「あの、ありがとう…ござい、ます…」

歯切れの悪いお礼を伝える。そしてちらりと、さしのべられた手とそこに添えている自分の手を盗み見た。ドラマティック。珍しい展開にドキドキしていたけれど、のんきにドキドキしているどころじゃなかった。

「ハッ!配達、急がなきゃ!」
「!」

わたしがそう言うと、おそらく魚人のたぐいのそのヒトは、そのまま手を引いて立ち上がらせてくれた。この所作に照れてしまい、また歯切れ悪く「あ、ありがとうございますっ」と言ってしまう。けれど魚人のお兄さんはとくに気にした様子も、照れた様子もなく「いいえ」と紳士的に返事をしてくれた。とりあえず、これでここまでの顛末は終えただろう。わたしはいそいそと自転車のハンドルに手をかけて、あとでこのことを店長に報告しようと思いながら配達に頭を切り替えようとした。

「あの!」
「えっ」
「あの、良ければですが…僕も手伝いましょうか…?」
「えっ!?」
「えっ!?あ…いや、その、僕がここでこんなことをやっていたから、あなたを巻き込んでしまったのではと思って…」
「えええ…!(な、なんて…!)」

なんて良いヒトなんだ、なんて良いヒトなんだ!(感激して2回言ってしまった!)この人は1ミクロンも悪くないのに、無理矢理かと思うほどにわざわざ原因を探し出して気を使ってくれた。でも、手伝ってもらうなんてさすがに申し訳なさすぎる。断ろうと思い、魚人のお兄さんと目を合わせた。

「大丈夫です!そんなに難しいことでもないですし、×▽×区ってところに配達に行くだけなので」
「えっ」
「えっ?」
「…やっぱり、お供させてください」
「えっ…」

しかし、こちらの思いとはウラハラに、魚人のお兄さんは眉をひそめながら言った。今度は断る間もなく、気づけばすでにわたしの自転車を引いていた。「詳しい住所は分かりますか?」と尋ねられたので、あ、決定事項なんですねと理解する。急な展開にちょっとついていけてないのだけれど、拒否していては配達が終わらないので、2人でお客さんのところへ向かうことになった。

道中、お兄さんはいったい何者なのか。その肌はぷるぷるしているのかぬめぬめしているのか。さっきの技は大道芸のひとつなのか。彼女はいるのかいないのか。どうしてそんなに良い声なのか。ほかにもいろんなことが気になって質問したかったのだけれど、お兄さんが「ここら辺は治安が悪いんです」という説明をしてくれていたため、聞くタイミングがなかった。そんなわけで、わたしはできる女のさしすせそを駆使して相槌をうちながら、配達先を目指した。

「あ、ここですね」

魚人のお兄さんが、配達先の住所が書いてあるメモと、壁がまっピンクのアパートを見比べる。なんてド派手なアパートなんだろう、と少したじろいだが、わたしはここでようやく町並みの異変に気づいた。

「治安が悪い」と言っていたお兄さんの言葉通り、町は荒れ果てていた。人通りの少ない道の脇をよく見れば、散乱しているゴミや謎の注射器。誰も住んでいなさそうな古いアパート、崩れかけのビル。さらに路地をのぞけば怪しく見つめ合う男女がいる。少し遠くをよく見れば、やたらと周りを警戒しているちょっと怖い見た目の人やヒト、武器を持ったヒト、ニヤニヤと不敵にこっちを見ている人、などなど。治安の悪さを絵に描いたような雰囲気に包まれている。

今までお兄さんの優しくて綺麗な声に耳を澄ませていたせいで、ほとんど気づかなかったおめでたいわたし。こんなに怖いところと分かっていたら配達になんてこなかったのに。とにかくここまで無事について良かった。お兄さんのあとについてアパートの部屋を目指す。カンカンカン、と今にも抜けそうな階段を2人で登り、ようやく部屋の前についた。

そこでまず目に入ったのは、ライムグリーンのドア。荒れた町には不釣合いなチカチカとした配色に、目がくらみそうになる。おお、デジャビュ。しかし、「チャイムがありますね」とまったく動じていない魚人のお兄さん。視線をずらすと水玉模様のインターホンがあった。なんて目のくらむセンス。もう帰りたい。心からそう思った。

「押しますね」
「はい…」

『ピギィイイイイイイイイイイ』

「…」
「(ええぇ〜〜〜っ)」

インターホンを押すと、ピンポーンではなく「ピギィィイイイ」という音(鳴き声?)が響いた。い、いやだ…もう本当にいやだ…本当に帰りたい…。自分の体が硬直することがわかったけれど、時の流れはとまってはくれなかった。しばらく待ったあと、ガチャッとライムグリーンのドアが開き、中からは褐色に銀髪の全裸の男の人が出――

「ぎゃああああああ!!!」
「っだよ、うっせーピザ屋だなァ」
「…一旦閉めます」

バタンッ

わたしの視界は、黒いマンモスからライムグリーンへと戻された。

「なっ…ななな、ななっ…(み、見ちゃった…見ちゃった…)」
「本当にすみません…。だ、大丈夫ですか?」
「え、えっと…えっと…」

なぜか神妙に謝ってくれる魚人のお兄さん。けれどその違和感よりも、さきほどのショッキング映像でわたしの頭はいっぱいだった。ぶんぶん、と頭をふってあの映像を取り払う。

「も、もう大丈夫です…」
「えっと…よければ僕が渡しておきますから、下で待っててくださ―」

「なんだオメー。バイト始めたのか?」

「――!!」
「うぎゃああああああ!!!!」
「だーから騒ぐんじゃねーよ!人をヘンタイみたいによォ!」
「ヘンタイどころか、度し難い下劣生物ですよアナタは」
「っだとテメエ!」

魚人のお兄さんの配慮も虚しく、再び開かれたドア。あらわになった玄関にはまた黒いマンモスがいた。本日2度目の叫び声をあげたところで、お兄さんがわたしの前に立ちはだかったくれたこともあり、黒いマンモスは見えなくなった。ところがどっこい、事の流れを見ているとお兄さんと黒いマンモスはどうやら知り合いのよう。話についていこうにも変にでしゃばればまた黒いマンモスと遭遇してしまう。わたしは傍観することしかできずにいた。こんな人がウチの花を…?とりあえずパンツだけでも履いてくれ…。と思いながら魚人のお兄さんの後ろに隠れていると、肩の向こうからひょこっと黒いマンモスの人が顔をのぞかせた。

「花屋だったんなら最初からそう言えよ」
「アナタが全裸で出てきたりするから言いそびれたんでしょう。そもそもこんなところで何をやっているんですか」
「野暮なこと聞くんじゃねえよ。ナタリーに失礼だろうが」
「言い方を変えましょう。今日、アナタは仕事のはずなのに、どうしてこんなところで呑気に花を受け取っているんですか?」

声をかけられたけれど、結局口を挟む余裕はなくなってしまった。わたしの配達で来たのにわたしが蚊帳の外という自体。魚人のお兄さんが黒いマンモスに何かを言いながら、なかば押し付けるように鉢植えを渡した。マンモスは興味なさげに一瞥してから、部屋の奥に向かって「ナタリー!花!」と雑に呼びかけ渡してあげていた。

少し気になって、身をのりだしてライムグリーンのドアの中を覗いた。そこはルビーレッドの壁が広がり、その中心にはブロンド髪の綺麗なお姉さんがいた。どこまでもチカチカしているアパートだ。眩暈がしそうな配色のなか、ぽーっとしていたらお姉さんと目が合ってしまった。彼女は妖艶に微笑んで、ゆっくりこっちに来た。

「あなたがお花屋さん?」
「あ、わ、わたしはバイトで…店長がいて…」
「そう。その花屋のエプロン、ステキね」
「えっ」

にっこり笑って、彼女はエプロンのカンガルーポケットにお金を入れた。その時わたしを包んだローズの香りは濃厚で噎せ返りそうだったけれど、頭のなかがチカチカしそうなほどいい香りだった。

「…番頭にはチクんなよ」
「バレてると思いますけどね」

魚人のお兄さんと黒いマンモスのそんな謎の会話を残し、わたしの初めての配達は無事(?)に終わった。


天上界には友人がいてね




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