不可侵,絶対の赤と黒
木々の揺れる音,葉のこすれる音を風が吹いたのに合わせて男は静かに進んでいく.鬱蒼とした森の奥を,道をこじ開けるように進んでいくとそれはある.
壁や屋根には穴が開き,ツタが覆い修繕された様子もない家屋.廃墟と言っても差し支えない
扉はとうに役目を放棄し,半開きのまま固まっている.
男はそれを無理やりこじ開けて中に入る.
中には床で寝そべる一人の影があった.薄暗がりの中,ぼんやり光るように見える二つの目が入り口に向けられる.中の人影は焦る様子もなく男の動向をうかがう.
「いい加減どうにかしたらどうだ」
そう言って男はずけずけとあがりこんで廃墟の主――夜天 薄明の横で胡坐をかく.薄明はのっそりと上半身を起こし,けだるげに前髪をかき上げて男を半眼で睨む.
「来て早々なんなんだ……」
「無防備すぎる」
「こんなとこに来るのはお前ぐらいだよ」
ここまでの道のりを振り返って,それはそうかも,と男は思った.だからと言って,こんな場所に住んでいるのもどうかと思っている.
「――で?」
薄明は,世間話しに来たわけじゃないだろう,という言葉を言外に含ませて続きを促す.
「いや,世間話だよ」
薄明は首を横に振った.そんなわけない.
「残党狩りの最中だろ」
「私がなぜお前を殺さなければならない」
「連中の一味だ」
「昔の話だ.それにお前は私を助けただろう」
殺す理由がない,と男は言う.
気のせいだろ,と薄明は返した.
「ふぅん? 私の追手の振りをして崖下に落ちた私を見逃して,その足で我らが忍頭の首を刎ね飛ばしたのは誰だったかな」
「お前を見逃したのは俺の力不足だし,そのせいで殺されたくなかったから先手を打った.それだけ」
お前を助けたわけではない,と薄明は言う.
「そういうことにしておこうか」
男の言い回しに釈然としない思いを抱えつつも,それ以上は何も言わなかった.
けれど,男の目的が暗殺でないならば.
「じゃあ何でお前ここに来たんだよ」
「いっただろ,世間話しに来たんだよ」
正気を疑う目を薄明は無言で男に向けた.
「そんな目で見られても.……――そんなに意外?」
男が,ふふと笑うので薄明はいっそ困惑した.男のそんな表情を,薄明は今まで見たことがなかった.空気が柔らかい.腑抜けたといってもいい.
「何か……あったな?」
「うん.だから,言いたくて」
うっそりと目を細めて,心底幸福だと言わんばかりの顔を男はした.
「――名を,もらった」
薄明は目をくっとひらいて,それから瞬かせた.
男にとって,それが幸福だということが,薄明にとって心底驚きだったからだ.
「今度は何を?」
「先生をしている」
「お前が?」
「そう,私が」
不思議だよね,と男は言う.その変化を,どうとらえていいのか,薄明にはわからなかった.いっそ”初めまして”からはじめたほうがよっぽど健全だったのではないかとまで思う.――こんな男は知らない.
「今のお前は何という」
薄明の問いに,男は本当にうれしそうに,かみしめるように,その名前を告げた.
「半助.――土井,半助」
* * *
夜天薄明と,最近土井半助と名を貰った男との出会いはもうかなりの昔になる.ちょうど忍務帰りでくたくたで,ただただもう眠りたいと思っていたところに,
夜天の部屋に新入りを放り込んだ忍頭は,用件だけ言うとさっさとどこかへ行ってしまい,部屋に取り残された少年は陰気臭い顔でただじっとしていた.
夜天はといえば,泥と血と煤にまみれた服を着替えるのすら面倒で,とにかく寝たかった.今から寝ようという時に,人の気配があるのも気に入らない.せっかく夜明け前に帰ってこられたのに,明るくなる前に眠りたかったのに……!
「――今すぐここを出ていって家にかえれよ」
今なら,この子供一人いなくなったところでどうとでも言い訳できるわけだし.
うっすらと東の空が白んでいる.それすらもむかつく.
「帰る場所なんてない.――なにも」
「あっそ.ここにいてもなんもないぜ」
「でも」
「俺は寝る.――番でもしてれば」
少ない会話のやり取りだけで,害のなさだけはすぐにわかった.それだけ分かればもう十分だった.忍務中は徹夜だったし,本当に眠たかったから,それを知れば夜天は床に横になってそのまま眠りに落ちた.次に夜天が目を覚ました時,日はすでに傾きかけていたにもかかわらず,律儀にも少年は部屋の隅で正座をしたまま夜天を見ていた.ついうっかり,夜天の口から「ばかじゃねぇの」という言葉が漏れた.仕方ないと思う.
わりと,理不尽に当たり散らしたと思う.子供だったのだ夜天だって.
だというのに,どいう言うわけか何年も同じ忍者隊に居続けた.絶望に彩られた少年の顔は年々虚無を写すようになっていくのを隣で見た.――同時に,俺に遠慮することもなくなった.「ばかじゃねぇの」と俺が言えば,「お前がな」と強かに言い返すようになるぐらいには.
身長は気づいたら越されてた.
――きっと,兄弟というものはこういうものなのだろう,と夜天は思った.年が近かったのもあるかもしれない.友と呼ぶには血なまぐさくて錆びた縁.流血による絆.
ある晩,妙に歯切れの悪い様子で,かつての少年――もう青年と呼ぶべき男が部屋に来て,結局何も言わずに帰っていったことがあった.
「――夜天.……いや,――なんでもない.おやすみ」
そうして次の日の朝,忍頭からある男――つまり,今この隣でのんきに横になっている男――の討伐命令が下された.のちの顛末は――この現状が答えだ.
そう.
今,この,隣でのんきに横になったこの男.
じっと薄明はその黒い目で観察する.
笑った顔も,そのやわらかい雰囲気も,――初めて見る.
気に入らない.
初めて会った時の感情が腹の底で燻ぶり返す.ああ,そうだ.薄明はこの男が心底気に入らなかった.忍らしくない,忍どころか戦場に向いていない.
「……そんなに見られると穴が開きそうだ」
困ったように眉を下げて,土井は薄明を見上げる.そんな顔をする奴じゃなかっただろ,と言いたい言葉を飲み込んで,薄明は苦虫を嚙み潰した.
「一晩ここで越そうとすんな.帰れ」
「今からこの森を抜けるの大変だよ?」
煌煌と満月が光る夜である.夜は忍者のゴールデンタイムとはいえ,動きにくい夜というものは存在する.――今夜はまさしくそういう日だ.
だから何だ,という言葉を薄明は飲み込もうとして――
「熊にでも食われちまえ」
ダメだった.結局出力されたのはそういう言葉だ.
それに熊と満月は関係ない.
「ひどいなぁ」
薄明の知らない顔で,知らない声音で笑う土井が,薄明にはもう耐えられなかった.
「俺は寝る.――日が出る前には帰ってろよ」
薄明は土井に背を向けて寝転がる.
ふふ,と小さく笑う声を拾う.
「今度は,番をしろ,じゃないんだね」
訂正しないが,前も俺は番をしろとは言ってない.
* * *
――朝.
起きて早々,まだ気配があることに薄明はため息をついた.
「帰っとけと言ったよな」
「了承したとは言ってないよ」
にっこりと,土井は薄明に笑みを向むける.土井は,この表情が薄明にとって気に入らないことが面白くなってきた.今だって,反射のように一瞬薄明の眉間に力が入ったのを土井は見逃さなかった.忍として心底優秀な薄明が感情の制御もできなくなってるなんて!
「お前,仕事は?」
「休みだよ」
「なんで帰ってない?」
「今の私はそんなに嫌い?」
薄明は沈黙をもって返す.今も昔も,お前が嫌いだ――とは言わないけど.
「私に殺されてもいいとは思ってくれたんだろ」
「――――――」
黙れよお前,と,いいからもう帰れよが同時に口から出そうで,声になる前に喉の奥で言葉が対消滅した.
「だから,ずっとここにいたんじゃないのか? この場所を知っているのはもう私だけなのだし」
「浮浪者も寄り付かないぐらい辺鄙な場所だから便利なんだよ.もうお前ぐらいしか知らないし」
「それだけ?」
「これでもそれなりに恨まれてるもので」
それは本当.
あまたの戦をひっかきまわし,裏切り,城を落とし――悪いことは大概やって――別に,それでいたむ心は特にない.それが薄明だったし,そもそういう時代である.
こういう男の方が珍しいのだ――と思う.多分.
「……」
土井は,何とも言えない表情で薄明を見た.たくさん恨まれている自覚があって――その中で,私にだけは殺されてもいいと思っていたということに,何一つ反論をしていないこと.……気づいていないんだろうなぁ.
「何」
薄明は急に黙った土井を怪訝そうに見る.
土井はこれ以上この話をつつくのはやめ,肩をすくめるにとどめた.
伊達に何年も同じ釜の飯を食べていないだけあって,薄明の気質は十分承知している.不安定な火薬のような人である.この話題をこれ以上つつけば少なくとも怪我をする.引き際は大事である.
土井は話を逸らすことにした.
「いいや? ――生活を改める気は?」
「あんまない.金になるからな」
「命あっての物種だろ」
「金がなきゃその命すらままならん」
「そこまでして,何が欲しい?」
土井はこんな廃墟に住む薄明と,金がどうにも結び付かなかった.確かに,着ているものは上等だ.麻ではなく木綿の袴.佩いている忍刀も1からこしらえているはずだ――けれど,その一つをずっと使い続けているやつだ.
戦場に出て,人を殺めて――そこまでして,金を得る理由.これまでの働きぶりを見れば,相応に稼いでいるはずだ.なのにまだ,足りないと言う.
「お前に言う必要がないな」
にべもなく薄明は切り捨てた.
欲しいものはある.誰に教えるつもりもないが.
「心配を,している」
「は―――」
薄明は絶句した.この男,今,なんて?
神経を逆なでされたような嫌悪感が全身を這う.腹の底で,黒い澱が舞う.奥歯に力がこもる.
だって,と土井は薄明の,自分よりも短い髪に触れ,指先で遊ぶ.
土井は,わかっていて,その地雷を踏みぬいた.
「――君は女の子なんだから」
薄明は土井の手を勢いよく振り払うと,自身の親指の腹を土井の喉に押し付けながら殺気を込めてにらみ上げる.森の鳥が飛び立って,生き物の気配が遠のく.
「次同じセリフ吐いたらその首かっ裂いてやる」
刃物は出てこなかったな,と土井は冷静に状況を観察して,それから薄明が嫌うにっこりとした笑みをただ向けた.
* * *
「――で,なんで俺はお前とうどんを食べているんだ?」
「君の家,食糧何もないじゃないか」
あれから,土井と薄明は揃って街まで出てきていた.
「木の実の類や乾燥させた肉類は保存してるし,何もないわけじゃない」
「まさか日頃それしか食べてないとか言わないよね?」
薄明は沈黙をもって返した.肯定したも同然である.
「仕方ないだろ,あの場所で火は使いたくはないし」
「だからって……」
土井は頭が痛くなる気がした.心なしか胃も痛い.
「それにもうすぐ戦も起きる.そうすれば米も手に入るしな」
「君ねぇ……」
「第一,お前だって似たような生活だろ.とやかく言われる筋合いはないな」
薄明はうどんの汁まで飲み干して机に置く.そしてしばらくから箸が進んでいない土井の手元を見た.
「相変わらずだな」
「あはは……」
「貴重なタンパク源だぞ」
そう言って薄明は土井の丼の中に残されたかまぼこ2つを拾い己が口の中へ放り込んだ.
「それはそうなんだけどね」
「イナゴやバッタは食えるくせに」
「君はあまり食べようとしなかったね」
好き好んで食うものじゃねぇだろと薄明は悪態をついた.
「でもタンパク源だ」
「知ってるよ.だから食えないわけじゃない」
お前の
二人は店を出てしばらく同じ道を歩いた.たわいのない話を,何の気心もなしに話しながら.
やがて,道は二手に分かれた.
二人はいったん立ち止まってから,
「それじゃあ」
と薄明は言い,
「またね」
と,土井は言った.
そうして,それぞれの方向へと歩き出した.
日は南中を目指してのぼっている最中である.
二つの道の末は誰も知らない.
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