痛いの痛いのとんでいけ。親が子供にかける魔法の呪文。そもそも飛ばすはずの「痛み」を感じることのできない俺には必要のないものだった。
「……でも、それでも矢後くんが痛くないって理由にはならないと思うな」
「……はぁ?」
言っている意味が分からなくて、正直な気持ちが言葉になって零れ出た。そいつは俺の態度を気にする素振りもなく、その小さな手を俺の頭に乗せてくる。
「よし、よし。いいこいいこ」
「意味わかんね」
「知覚できなくても傷はついているものだから。痛くなくても血は流れているから。気付かずそのままにしてきた痛みが矢後くんを今、苦しめているなら私が取ってあげる――痛いの痛いのとんでいけ」
泣かない子供と飛べない小鳥。泣けない子供と鳴けない小鳥。これは二人の物語。
おもしれーケンカできんならそれでいい。中学のころ頼城に提案されて始めることになったヒーロー活動で、おもしれーケンカすることができた。ジュージツした高校生活ってやつだ。卒業したらどうするかなんて考えたことは全くなかった。血性の関係でヒーローの活動は高校生で終わりだという話は頼城あたりがギャーギャー言っていたから何となく知っている。とりあえず、ケンカする。期限ぎりぎりまでイーターを倒しまくる。そう思っていたのに、高校三年生の冬、俺は一足先にヒーローを引退することになった。
「……はぁ? なんでだよ。なんで俺が引退しなくちゃいけねえわけ?」
「『痛い』んだろう? 矢後くん」
「……」
「その沈黙は肯定と取るよ。……君の身体は元々戦闘に耐えられないんだ。それを痛みを感じない体質で誤魔化して戦ってきたんだ」
俺の身体がポンコツだということは知っていた。そのポンコツな身体がぎりぎりで動いて、ケンカすることができるのは痛みを感じないからだという事も。人間の身体にはリミッターがあって、身体が壊れないように力加減をするらしいのだが、俺はその機能が働いていなくて人並外れた馬鹿力を出すことができる。その代償として筋肉がちぎれても出血していても骨折していても平気で動けるのだった。その強みをなくして、さらに気管支炎という爆弾を抱えている俺は、指揮官からしたらとても扱い難いだろう。一年とかならまだしも、三年の冬だ。タイムリミットまでもう時間がなく、大半の三年は後輩に引き継ぎを行い始める時期でもある。だから、大人が、俺を用済みしてポイと捨てるのは納得できた。ケンカに弱い奴はいらねぇもんな。
「君にはもう、ヒーローを引退して貰うよ、矢後くん」
色彩のない、面白みのない日常が戻ってきてしまった。俺が引退したら繰り上げで久森が総長になって、そのことに対してすげえ顔をするんだろうなってことだけが俺に残されたおもしれーことだった。
リンクユニットを血に取り込むことで変身する。リンク中は地球と繋がっていて、その際に地球に飲み込まれるとこっちに戻ってこれなくなる。一般には公開されていないその事実で耳にタコができるくらい聞かされていた話を、まさか自分がやらかすとは思っていなかった。ケンカのときはケンカのことだけを考えているから、俺がそんなんなるわけねーだろって。いつもは次の攻撃をどう叩き込むかしか考えていなかったのに、その日はちょっと雑念が入って、一瞬「無」の状態になった。ぐわん、と世界が揺れて感じたことのない衝撃を感じて、炎になぶられているような状態が「痛み」なのだとその時初めて知った。まあ要するに、地球に飲み込まれそうになってギリギリのところで脱出、その際に代償として痛みを感じない特殊能力を持っていかれたのだ。
「あー、だりぃ」
寮の自室の中で横になりながらの一言。熱っぽい身体を持て余し、ベッドでだらだらと時間を浪費していた。引退になってもすぐに合宿施設を追い出されるわけじゃない。めんどくせー手続きが山ほどあるらしいし、久森にたいして引き継ぎもあるんだと。大抵のことは久森に投げていたし、引退の手続きも久森に任せているし、別に俺からあいつに言うことなんて何もない。けれど、それが大人の「気遣い」だという事も、俺が馬鹿でもわかってしまうのだった。
「矢後くーん、いますか?」
コンコン、と部屋の扉がノックされる。若い女の声。寮の管理人だ。最初、ここの管理は指揮官に任されていたのだが、指揮官も指揮官でパトロールの随行なりなんなり仕事があり、常に寮にいることができない。すると困るのは食事の問題だ。野郎が十五人集まったところで家事能力なんてたかが知れている。数人料理を作ることができるやつもいたが、そいつらに任務があるときはどうしようもなかった。そこで寮の管理人を雇うことにしたということだ。
「矢後くーん、無視しないでくださーい。お部屋お掃除させてくださーい!」
何故こいつが馴れ馴れしいのかというと、俺が頻繁に寮にいて接する機会が多いからだった。今日みたいに学校を休んだり遅刻することも多いし(風雲児では当たり前のことだが)、入院した時に指揮官代理で見舞いに来たりする。年が近いこともあって、女だけれど取っつきやすい相手ではあった。
「居留守使わないでくださいよ! もう」
無視を決めたら合鍵を使って侵入してきた。料理だけでなく、寮の管理全般を任されている管理人にはマスターキーが渡されている。最初は男の部屋に――というよりは家主がいる状態で掃除に入るのは、と遠慮がちだったこいつだが今では勝手知ったるなんとやらで容赦がない。
その容赦のなさは思春期男子に容赦なく振るわれ、ベッドの下に隠しておいたエロ本が「本が汚れてしまいますよ」というメモとともに机の上に置かれていたという事実が一部を除く全寮生を恐怖に陥れた。なるべく管理人に掃除に入って欲しくない、その思いから自室の清潔さの水準が高くなった、みたいな話を聞いた。伊勢崎から。ちなみに伊勢崎は「ガラクタは処分して頂けませんか?」と言われて傷ついたって言ってた。
「学校は? なんてことは言いませんからちょっと部屋から出て行ってくださいね。矢後くんがここ数日引き籠るせいでお部屋お掃除できていないんですからね。埃とか身体に悪いでしょう?」
窓を開けて、ベッドに近付いて。いつものように管理人は俺に触れようとする。掃除のために追い出そうとする。……馬鹿な女だ。地球に食われた俺は前と同じ俺ではないのに。それを他の奴らは知ってるからここに閉じ込めているというのに。
「矢後、くん?」
「うるせえ」
手を引っ張ると簡単に管理人は俺の元へ転がり込んできた。丸く大きな目は、捕食される生き物の瞳をしていた。痛みを感じない、感覚が鈍い。すべての感覚がないわけではないが、鈍いものもある。元々鈍く、戦闘で発散されていたこともあって今まで問題にしていなかった性欲が、感覚が戻ってきてから身体を蝕んでいたのだ。はっきり言うとこれはケンカを取り上げられた八つ当たりで、感情の処理が下手の子供の八つ当たりでもあった。
「お前が悪ぃんだろ。黙って食われてろ」
「えっ? ええーっ!」
騒ぎ始めた管理人の口を自身の口で塞ぐ。気持ちいい。脳が溶けていく。熱い身体が更に熱くなって何もわからなくなる。これだけの問題を起こしたら、はやくここから解放されるはずだ。戦えもしないのに他人の戦いを見てろだなんて、そんなこと。俺は。ゆるさね……。……。
まだ俺は寮にいる。どうやら管理人はあの事を誰にも言わなかったようだ。他のやつらが返ってくる前に仕事をすべて終わらせたようで、誰にも気付かれなかった。最初は数日おき、今ではほぼ毎日。管理人をベッドに引き込んで、俺はそういうことを繰り返していた。最初は熱に浮かされた体が、言うことが効かなかっただけで。でも、一度その感覚を知ってしまったらずぶずぶと溺れていくだけだった。俺の身体は痛覚を感じない。それに引き摺られて感覚が鈍い。そんな状態にいきなり強い刺激を与えたらどうなるかわかんだろ?
「……なあ、お前」
「なんですか?」
「俺が言うのもなんだけどさぁ……バカ?」
「散々好き勝手しておいてその言い草はさすがに怒りたくなりますね!」
今までは怒っていなかったのだろうか。俺の表情を読んだらしい管理人は、答えを述べた。
「怒ってますよ。怒ってますけど――『慣れ』ちゃったんです」
「はぁ?」
「私、矢後くんと同じ特殊体質でしてね。と言っても、そんないいものではなくて不幸体質なんです。家族の死から始まり、ありとあらゆる不幸を味わってきましたよ。だからこのくらいじゃあもう心が揺れないって言うか、ここでのお仕事、楽しかったからその反動だなあって思うと仕方ないなあって思うんですよね」
はは、と管理人は乾いた笑い声を漏らす。そしてその後「ここでの生活は本当に楽しかったのになあ」と、目に涙を浮かべた。痛みがどんなものか知った今、俺はこいつがケンカしてるときの俺の身体くらいズタズタになってるんだろうな、と思った。きっとその痛みは一生忘れられない傷となる。俺がもうすぐここからいなくなって、次の世代のイーターとケンカできる奴がやってきて、その時に管理人はここにいて。管理人の中に俺がいたら、俺もここにいるってことになんだろ? たぶん。
痛いの痛いのとんでいけ。親が子供にかける魔法の呪文。そもそも飛ばすはずの「痛み」を感じることのできない俺には必要のないものだった。持っていなかった痛みをなんの不幸か与えられた今。それを誰かの中に刻み込んでやりたいと、歪んだ欲望が湧いてきた。
痛いの痛いのとんでいけ。こいつの中で、俺を風化させないでくれ。
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