それはいつかの果て
があがあと夜烏が頭上で鳴いている.
血の匂いに,あるいは死の気配に引き寄せられたんだろう.野犬がかぎつけるのも時間の問題だな,と薄明は他人事のように思った.
――しくじった.
じんわりと脇腹に巻いた包帯に血がにじむ.血痕を残さないように茂みに潜みながら,なるべく遠くへと薄明は移動する.普段使う拠点ではない,もう少し外観がマシな
「――,」
意識が朦朧とするたびに,傷口に指を食い込ませて意識を保つ.
追手はない.一応すべて始末で来ているはずだ.だが,もし生き残りがいたら……―――いたから,今この有様なわけで,油断はできない.
そうして,鳥にも獣にも――もちろん人にも見つかることなく,夜が明ける前に何とかセーフハウスにたどり着き,戸を閉めると,そのまま扉に背を預けてずるずると座り込んだ.
* * *
「―――?」
土井は,いつもの拠点に薄明がおらず,そしてしばらく帰っていないことに気が付いて,はて,と首を傾げた.ここ最近は大きい戦はなく――小競り合いはしょっちゅうだが――しいて言うならドクタケが準備を始めているらしいという噂が立っているぐらいである.
最も,あらかじめ文を出していたわけでもなし,訪れて無人という可能性も考慮になかったわけではないが,長期的に不在にしているのはいささか不思議である.”浮浪者も寄り付かない辺鄙な場所で便利”とのたまう薄明の発言に嘘はなく,それを知っているから,余計に土井は首をかしげるのだった.
ざわざわと森が鳴る.今にも嵐が来そうな風だ.
土井はなんだか嫌な予感がして,土井が知っている限りの薄明の別の拠点を探してみることにした.
* * *
がたん,と揺れた振動で薄明は目を覚ました.ゆるゆると顔を上げて,電光掲示板を見ると”次は品川”と表示されている.
なんだ,だいぶ寝たと思ったけれど,降車駅までまだだいぶ先だな――そう思って,いやに乗客が少ないなと周りを見渡した.この時間ならもっとたくさん乗っているはずじゃないか? なのに視界に入る人影は全くない.この電車はもう回送電車になっていて車庫に行くところなのだろうかと考えて,すぐにその考えを打ち消した.
薄明は立ち上がって車内をゆっくり歩き,ボックスシートに腰を下ろした.窓の外は,街の灯がまだ煌々と瞬いていて,それをぼんやりと眺めた.横っ腹がじくじく痛む気がする.昼に食べた弁当がよくなかったのだろうか.それに少し寒い.いくらなんでも,冷房を効かせすぎじゃないだろうか.
せっかく誰もいないのだし,と鞄を開いて作業でもしようとしたが,ノートパソコンは職場に置いてきてしまったらしい.仕方がないので再びぼんやり外に目を向けた.それにしても
そんなことをうつらうつら考えていると,薄明の目の前に誰かが一人座った.誰だろう.こんなにも空いているのだからわざわざここに座らなくてもいいだろうに.
「こんばんは,良い夜ですね」
顔はなんだか靄がかかっているようでうまく判別ができなかったが,こんなに気さくに話しかけてくるのだから,多分知り合いの誰かなんだろう.
「こんばん,は?」
戸惑いがちに薄明は応じると,相手はうれしそうな雰囲気を醸した.子供のようなあどけなさだ.薄明は目の前に座る人物を子供と認識して――はて,と薄明は首を傾げた.子供の知り合いはいなかったと思うけど.
目の前の子供は,窓の外を指さした.
「ビルの明かりは星明かりの様でもあるね」
景色が流れていく.まだ煌々と明かりのついているビル群の間を電車が走り抜けて真っ暗闇を走り出した.やがて強い潮の香りが車内に満ち,波の音が徐々に近づいてきた.
「もうじき,静かの海にでるよ.そこでは金色の烏が見られるんだ」
子供がそういうや否や,暗闇ばかりの視界に金色が飛び込んできた.太陽の光が乱反射しているように,真っ黒な海の水面が輝いている.電車が近づくとともに,金の烏はばさりばさりと飛び立った.
「鳥捕りがいればなぁ.あの烏おいしいんだよ」
あまくて,すっと口の中で溶けてなくなるんだ,と懐かしむように言った.
「あなたにも食べてほしかったな」
「きっと次がある」
「だといいな」
海のそばを走っていた電車は,入り江を通り,それから川に沿うように走った.
「川登りのイルカの群れだ!」
川の流れに逆らうように,幾匹ものイルカが,互いに飛んでは水面に沈み,また飛んでは,水に帰りを繰り返して電車のそばを泳いだ.水しぶきがまるで金剛石を砕いたもののように煌めいていた.
突如,ウィーンと,低い耳鳴りのような音が響いた.うゎあん,うゎあんとその音は波紋のように広がった.川登りのイルカの群れの上を,大きな影が覆いかぶさった.視線を上に移すと,一頭の大きな鯨が空を泳いでいた.
「ひとりだね,あの鯨」
「自由な鯨だ」
「ひとりは,さみしいよ」
「お前は,寂しいか」
子供は黙った.だまって,鯨の姿が小さくなって見えなくなるまで目で追った.その鯨の姿はやはり薄明には,広い空を不自由なく,のびやかに泳いでいるようにしか見えなかった.それは幸福なことだろう.
川登りのイルカの群れもとっくに小さくなって見えなくなっていた.
再び,真っ暗な闇の中を電車は走る.やがて,遠くに赤く透き通って輝く,燃える火が見えた.
「蠍の火だ」と子供は言った.
蠍の火は知っている.なるほど,この電車はいつの間にか銀河を渡っていたらしい.きさらぎ駅行きでなくて良かったと思うべきか.
「みんなの幸いを願ってる火だ.あたたかいねぇ」
薄明はふん,と鼻で笑った.献身は薄明が嫌うものの一つだ.
子供は,そんな薄明を咎めこそしなかったが,少しだけ寂しそうにした.そして,懐から小さな紅い石を取り出すと,薄明の手に握らせた.
「蠍の火の分火を封じた石だよ.それがあれば,凍えない」
石はまるで炎を閉じ込めているみたいに,脈打つように,揺らめきながらやんわり暖かかった.
蠍の火はどんどん遠くに小さくなって,再び外は一切の闇になった.それからしばらくして,暗闇の中に点々と明かりが灯されて,それこそ本当に星々の中を走っているようだった.
ふと,どこからかシトラスの香りが漂ってきた.いつの間にか,あたり一面真っ赤な彼岸花の畑が広がっている.彼岸花が線香花火のようにぱちぱちと光っている.燃えた煙が,そのにおいの発生源らしい.
「きれいだな」
素直に,そんな感想が出た.火は好きだ.すがすがしい気持ちになる.
突如,窓を震わす爆音が,二度三度響いた.窓の外が炎で包まれる.
「カシオペヤの星が爆発したんだ」
赤く濁った炎が窓を吹き付ける.黒い煙を吐き出して,あたり一面を焼き焦がすような,そんな燃え盛る炎の中を列車は走った.炎が晴れると,荒野が広がっていた.視界に映るあらゆる場所で数々のビルが燃えている.たくさんの長屋が燃えている.山の上に建てられた城が燃えている.
ぶるり,と目の前の子供が身震いをした.
「怖いか」
「ちょっと寒くて」
薄明はさっき渡された,暖かい紅い石を思い出した.これがあれば凍えないと言うのなら――そう思って,首から下げていたそれを,外そうとした.
「だめだよ」
子供は,はっきりと,強い口調でそれを止めた.けれども強い口調を使うのに慣れていないのか,子供はすこし恥ずかしがるように,困ったように,代案を示した.
「……かわりに,その上着を貸してくれない?」
「それはもちろんいいけどさ」
薄明はスーツのジャケットを脱ぐと,子供に渡した.寒いと子供は言うけれど,薄明はどうにも感じなかった.それこそジャケット一枚脱いで渡せるぐらいには.それがこの石のおかげというなら,やはりこっちを渡したほうが良かったのでは,と薄明は首から下げられているほんのり暖かい石を指で遊んだ.
「冷房が効きすぎてるのかな」
「いや,きっと霧氷の森が近いんだ」
窓の外はにわかに明るくなった.森が白く輝いている.霧の一つ一つが仄かに発光して,あたり一帯を照らしていた.
ふわふわの毛玉がいくつも,たくさん,七色に光を反射しながら漂ってきた.
子供は電車の窓をあけて,それを一つ捕まえると,薄明に差し出した.
「鼈甲飴でできているんだ,おいしいよ」
見た目がふわふわな毛玉のようなそれは,よく見ると,細長い透明な針のようなものが放射状に延びていてそう見えるのだった.その針の一部をパキリと折って口へ運ぶ.舌に乗せた瞬間ほのかな甘みを残して解けるように消えた.
「ね?」
「あとはお前が食べるといいよ」
そういうと,子供は残りを口に含んで,「ずっとこのまま一緒だったらいいのに」と,とろけるように笑った.
がたん,ごとん.
がたん,ごとん.
がたん,ごとん.
薄明は頬杖を突いたまま,しばらく外をボウと眺めた.この電車の終着駅はどこだろう.そんなことを思った.
「ねぇその切符をちょうだい」
しばらくの沈黙ののち,唐突に目の前の子供はそんなことを言った.
切符?と薄明は首を傾げた.何を言っているんだろう.今時切符なんて買って電車には乗らない.
けれども子供が指さす先,薄明の鞄の小さなポケットに,一枚の紙切れが挟まっていた.確かにこれは切符である.
なんでこんなものが,と思いつつ薄明はそれを渡すと,「じゃあこれ」と,4つ折りの緑色の紙を渡した.折り目を開いてみてみると,子供の落書きのような渦巻のような模様と,十字がいくつも描かれていた.ずっと眺めているとなんだか吸い込まれそうな感覚になって,薄明は紙を閉じた.
「……これは?」
「切符だよ?」
子供はとぼけたように,からかうように,そう言った.
「ほら,もうすぐ車掌がくる.その切符を見せてあげて」
その時,車両の向こうから,身長は2 mはあるだろうかという大男がのっそり歩いてきて,薄明たちの座る席で立ち止まった.
薄明はおずおずと先ほど子供から貰った切符を渡すと,車掌はそれを持ってしげしげと眺めて,それから子供の方を一瞥した.子供は何も言わずただ頷いて,車掌は少しだけ目を細めたようにも見えたが,やはり何も言わず,その切符を切った.
――ばちん
* * *
がたん,という大きな音がして薄明は目を覚ました.がたがたと戸が揺らされている.建付け悪いよねぇ.寝ぼけた頭で,ぼうと,その様子を観察して,何とか開いた扉の向こうの人影を認識して,薄明は目をしばたかせた.
――土井半助.
そう名前を貰ったと告げに来たのは,もう去年か一昨年ぐらいになる.それ以降も1回か2回は会った――というか土井が
「起きた?」
薄明はボウとする頭のまま首だけを動かして,状況を確認した.なんでかは知らないけれど,布団で寝かされている.囲炉裏に火もついている.自在鉤に鉄瓶がつられており,井戸水の煮沸に使ったのだろう.水は一度沸かしてから使えと,俺が昔教えた.だいぶしっかり看病されているらしい.――なぜ.
「なんでここに?」
この拠点を知っているのはわかる.いくつか持っている俺の拠点の一つ,土井に教えたこともある.だけれど,なぜ今,このタイミングで,こいつはここにいるのだろう?
土井は無言で薄明の横で胡坐をかいた.
そうして,しばらくの無言の後に,やっと声を絞り出した.
「――死んでいるかと思った」
実際危なかったな,と薄明は思って視線を彼方に泳がせた.軽口をたたくには,まだ全身が重たい.布団から起き上がろうとして,そんな気力は何一つなかった.指先1つ,今は動かすのが億劫だ.
「ここ最近は大きな戦もなかったはずだが」
何でそんな怪我をしているんだと問いかけてくる土井に,何があったんだっけ.と薄明は思い出そうとした.けれども薄明はまだ頭がぼんやりしていて,思い出そうとしても,光輝く霧氷の森や,金色の烏などが脳裏をよぎって,どうにもうまく思い出せなかった.
「なん…だろうな,私怨であることには違いないんだろうけど」
「お前ねえ」
「ちゃんと始末はつけたよ.多分.つけてなかったらそれこそもう死んでるだろうし」
「お前な!」
でかい声をだすなよぉと薄明は顔をしかめて小さい声で抗議した.
「そんで? なんでここにいるのか聞いてないんだけど」
「偶然だよ.いつもの場所に行ったらしばらく帰ってないみたいだったから」
「それだけ?」
土井は本当にそれだけの理由でしかなかったので,ただ頷くほかなかった.教えてもらったことのある拠点にいてくれてよかったと,心から思うのだ.
「……今何時?」
「夕七つだよ」
なるほど,と薄明は納得した.ほぼ1日気を失っていたらしい.
「起きる? ――起きれる?」
「いや,いい.寝返りすらうつのが面倒だ」
「でもご飯食べたほうがいいから起こすよ」
「ねえ,俺に聞いた意味は!?」
土井が布団と薄明の背の間に手を入れて上体を起こすので,薄明はわめいた.同時におなかに力が加わったものだから,刺されたわき腹が痛んで渋面を作りうめいた.
「傷が開くからおとなしくしろ」
「誰のせいで」
恨みがましい視線を薄明は土井に投げる.
土井は意に介さず,自在鉤につるされた鉄瓶の白湯を湯呑に入れて薄明に渡して,それから自在鉤に鍋を吊るして雑炊を作り始めた.
「味は濃い方がいい」
「知ってる」
ぱちぱちと炭が燃える音がする.
「炭なんてあったんだこの家」
「お前の家の一つだろ?」
何で知らないんだ,と土井はあきれた.
薄明は渡された白湯を息を吹きかけて冷ましながらちびちびと飲んだ.
「食料はどうした.さすがに置いてなかったと思うけど」
「知り合いに頼んだんだ.お前だけ残してどこかに行くわけにはいかなかったし」
「……そう」
「教えちゃってごめんね?」
別に,と薄明は言った.ここはもう使えないかもなぁとは思ったけど,土井に教えた時点で,いずれこうなるのは想定済みだ.拠点はほかにもある.
そんな薄明の様子が気に入らなかったのか,土井は「吹聴するような人じゃないよ」と言った.
「気にしてない」
「してる顔してた」
「気のせいだろ」
「いいや,してたね」
「やかましいなお前」
「はあ!?」
誰の!せいだ!と憤る土井に,薄明は顔をしかめて,うるさいと表現した.
「ところでまだ? おなかすいた」
「自由か」
もう少し待て,と土井は言った.もうだいぶいいにおいが漂っている.
薄明はぐるぐると鍋を混ぜる土井の横顔を眺めながら,甲斐甲斐しいよなぁと思った.もともとは人を使う側の生まれだろうに,どこでそんな献身性を身につけたんだろうか.
「何?」
視線が気になってきた土井は薄明に顔を向ける.
「別に」
「そう?」
「うん」
土井は土井で今日の薄明は素直だなぁなどと思っていた.おなかすいているからかな.もう少し米をふやかしたいところだけど,もういいか.
完全に幼子の扱いである.土井は時々,薄明が自分より2つほど年上だということを忘れる.
「ほら,熱いから気を付けて」
椀に雑炊をよそって土井は薄明に渡した.薄明は匙でほんの少しだけ掬ってちびちびと食べ始めた.その様子を見て,まるで野良猫の水飲みみたいだなと土井は思った.薄明は猫舌である.
普段の3倍ぐらいの時間をかけて,薄明は雑炊を完食した.そのころには,調理に使った鍋も綺麗に洗い終わって,自在鉤には再び鉄瓶が吊られていた.
「そこに痛止めの薬と,解熱剤を置いといたから」
「……どうも」
至れり尽くせりだな,と薄明は思った.この調子だと腹の包帯も換えようとしてくるかもしれない.
「外に干した包帯を戻してくる.そろそろ乾いているだろうから」
「……煮沸したの?」
「お前がそうしろって教えたんだろ」
「そうだけど」
律儀だ,と薄明は思った.本質的な理解はできていないだろうに.
今の状態はどうなっているんだと,腹の傷を確認すると,包帯は赤黒く染まってカピカピに乾いて固まっていた.
乾いた包帯を手に,土井が戻ってきた.
「包帯は外さない方がいいかもな.みて,完全に乾いてる」
「うわ……,これも薬の隣に置いておく.折を見て交換したほうがいい」
土井は乾かしていた包帯をくるくると器用に巻いて置いた.
「それから――」
「まだあるのか」
「お前が死にかけてでもしてなきゃなかったんだが」
久々に会うというのにこんな再会だった私の気持ちも考えろと土井が言うので,知ったことかと薄明は返した.お前が勝手に来ているだけだ――とは喉元まで出かかって言わなかった.
「食料はあと3日は余裕で持つぐらいは置いてある.米とか,干物とかだから,腐る心配はあまりしなくていい」
「練り物は」
「ないよ」
食い気味の否定だった.想定通りではあるけれど,練り物の”ねり”の時点で否定してこなくてもいい.
くつくつ,と薄明はのどの奥で小さく笑って,「そこの,戸棚の下」と指さした.
指さす先に土井は移動し,戸棚を開ける.
「の,その板を外して」
いわれたとおりに戸棚の板を外すと,長辺1尺程度の長方形の蓋のない木箱が置かれており,無造作に銭が入っていた.よくよく見ると銀貨も混じっている.土井はめまいがした.金にがめついくせに,金の管理があまりにも杜撰すぎる.
「こんなところに無造作に入れるんじゃない!」
「適当にもってけ,足りるだろ」
「いらないよ」
「貰っとけよ」
「そういうつもりで助けたわけじゃない」
「うるさいなぁ」
こいつ…と土井は思った.こんな言われをするぐらいなら,確かにいくらか貰っていってもいいかもしれない.そう思って,適当に何文か拾おうとして,
「じゃあ,後はおとなしくしてろよ」
と,土井は出口の方に向かった.その後ろ姿を見て,薄明は思わず「帰るのか」と言った.その言葉に,土井は振り返って,目を真ん丸にして薄明を凝視した.薄明も薄明で言ってから,秒で後悔した.あまりにも柄じゃなさすぎる.懐かしいものを見たせいでセンチになっているんだ.
薄明はすぐさま首を振って,前言を撤回した.
「いや,なんでもない.早く帰れ」
「いいよ,子守歌でも歌ってあげようか」
扉にかかっていた土井の手は降ろされ,土井は再び土間に上がって薄明の横に座る.
「いらない,いい,帰れ」
「そんなこと言わずに.あっ,横になるの手伝おうか」
「いらん! ―――〜〜っ」
急に腹に力を込めてしまったものだから,そこから電気が走ったみたいな痛みが貫いた.
「どうかしてた.気にするな.帰れ」
ぺっぺと薄明は手を払って帰れと仕草でも伝える.
「遠慮するなって」
「してない」
そんな押し問答を,もう数ラリー続けて,ようやく薄明は布団に横になった.
とっくに日はとっぷりと暮れている.土井は本当にこのまま居座る気のようだった.しかも,見るからに上機嫌である.……なんで?
ああもうなんでもいいやと,半ば投げやりのような気分で薄明は大きく息をついた.
ぱちぱちと炭が燃える音が聞こえるぐらい,静かな時間.
なんだかとても,穏やかだなと薄明はぼんやり思った.
睡魔が緩やかに襲ってくる.線香花火の曼殊沙華,空飛ぶ鯨,――
未練がある.未練と言っていいのだろうか.昔の,――
「お前は,――ないのか.忍びとして生きる前の生活に」
戻りたくは,と,うわごとのように薄明は言った.薄明の目はほとんど閉じかけていて,独り言のようで,土井は,薄明の真意を測りかねた.
「君は……」
薄明の瞼の裏にまだあの列車の景色がある.
あの列車の,もう一人きりになってしまったボックスシートで,その子供が泣いている.
私の猫が鳴いている.喉いっぱいに叫んで泣いている.
寂しい場所においてきてしまった,たった一人の相棒.
やさしいセロのような声の博士は現れない.
――それでも,あらゆる人の一番の幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい.
ゆるりと薄眼を開けて,ほんの,本当に少しだけ,いつかの飼い猫に似ている男を横目に見る.
お前の切符を
「ばかだなぁ」
そういって,薄明の目は再び閉じられた.
薄明が自分を通して何か別のものを見ていることに土井は気づいていた.
それでも,あんまりにも優しい薄明の声に,土井は息をするのを忘れた.――そんな声を出せるのか,君は.
ああ,くそ,と土井は顔を覆った.
「私を通して他人を見るな」
すっかり寝入ってしまった薄明にその言葉は届かない.
* * *
薄明が目を覚ました時,とっくに日は南中を通り過ぎていて,土井の姿はさすがにもうなかった.
しばらくはここで療養だな,と薄明はすぐには治らなそうな傷を見てため息をついた.
換気のためにと扉を開けると.野良猫が一匹,扉の外でくつろいでいた.薄明に警戒する様子もなく毛づくろいをしているさまを見て,野生はどうしたと薄明は半眼になった.
外に出てこない薄明を不思議に思ったのか,猫はみゃおと一鳴きして薄明の足元によって見上げてきた.
(何故寄ってきた……)
おなかが空いているのだろうか.けれども何か食料を与えてもその後の面倒が見れるわけではない.
どっか行け,というように薄明は手で追い払う仕草をすると,猫はすこしびっくりしたように遠ざかった.けれども数m離れたところで立ち止まってこちらを振り返るので,薄明は再び追い払う仕草をした.今度こそ猫は森の奥へと消えていった.
――そうだ,ひとりで行け.
「俺はお前のカムパネルラではないからな」
薄明は水を汲み出して,囲炉裏の鉄瓶に入れ一息ついた.
薄明の今日はようやく始まろうとしていた.
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