ブルーローズ


 場所はグリフィンドールの談話室。
 就寝時間はもう過ぎていて、ルームメイトはもう夢の中だ。そんな時間に海月は羊皮紙を広げ、左の傍に何冊もの参考書を置いて、右側にノートを置いて、眠い眼をこすりながら、羽ペンを走らせる。
 眼の下には隈が、もう何ヶ月も消えていない。

「あーもう!」

 ぐしゃぐしゃと羊皮紙を丸めて、放り投げた。放り投げられた羊皮紙は物理学の法則にのっとり、綺麗な放物線を描いて――

「あ」

 地面に落ちる。はずだった羊皮紙はちょうど目の前を通りかかったシリウス・ブラックの頭にぶつかった。
 サァと血の気が引くのがわかった。

 シリウス・ブラック。この学校で知らないものはいない。成績優秀、容姿端麗、ファンは数知れず――。

 海月にとっては雲の上の存在。話したこともなければ関わる接点もない。こっちの成績は中の下、顔も普通。むしろ彼らと一緒にいつもいるピーター・ペディグリューとは友達になれそうだとは思ったことはあっても、……ない。シリウス・ブラック、ジェームズ・ポッター、リーマス……ルーピンはどうだろう、よくわからないが……ともかく。ソンナ方々とコンタクトを一度でも取れたら奇跡。天変地異の前触れとも思われる出来事だ。
 そんな天変地異の前触れにも等しい、出来事が今。
 起きた。
 シリウス・ブラックの目がこちらを、海月を見る。反射的に海月は、肩を震わした。

「……何してんだ? こんな時間に」

 シリウス・ブラックは丸められた羊皮紙を拾い上げテーブルの上におくのと同時に、テーブルの上に広げられている海月の手元の羊皮紙を覗き込む。

「課題じゃ――ねぇな」

 端整な顔が間近にあることに、海月の心拍数は上がる。
 海月の羊皮紙の英単語と、その上に書かれている見慣れない文字に、頭の回転の速いシリウスはそれが訳だと見当をつける。

「……英語苦手か?」

 先ほどの台詞よりだいぶゆっくりと、シリウス・ブラックは話しかけた。
 ゆっくりと、海月はうなずく。

「中国人か?」

 海月は首を横に振って、小さな声で「日本人」と答えた。
 その言葉に、シリウス・ブラックの目は輝く。

「神秘の国だ! オンミョードとか言う術を使う!」
「陰陽道は、もとは中国から入ってきたもの、だけど……」
「へぇ! なぁなぁ他にもいろいろあるだろ、何だっけ、サムライ、ニンジャ……」
「うん」
「いい国だよな、魔法と一般人の区別ねぇし」
「一般人でもアニミズムなところ、あるからね」
「アニミズム?」
「自然界の事象に神秘的力が秘められているとする考えで、この力を生活の中に取り込もうってする考え? 信仰?」
「なるほど」

 繰り替えずが、これがシリウス・ブラックと海月の初めての会話である。

「ところで、聞いてもいい?」
「なんだ?」
「こんな時間に、何しているの?」

 シリウス・ブラックは、「あー」とか「うー」とかなんとか呻いた。
 海月はいぶかしげに首をかしげる。

「……ちょっとな」
「そ」

 詮索屋は嫌われる。という理由ではないが、海月は一言声を発すると、視線を手元に戻す。
 明日――とは言っても、日付的には今日――は魔法薬学の授業がある。呪文学は聞いて覚えるから訳を書く必要はあまりないが、魔法薬学は訳をしておかないと、それはもう大変だ。何をどう加工して何分煮詰めて、右回りに何回かき回すだの、大体右周りとか左回りとか指定する理由がわからん。同じじゃないのか。なんていってもしょうがない、その通りにしないと成功しないのだから。
 そんなわけで、シリウス・ブラックと会話したという奇跡に近い出来事を惜しむ気持ちはあるものの、明日の授業を乗り越えることのほうが最重要だ。
 英和辞書を開き、教科書を開き、羊皮紙にわからない単語を書いて、ノートに日本語と英語で纏める。そんな作業はえらく手間がかかるわ、時間がかかる。
 魔法薬学だけではない。闇の魔術に対する防衛術だってそうだし、薬草学だってそう、むしろあまり訳を書く必要のない教科のほうがまれなのだ。
 だから、睡眠時間のなさは半端じゃない。よくソンナ生活をぶっ倒れないで三年間続けてきたと思う。本当に。そしていい加減英語が読めるようになってもいいと思う。ぽんこつ過ぎないかこの頭。

「なぁ、それ魔法薬学だよな」

 必死に訳を書く海月を見て、シリウス・ブラックは聞く。
 てっきりもう部屋に戻っていると思っていた海月はまだ談話室に(しかも目の前に)いたことに驚きながらも、手を動かすことをやめないで、答えたら、ぶっきらぼうになった。

「……ええ」
「明日の魔法薬学、俺と組むか?」
「は?」

 止まった手。インクが羊皮紙に滲んだ。
 海月は目をまん丸に見開いて、シリウス・ブラックを凝視する。

「あ、いや、だから、会話はそれなりにできるようだし……」
「でもMr.ルーピンとかMr.ペディグリューとかはいいの?」
「リーマスは体調不良で今保健室だからな」
「ふぅん……」

 ありがたい申し出ではある。
 だが。

「余計な世話だったか?」
「あー……その、君の、ファンがさ」

 そうなのだ。ただでさえ早い英語は聞き取れないし、スラングなんてあまりわからない。さすがにイエローの意味ぐらいはわかるけれど。ともかく。
 その取り巻きが怖いのだ。女の自分が言うのもなんだけれど、女は怖い。
 そうぼやくと、目の前のシリウス・ブラックは腹を抱えて笑い出した。

「ちょっと!」
「あっはは、悪ぃ悪ぃ、じゃあ俺と、お前、付き合ってるってことにしちゃえば?」
「嫌。それこそ何されるかわかったもんじゃない」
「俺がちゃんと守るからさ」
「……」

 そういう問題じゃない。

「………冗談だよ。悪かった。悪かったから無表情で見るのはやめてくれ」
「……眠いだけよ」

 海月は薄く笑った。

「まぁでも、あんた面白いわ。女なのにつるんでないっていうか、俺とも普通に話すし」
「……そ、れは」

 友達いません、なんて。
 シリウス・ブラックと話しているこの現状に現実味をもてない、なんて。

「ん?」
「……なんでもない」

 言えるか。

「で、駄目か? 組んでもらえると俺としても、うるさい女をあしらう口実ができてありがたいんだけど」
「……」

 うるさい女に自分が入っていないことに、ひそかに喜びを覚えるが、しかし。
 素直にはい、とは言えない。
 目線を自分の手に落として、逡巡する。

「あーもうじれってぇ!」

 シリウス・ブラックがいつの間にか隣に立っている。手のひらで海月の目を覆うと座っているソファに押し倒す。

「訳終わってなけりゃ、どうしようもねぇだろ。今すぐ寝ちまえ」
「ちょ……っと…」

 だが、暗くなった視界。人の体温。シリウス・ブラックの手であると意識するまえに、睡魔によって思考停止に追いやられる。

「こん、ちく……しょー…」

 それでも、捨て台詞だけは忘れないように、落ちていく意識の中で、けれどはっきりと、呟いたつもりだった。







 東洋人の海月・水面は少々話題に上る人物である。
 いつも目の下に隈をつくって、眠そうで。誰かと一緒にいるところを見たことがない。活発なグリフィンドール生とは思えないほど大人しく、その点では陰鬱なスリザリンのほうが似合っているとささやかれたりもしている。
 学術成績はそこそこ。顔は隈のせいで点数落ちるが、かわいい部類だ。
 シリウス・ブラックは周囲の海月に対する興味より、人一倍海月に興味を持っていた。ありていに言えば一目ぼれだ。
 ふとしたときに、つい姿を探して追ってしまっている。その光景をよくジェームズやリーマスに笑われたもんだ。
 海月を意識し始めてから、女遊びをやめた。きっぱり断るようになったのだ。
 そのせいで、女どもの空気は妙にぴりぴりし始めた。それはもう、なんというか――女って怖ぇわ。
 断られるとわかっていても、告白する女はいるわけで。
 その日も、まさに告白を断ってきた、帰りだったわけだ。

『あーもう!』

 絵画に合言葉を言って談話室に入るのと同時に、海月の声が聞えた。なんだと思って歩みを進めたら、丸まった羊皮紙がぶつかった。
 投げられたほうを見ると、血の気の引いて、体をこわばらせた海月と目があった。

「……何してんだ? こんな時間に」

 そう尋ねたが、見ればわかることだった。海月の目の前に広げられた羊皮紙、積み上げられた参考書に、ノート。
 しかし、今まで出された課題は変身術だけだし、明日に変身術の授業はない。

「課題――じゃ、ねぇな」

 羊皮紙を覗き込む。英単語がつづられた上に、見たことのない文字。ギリシャ文字でもキリア文字でもない――おそらく漢字というやつに、ミミズの張ったような字――いや、決して海月・水面の字が汚いというわけではない(アルファベットの綴りを見る分には綺麗な字だ)――から推測するに、教科書の英文の訳でもしていたのだろう。

「……英語苦手か?」

 ゆっくりと話しかける。すると少々目を見張ったあと、ゆっくりと頷いた。
 ここまで間近に接近していたことを自覚して、シリウスの心拍数は急に上がって、覗き込んだ羊皮紙から顔を遠ざけた。

「中国人か?」
 と聞くと、「日本人」と返した。
 そこからは何とか会話をとぎらせないように、必死だったことを覚えている。

「そ」

 そういって会話を切り上げられたときの、妙な切なさと、しつこく詮索してこない安堵が綯い交ぜになった感覚はきっと忘れない。
 眠そうな目をこすって、翻訳をする姿は何とも健気だ。
 傍に人がいるということをすっぱり断ち切って、自分の世界にどっぷり漬かり、英単語と格闘するのがなんとなく、癪だった。

「なぁ、それ魔法薬学だよな」

 そう尋ねたときの驚いた顔には少なからず傷ついた。

「……ええ」
「明日の魔法薬学、俺と組むか?」
「は?」


 止まった手。羊皮紙に滲むインク。
 目をまん丸に見開いて、信じられないと凝視する目に、また心が痛んだ。


「あ、いや、なんだ……会話できるようだし――」


 余計な迷惑だったか? と問えば、俺にしつこく迫る女(目の前の、彼女(海月)はファンといっていたが)が怖いという。
 冗談には――あれは俺が悪かったが――冷たい目を返された。海月曰くファンの女なら喜んで二つ返事だっただろうに。
 だからこそ、興味を持ったんだ。
 集団でつるむわけでもない。俺に対しても、ブラック家を見ているわけでも容姿だけを見ているわけでもない。
 けど、ソンナ風な台詞に、海月の目に影が落ちた。


「で? 駄目か?」


 せっかく話す切欠ができた。これだけにしたくなかった。
 我ながら余裕がない。らしくないのは自覚済みだ。
 それでも。

「……」

 海月は逡巡していた。
 それがあまりにもじれったくて。強行突破にでた。
 吉とでるか凶とでるか。

「こん、ちく……しょー」

 そんな捨て台詞とともに、眠りに落ちる海月に、シリウスは困ったように笑った。





 朝だと、シリウス・ブラックは海月を起こした。まだ起きて談話室に下りてくるものはいない。
 誰も降りてくる前に。シリウス・ブラックにとって海月の寝顔を見られたくなかったというのが本音だが、海月にとっても、誰かが談話室に降りてくる前でよかった。
 海月は、けだるい体を起こす。ほわほわとした頭でテーブルに広げた参考書やノート羊皮紙を纏める。
 結局終わらなかった翻訳に、ため息を吐いて、ちらりとシリウス・ブラックを見ると、悪びれた風もなく、海月の視線に気づいて肩をすくめた。
 結局、組んでもらうしかなさそうだ。






 魔法薬学の授業で、他の女の子の目を集めるまで、あと三時間。


 ジェームズやリーマスにからかわれるまで、あと四時間。
 悪戯仕掛け人に海月の名前を覚えられるまで、あと四時間。

 リリー・エバンズと友達になるまで、あと五時間。

 ジェームズ・ポッターと話す事が多くなるまで、あと二日。
 ジェームズに嫉妬するまで、あと三日。


 悪戯仕掛け人に加わるまで、あと二週間。
 人生初の罰則をくらうまで、あと一ヶ月。



 そして。




 シリウス・ブラックに恋心を抱くまで、あと――
 海月に告白するまで、あと――