようやく自分のお弁当を食べ進める。
 ばくばく食べる虎杖くんとちまちま食べるわたし。変なテンポのふたりなのにこうして一緒にお昼ご飯を食べる時間がとても好きだ。
 静かな風が吹く。ここは嘘みたいに穏やかな場所だった。陽だまりのなかにいると呪いなんてどこにもないような気がして、ようやくゆっくり呼吸ができる。そんなゆるやかな時間に浸っているわたしのとなりで、虎杖くんはあんなにあったお昼ご飯をもう食べ終えていた。髪の毛が太陽の光にあたってきらきら光っている。

「なまえさん、デザート食べたくない?」
「あんなに食べたのにまだ入るの?」
「え、全然ヨユー。てか足りなかったかもって思ってるぐらい」
「すごいね。伏黒くんもそんなに食べる?」
「うーん、普段は俺のが食べるけど伏黒もまあまあ食えるんじゃねえかな?3人でピザ食べると余ったやつ食べてくれるから、温存するタイプだと思う」
「そういうところまでしっかりしてるんだね伏黒くんは」

 それでどうする?とこっちに返事を促す顔はいたずらっこのような無垢さがあって、口直しに甘いものがほしいような気がしていたわたしは頷いた。
 ベンチから立ち上がってふたりでコンビニへ向かう。虎杖くんが話す色々なことに笑ったり驚いたりしながら、まるで戯れ合うように歩く。時々わずかに触れる肩や腕に、かすかに、けれど確かに胸が高鳴っているのに、それに気づくのはどうしてかもったいなく感じて知らないふりをする。そんなくすぐられるような感覚が虎杖くんも同じっだたらいいのにと思った。
 コンビニへついたら虎杖くんはきっといつも通りサラダチキンとかよくわかんないプロテインバーとか、夜にみんなで食べるかもって言いながらポテトチップスを買うんだろう。甘いものが食べたいというのは、わたしのためにそう言ってくれているのだと知っている。
 たぶん今、わたしの心はちょっとだけ変になっていて、虎杖くんの心のなかを考えるだけでもたまらない気持ちになる。無性に虎杖くんに触れたくなる。でもまだそうしてはいけない気がして、うずく胸を押さえてただきみの優しく笑う顔を見つめるにとどめている。まだ手を伸ばすことができなくても、今はその瞳にわたしが映っていることがわかるだけでうれしい。
 ようやく高専の出入り口についたところで、珍しくそこには人影があった。先に気づいたのは虎杖くんだ。
 「あれ、誰かいる」という呟きのあとに目を凝らして、そしてわたしはすぐに息を飲む。
 黒ばかりを纏う呪術師のなかでやけに目立つ白を纏う彼が、そこにいた。

「なまえさん!」

 こちらに気づいて片手をぶんぶん振りながら駆け寄ってくるのはやはり彼だった。予告のない登場に呆気にとられてしまい何も言えなくなってしまう。まだ昼間だというのに月明かりのような淡い光を受けている黒い瞳は、どこまでも真っ直ぐにわたしを見ている。
 目の前にやってきた彼はだいぶ浮かれた様子で、駆け寄ってきた勢いのままわたしの両手を両手で握りしめた。

「久しぶり!会いたかった、なまえさん」
「乙骨、くん……」

 彼は、愛しいものでも見るように目元をやわらげて顔を傾けながら「びっくりした?」と微笑んだ。手はまた強く握り直されたけれど、生ぬるいような、不思議な温度だった。

「一時帰国することになって今日の朝着いたんだ。僕はその、早く…みんなに会いたくて、空港から真っ直ぐ戻ったんだよ。驚かせたくて黙ってたんだ、ごめんね」

 申し訳なさそうな表情と照れくさそうな表情が変わりばんこにわたしを見つめる。彼が照れ隠しをするように「あはは」と笑いながら頭をかくふりをしたので繋がれていた手は離された。
 乙骨くんは何も言えないでいるわたしには気づいていないようだった。妙な居心地の悪さのせいで無難な相槌しかできない。そうしていると彼は今気づいたとでもいうように虎杖くんのほうに視線を向けた。けれどそのまま「えっと…」と口籠もってしまい、すぐにその視線がこちらに戻ってきた。
 こういう流れになったら致し方ないので虎杖くんを紹介しようとすると、虎杖くんがまるで彼とのあいだに割ってはいるようにしてわたしの前に立ちはだかる。

「虎杖悠仁、1年です!よろしくお願いしまッス!」
「ああ、きみが…。2年の乙骨憂太です。よろしくお願いします」

 わたしからはもう虎杖くんの背中しか見えなくて、乙骨くんがどんな顔をしているのかは分からなかった。

「やべ!なまえさん、早く行かないと昼終わる!」
「え、あっ、うん。乙骨くんごめん、またあとでね」
「…うん。またあとでね、なまえさん」

 慌てて走り出す虎杖くんの流れに乗るようにわたしもその場をあとにした。乙骨くんが少しだけ寂しそうな顔をしたけれど、後ろを振り返ることはしなかった。
 ようやく高専から離れて、コンビニへの道を進む。まだ夏になる前の眩しい日差しがわたしたちについてきていた。道端には名前も知らない花が咲いている。
 少し前を歩く虎杖くんはやっぱり背中しか見えなくて、乙骨くんと同じようにどんな顔をしているのかわからない。
 携帯を取り出して時間を確認する。お昼休みが終わるまであと30分はあった。コンビニはそんなに遠くないから急がなくても充分だったのに。
 虎杖くんの後を追うようにしてゆっくり歩いていてもコンビニにはすぐに辿り着いた。外より少しだけ涼しい風が一気に体を包む。虎杖くんはカゴを取ってから真っ直ぐスイーツの並べられた棚に向かい足を止めたので、いつものようにそのとなりに並んだ。

「虎杖くん、お昼まだ時間あった、よね」
「あー…なんかなまえさん気まずそうだったから。タイミング違うんかなって」
「…」
「あっ、お節介だった!?」
「…ううん。そんなことないよ、ありがとう」

 わたしは虎杖くんのほうを見ることができないまま返事をした。目の前には新発売というシールが貼られたモンブランとフランボワーズのムースが並べられている。こういう時、いつもならどれにしようかはしゃぎながら迷っていると虎杖くんがどっちもを手にとる。片方を虎杖くんの分ということにして分けてくれるのだけど、結局はどっちもわたしが食べてしまう。申し訳ないと思いつつも、虎杖くんにそうやって甘やかされるのが好きで、拒絶することができない。
 手持ち無沙汰にモンブランに手を伸ばす。美味しそうだけどどうしてもムースも食べたい。好きなものをどっちかだけしか選べない時、みんなはどうやって我慢してるんだろう。
 そんな子供みたいなことを考えていると、虎杖くんの手がムースをとった。

「さっきの人、なまえさんの元カレ?」

 思わずモンブランを落としそうになって慌てて棚に戻す。虎杖くんのほうを向くとわざとらしいくらいキョトンとした顔でこちらを見ていた。

「ちっ、ちがうよ!全然ちがう!」
「ふーーん?」
「ほんとにほんと!全然そういうんじゃない!真希ちゃんにも聞いてみて!」

 そう言ってから自分でもムキになっていることに気づいて、ごまかすように「乙骨くんに失礼だよ」と笑ってまたモンブランに視線を戻す。一度手を離してしまったせいかさっきよりも欲しいという気持ちが薄れてしまっていた。

「…そっか。なんか安心した」

 呟くその声はちゃんと聞こえていた。それが何を意味しているのか、分かるような、分かったらいけないような。考えるほどに体の先っぽのほうがピリピリと変な感覚になっていく。

「あー、何聞いてんだろ俺…ダッセー!ごめんなまえさん!」
「え、虎杖くん、」
「つうわけでここは出します!」
「えっ!?いいよ!なんで!?」
「なんかカッコつけたい気分なんで」

 真剣な顔で敬礼しながら、虎杖くんはモンブランとムースの両方をカゴに入れる。それからいつものように他の食べ物や飲み物も追加して、さっさとレジに向かってしまった。レジの前でお金を出そうと食い下がっても頑なに受け取ってくれなかったので渋々諦める。コンビニを出たあとも「ほんとにいいの?」と聞いたけれど、やっぱりお金を受け取ってはくれなかった。
 来た時と同じように虎杖くんは少し前を歩いている。さっき買ったらしいコーラを開ける音がして、彼が一口飲み終わるのを待った。

「乙骨くんとは、ほんとになにもないよ」

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。聞こえていなくてもいいと思った。少しだけ強い風がわたしたちを通り過ぎていく。
 虎杖くんが振り向く動作がやけにゆっくり見えた。

「早く戻って一緒に食べよ?」

 太陽みたいに笑う。わたしの言葉には答えはしなかった。それがわたしのためなのか彼自身のためなのかはわからない。どちらだとしても今はそれだけで救われたような気持ちになる。
 虎杖くん。わたし、きみのとなりにいるとあったかくなるんだよ。早くその光がほしいと思うよ。胸は苦しくなったけれど愛おしい痛みだった。少しも離れたくなくてわたしは虎杖くんに駆け寄った。

 乙骨くんは出張中の報告をしなければいけないという話を真希ちゃんから聞いた。昨日は結局あのまま彼に会うことはなかったし、今日はもうお昼休みになったというのにそれでもまだ会えていない。
 再会した時の彼の顔を思い出した。以前と変わらない、ちょっとだけ泣きそうに見える優しい顔のまんまだ。さらさらとした触り心地の手がもう懐かしく感じる。
 作ってきたお弁当を持っていつもの中庭へ向かう。虎杖くんは今日もまたコンビニかどこかでお昼を買ってくるだろうから食べて待っているのがちょうどよかった。陽だまりが集まるあの場所で彼を待つのが好きだ。彼がいてくれると怖いものがなにもなくなったように思える。
 中庭につくと、ベンチには先客がいた。

「やっぱりここに来ると思った」

 乙骨くんの黒い髪が風になびいていた。淡い光と緑が彼の周りを照らしているように見える。瞬きをしたら消えてしまいそうなほどこの場所に溶け込んでいて、乙骨くんは綺麗だった。

「一緒にいてもいいかな?」

 いつかと同じように彼は困った顔でわたしに伺う。静かに頷くと「ありがとう」と花が揺れるように笑ってくれた。心臓の奥の、どこか、自分でもわからない場所が熱を帯びる。彼の纏うやわらかな空気がゆっくりとわたしをまるごと包んでいってしまう。彼を見つめたらいけないような気がして、ずっと木漏れ日の隙間を見ているふりをした。
 彼は、海外に行く前となにも変わっていないようだった。強いて言うなら昔より気弱そうな雰囲気がほとんど消えている。頼りなさげに下がっていると思っていた眉も、ただ彼の優しさが滲んでいるだけなのだと分かる。
 お弁当を膝の上に広げてベンチから真っ直ぐ前の景色を眺める。2人で他愛のないことを喋ったり喋らなかったり、時々目が合って笑ってみたり、まどろみのような心地よさに身を委ねそうになる。気を抜いたら本当に眠ってしまいそうなくらいだ。
 わたしは乙骨くんと過ごしていたこの時間が、場所が、とても好きだった。

「虎杖くんと仲良いんだね」

 中庭にはいくつかの花が咲いていた。わたしがなんの花なのか考えていたら、次の日に乙骨くんが全部調べて教えてくれたことがある。あの時、彼の声を聞いていたくてできるだけ長く話してもらっていたはずなのに、今はもうどの花の名前も思い出すことができない。ちゃんとメモしておけばよかったな、と、ひとりで過ごしているあいだに何度も反省した。

「虎杖くん、すごく人懐っこくて、すぐに仲良くなれたよ」
「僕より?」

 視界の端だけで乙骨くんのほうを見る。膝の上に乗っている手は最後に見た時よりも骨っぽくて、虎杖くんの手みたいだなと思った。

「僕より、なまえさんと仲良くなっちゃった?」

 手から辿るようにして彼の顔を見る。当然のように目が合って捕らえられる。なんて言ったらいいのかわからなかった。ここに来るたびに彼を思い出していたのに、彼を見つめるほどに虎杖くんを思い出してしまう。
 思わず俯いてすべてから目を逸らす。流れてくる自分の髪の毛が表情を隠してくれたけれど、それを乙骨くんの指に優しく掬われて耳にかけられる。そのままその手がわたしの頬を包んだ。まるで花びらに触れるようなやんわりとした手つきで顔を上げられて、もう一度見つめ合う形になる。切なげに揺れる瞳にはわたしが映っているのが見えた。

「もう間に合わない?」

 近づいてくる瞳が、体温が、焦がれていた少し昔を思い起こさせる。どくんと跳ねるようにして心臓が鳴る。乙骨くん、待って、わたし。言葉だけでは彼は止められなかった。だからわたしは乙骨くんのことを両腕で押し返した。それぐらいの力では彼の体はびくともしなかったのだけど、わたしの意図は伝わったようだった。
 膝の上に置いておいたお弁当が音を立てて地面に落ちる。彼の瞳からは光が消えていくように見えた。それ以上はわたしに表情を見せないまま彼は立ち上がった。

「よく分かったよ、なまえさん」

 それだけ言って乙骨くんはいなくなった。わたしはほとんど呆然とした気持ちになってしまって動けなかった。
 足元に転がっているお弁当の中身がまるでおもちゃのようだ。そんなに好きなわけじゃないのに彩りがほしくて毎回入れてしまう卵焼きと、無性にお肉が食べたくなって初めて作ってみた肉巻きおにぎりと、前に虎杖くんが美味しいって言ってくれたナスの煮浸しと、お箸と、ひっくり返ったお弁当箱と。
 このまま放っておいたらこの食べ物たちも腐って消えてなくなってくれるんだろうか。水をあげなければいつか枯れてしまうと花と同じように。心だってぜんぶ、消えてしまったと思っていたのに。

「なまえさん、大丈夫?」

 誰の声かもすぐに分からなくてゆっくりと顔をあげた。昼中の太陽を背負った虎杖くんがいる。
 「あーあ、もったいねー」と困ったように言いながら砂まみれになってしまったおかずを拾い始める。なにもできないでいるわたしに、なにも聞かずにダメになったお弁当を片付けてくれた。
 虎杖くんはしゃがんだままベンチに座るわたしを見上げた。不器用に笑う顔に安堵してしまい、体から力が抜けていくのが分かる。それを崩れ落ちそうに感じたのかそっと手を握られた。いつもはあたたかい虎杖くんの手が珍しく冷たい。

「絶対、今言うことじゃないんだけどさ」

 微笑んでいた顔がふいに真剣になる。握る手に力がこもるのが分かった。

「好き」

 握る強さはそのままで、虎杖くんの手がゆっくりとわたしの指を絡め取っていく。触れ合うところから段々と熱くなっていって、さっき冷たかったのは気のせいなのかもしれないと思った。
 まるで跪くようにしてそこにいる虎杖くんはいつもの可愛らしさがなくなっていて、男の人のような顔つきをしている。心臓が跳ねる。音が自分にもしっかりと聞こえてくる。繋いだ手から鼓動の速さがバレてしまうかもしれない。そんなことありえないのに、急に恥ずかしくなって逃げ出したくなるのを必死に思いとどめた。

「本当はもっとカッコつけて告ろうと思ってたんだけど我慢できなかった」

 やんわりと、それでも抵抗を許さない強さで腕を引かれる。されるがままというようにわたしはその力の流れに従って虎杖くんのほうへ近づく。
 こんなに近いところで初めて彼の顔を見た。そうなると分かっていたのに、いざとなると幻を見たような驚きがある。虎杖くんの薄いくちびるは予想していたよりもずっとやわらかくて美味しそうだと思った。
 キスが終わっても虎杖くんはあまり離れなかった。動いたらすぐにくっついてしまいそうな距離のままわたしを真っ直ぐに見つめている。虎杖くん、と名前を呼ぶよりも先に彼が口を開いた。

「ねえ、本当に乙骨先輩となにもない?」

 今までで一番優しい喋りかただった。それなのにどうしてか鋭さを孕んでいるような気がした。彼の、凍てついてしまいそうなほど真剣な顔は、狼に似ている。けれどわたしは、問われているというのになぜか心臓が高鳴っていた。
 虎杖くんの顔を包むようにして引き寄せてもう一度くちびるをくっつける。触れただけだったのに彼には噛みつくようにして何度か喰まれた。人生で3回目のキスだった。
 ちゃんと話もできないまま昼休みは終わってしまった。虎杖くんはしばらく手を離してくれなかったけれど、おおよそ先生たちが言いそうなことを思いつく限りたくさん言ったら観念してくれたのか名残惜しげに授業へと戻っていった。
 午後の授業が終わるとわたしの1日もほとんど終わってしまう。夕食を食べ終えてようやく虎杖くんへ連絡しようと落ち着いた時にはすっかり夜も遅くなっていた。やっと携帯を確認すると、あまり人から連絡が来ないのに1件だけ連絡が入っている。見てもいないのにきっと虎杖くんであろうことは簡単に予測がついた。
 内容を確認しようとした時、部屋の扉がノックされる。真希ちゃんかと思って近づくと、わたしが扉を開けるよりも先に声がした。

「なまえさん。遅くにごめんね、ちょっといいかな」

 乙骨くんの声だった。後ろから刺されたみたいに体がどきりと反応して一瞬だけ動けなくなる。扉を開けるか迷ったものの、扉越しに会話なんてしたら真希ちゃんの部屋にまで聞こえてしまいそうだったのでわたしはすぐに扉を開けた。
 そこには申し訳なさそうな顔をした乙骨くんがいた。「やあ」といつものように、とは言えないぎこちない挨拶に、わたしも思わずぎこちなく返す。きっとすぐにすむ話でもないと思ったので部屋のなかへ促した。けれど扉を閉めても乙骨くんはそこから先へは進もうとしなかった。俯きがちに黙って、言葉を探しているのが分かる。
 持っていた携帯をベッドの上に置いてなるべく近くに歩み寄った。わたしよりずっと背の高い彼なので、顔を伏せていても覗き込めば表情が見えてしまう。「乙骨くん?」と呼びかけると、力の抜けた微笑みがこちらを見ていた。

「考えたんだけど、僕はなまえさんと一緒にいられたらそれでいいって思ったんだ」

 言葉の意味がよく分からなくてわたしは覗き込んだまま動けなくなる。どういうことだろう。彼の真意が分からないはずなのに嫌な予感がする。胸の奥がざわめいたような気がした。
 わたしは彼が好きだった。弱くて、優しくて、少しだけ怖い彼に惹かれていた。でも急にいなくなってしまったから、開きかけていた蕾が閉じたように感じてその花に水をやるのをやめてしまったのだ。そのうち枯れてしまうだろうと目を逸らしていたのにそんなことにはならなかった。
 悲しそうなのにどこか有無を言わさない頑なな表情に戸惑う。前はそんな顔でわたしを見たりしなかったのに。もしかしたら、わたしがそうさせてしまったのかもしれない。そうだとしたら。心臓の奥が、やっぱり熱くなった。
 彼の手が伸びてきて髪の毛を耳にかけてくれる。夜と同じ色をした瞳に囚われて、動きたくなくなる。

「だからいいよ。虎杖くんのことが好きでも。そんななまえさんごと好きだから」

  乙骨くんはあの日と同じようにゆっくりとわたしにキスをした。形を確かめるような触れかたをするから思わず体が反応して逃げそうになる。それに気づいてるのか分からなかったけれど、わたしの顔を包む大きな両手の力が少しだけ強くなった。
 驚いて目を閉じるのも忘れてしまっていたけれど彼も同じように目を開いたままだ。こんなにも近くにいるのに目が合っているのかいないのか分からない。

「虎杖くん、凄い目で僕のこと見てたよ」

 微笑みながら彼が言うので必死に虎杖くんを思い出す。一体どんな顔で彼を見ていたのか、そもそもそれがいつのことなのか、ゆっくり考えるにはこの状況は適切じゃない。想像できるのは、真昼の白い光を鋭く反射する狼の目だ。
 懐かしさをかき消す大きな手がわたしの頬をすべっていく。指先から生ぬるい温度が伝わってくるたび、じわじわと心の中を蝕まれるのが分かる。それでもわたしは彼のことをもう押し返すことができなかった。

 ずっと花に水をやっているつもりだったのだ。そのうちに芽吹く美しいものが恋だと思っていた。わたしたちの恋は、美しいのだろうか。



(花患い)
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