※2019年5月に頒布した合同誌のweb再録です

 ジイジイとセミが鳴いている。夏休みを利用して祖父母が住んでいる田舎へと帰省してきたのが数日前のこと。近所にある山の中を探検したいと両親に駄々を捏ねて、母親が付き添うことを条件にやっと許して貰ったのだった。
「あんまり先行っちゃだめよ」
「うん!」
夏の日差しは厳しいから、と風が吹けば飛んでしまいそうな、私の頭より少し大きい帽子を被せられていた。足場の悪さなんてものともせず、ぴょんぴょんと跳ねて先へ先へ進んでいく。
「……ちゃん、……ちゃん!」
「なぁに、ママ」
 遠くから母親に名前を呼ばれた気がして振り向いたけれど、そこには姿も形もなかった。
「きのせいかな」
 この時の、五歳の私は未知なる森への興味でいっぱいで、親から離れると危ないだとか、遭難したらどうするとか、そういうことは一切考えていなかったのだ。気の向くまま赴くまま、森の中をさ迷い歩く。どれだけ時間が経っただろうか。空腹で我に返って、そこで初めて母親の存在を思い出した。
「ママ?」
 返事はない。
「ママ、どこにいるの?」
 日が暮れかけている森は、昼間と違って薄気味悪い。なにか、危ないものが出てきそうと恐怖を掻き立てる。そういえば、きょうぼうなやけんがでるってパパ言ってたかも。
「ふぇ……」
 空腹と、母親とはぐれた不安と、「きょうぼうなやけん」への恐怖に私は思わず泣いてしまった。泣いたところで体力を使うだけだし、どうにかなるはずないんだけど、でも幼い私には感情を表現する手段が泣くという手段しかなかったのだった。ひとしきり泣いた後、私は何かに導かれるようにして山をさらに上っていった。子供の足でもそうかからないところに古い――否、廃墟になっている神社があった。
 ここならパパとママ、私を見つけてくれるかな。
すべてが同じように見える木々の中にいるよりも、建物の中にいる方が目印があって見つけやすいだろう。そう考えた私は本殿の中に入って蹲った。そうしているうちに眠りに落ちていった。

「ねえ、ねえ」
「んん……」
 ゆさゆさと身体を揺すられる感覚で私は目を覚ました。暖かくて柔らかいベッドの上ではなくて、冷たくて固い床で眠っていたからか、身体がギシギシ痛む感じがした。
「ママ?」
「ちがうよ。きみ、なんでぼくの家の道場でねてるの?」
 寝ぼけ眼をこすりつつ、母親を呼べば返ってきたのは少年の声。ぱっちり目があいてから声の主を確認すると、ちょうど半分で赤と白と色が変わっている不思議な髪を持つ男の子と目が合う。彼は瞳に左右違う色を持っていて、さらに目のところに酷い火傷を負っていた。
「いやっ、ばけもの!」
 私の周りには黒い髪の人ばっかりだった。幼稚園のお友達のかなちゃんみたいに茶色の人とか、近所のふりょーの金色の髪の人とか、おじいちゃんやおばあちゃんみたいに白い髪の人とか、染めていて一房だけ違う髪の色の人はいたけれど、二つの色の髪の人なんて見たことない。
 目の色が左右で違うのも化け物みたいで怖かったし、火傷のあとの色の違う引きつった肌がさらに恐怖を掻き立てた。今思えば失礼にも程があるのだが、子供の時の私にはそんな配慮はできない。びっくりして泣きだした私を、その男の子はどう扱っていいのか分からないみたいだった。
「おい、焦凍。騒がしいぞ」
「あ、お父さん」
「……誰だ、そいつは」
「知らない。朝、ここに来たらねてた」
「ここで?」
 ジロリ、と鋭い目つきで大きな男の人は私を睨みつけた。この人は、赤い髪。目の前の男の子よりは不思議な感じはしないけれど、とにかく顔が怖かった。だから私は我慢しきれなくなって、さらに声を上げて泣き始めた。
 その後の騒ぎは、あんまり覚えていない。怖い男の人が轟炎司さんと云って、ナンバーツーのプロヒーロー・エンデヴァーだったこと。私を最初に見つけてくれた男の子が彼の息子の焦凍くんだったこと。そして日本中のどこをどう探しても私の名前の戸籍がなかったことはあとからゆっくり知っていった。
 私はこの世界に存在しない人間だったのだ。
 そうして五才だった私が中学一年生になり、二つ上だったらしい焦凍くんが中学三年生になったときに時は進んでいく。
 真新しい制服姿を身に纏った姿を鏡で確認する。容姿、地味。でもパーツを見るといいじゃんって思えるところあるし、可愛いとは思いたい。運動はかろうじて平均よりちょっと上かもしれないけれどパッとしない。勉強は養ってくれている炎司さんが怖くて真面目にやっていたからかなり自信はある。
 無個性で、五才より前の記憶がなくて、プロヒーローの家に同居させて貰っているという家庭環境はちょっと特殊かな。でもすべての要素を平均すると、普通の女の子だと思う。
「おい、何ぼーっとしてんだ。学校遅刻するぞ」
「してないよ」
「小学校より遠くなってるんだから、早く出ろってちゃんと昨日言っただろ」
「む〜。偉そうにしちゃって」
「兄貴だからな」
 ふっと笑った焦凍くんの顔は、街を歩いていると見知らぬ人に騒がれるくらいだから整っているんだと思う。だけど私には、彼を特に格好いいと思うことができない。
「はあ、中学校嫌だなあ」
 憂鬱な気分がうっかり言葉となって飛び出た。憂鬱なのは中学がぎりぎり徒歩通学圏だったからではない。別のことである。焦凍くんと肩を並べて学校まで向かっている途中だったので、焦凍くんが私の言葉に反応した。
「なんでだ?」
 これは純粋な疑問だということが分かる。すべてを与えられて生まれた彼には、きっと想像もできない感情だろう。黙秘権を行使しようとしたが。焦凍くんの無言の圧がそれを許さないのだった。
「だって無個性って絶対いじめられるもん。小学校の時もそういう空気感あったし。中学生にもなるといじめのレベル上がりそう……」
 この世界では個性と呼ばれる特殊能力を持っているのが当たり前だ。その中で個性を持たずに生まれてきた人のことを無個性と呼ぶ。祖父母世代でも半分以上の人間が個性を持っているこの世界の中で、私と同世代で個性を持っていない人はほぼいなくて、個性持ちと比べるとどうしても悪い意味で目立ってしまうのだった。他より優れているならいざ知らず、劣っている人間を守ってくれる人格者など、そうそういない。
「何かあったら俺に言え。守ってやるから」
「焦凍くん……」
 けれど、その稀な存在が隣にいるのであった。
 私は五才の時、山の中で母親とはぐれた。母親を探して歩き回り疲れて寝た後、なぜか轟邸の道場で発見された。幼い私が個性について全くの知識がなかったこと、個性を持っていなかったこと、私の証言を真実だとするなら、不自然な距離の移動から、なんらかの有力な個性を持っていてそれを奪われた際に記憶を改竄されたのではないか……というのが当時の警察の見解だった。
 きっとそれは間違っていないのだと思う。幼い私の持つ常識は、この世界の常識と全く違っていたのだから。身体は人間なのに頭部が動物だったり、化け物としか思えない姿の人物が「人間」として当たり前に受け入れられていることが信じられないのだ。常識が全く異なる世界に移動してきたという可能性よりは、私自身の記憶が弄られている可能性の方が高いと自分でも思う。
 知らない場所に記憶を奪われて連れてこられ、母親を求めて泣き喚く私のことを第一発見者である焦凍くんは大層心配した。そして父親にどんな物言いをしたのか知らないけれど私を養子として迎えることに成功したのだった。
 後から知ったことだけれど、焦凍くんはとある事情によって母親と引き離されていたから、私の境遇に同情したのだと思う。母親を求める姿が過去の自分と重なって、それで捨て置けなかったのだ。
「いつもありがとう、焦凍くん。ごめんね」
「謝る事じゃねえ。お前は俺の妹なんだから」
「うん」
 何かあると焦凍くんは私にそう言ってくれる。でも私は罪悪感で胸が潰されそうになる。母親だけでなく兄姉たちからも引き離されて育っている焦凍くんから本当の家族を奪っていることになっているんだから。優しい彼の愛情は、本当は私に向けられるためのものではないのに。

 結論から言うと、私が虐められることはなかった。
「ほんっとうに轟くんの彼女じゃないのね」
「本当です。焦凍くんは兄です。名字も一緒でしょう?」
一緒に登校してきた姿を見られてクラスメイトどころか先輩にまで呼び出されて関係を聞かれる始末。けれど珍しい名字と。
「おい、まだかかんのか」
「焦凍くん」
「えっ、と、轟くん!?」
「俺の妹に何の用だ? まさか暴力とかふるってたわけじゃねえだろうな」
 私が今まで見たこともない鋭い目つきで先輩方を睨みつける焦凍くんのお陰で事なきを得た。私の前にいるときの焦凍くんは表情が読めなくても怖くはないのだが、機嫌が悪いときはまた別らしい。ヒーローなのにお世辞にも人相がいいとは言えない彼の父親にそっくりな凶悪な目つきで睨まれたら、恐怖のあまり皆逃げ出すだろう。現に今も、私を強気に睨めつけていた先輩方がしおらしくなっているのだから。
「そんなことない! ちょっとお話してただけよね」
「ええ、そうですね」
 私が呼び出されると物語の王子様の様に駆けつけてくる焦凍くんが妹と宣言をすることで、すぐに私が彼の妹と云うことは広まった。彼の妹と云うことは、私はナンバーツーヒーロ―のエンデヴァーの娘と云うことにもなる。全く優しそうに見えないどころか、怒らせたらやばそうで、かつ法廷で戦うための社会的地位も資金も潤沢にある彼の娘を虐める人は出てこなかった。世界は弱者に厳しく強者に優しくできているのだ。
「中学の勉強難しいだろ。わからねえとこは教えてやるぞ」
 夕食を終えて自室で宿題をやっているとノックもせず焦凍くんがやってくる。鍛錬終わりらしい彼は、かろうじてタオルは引っ提げているものの、男性にしては長めの髪からぽたぽたと滴を垂らしていた。
「わかんないところないから、髪ちゃんと拭いてからでてきてよ」
「別に平気だ」
「焦凍くんが平気でも他の人が平気じゃないの。誰が床拭くと思ってるの」
 床を拭くのは長女の冬美さん。入院している焦凍くんのお母さんの代わりにこの家の家事をやってくれている人。私は簡単に焦凍くんにこういうことを注意することができるけれど、冬美さんたちはそうもいかない。本当の家族なのに他人の私よりも気を遣って生きている。
「……俺じゃねえことは確かだな」
 私がいなくても難しい距離間なのに、私がいるからさらにこの家族は距離感を図りかねている。父親によって引き裂かれたきょうだいたちは、私という異物に遠慮して弟に近寄れなくなって。末っ子の彼は私に過去の自分を重ねて、私を守ることで過去の自分を守っている歪な家族だ。
「でしょ」
「次からは気を付ける」
「わかったならよろしい。後、ノックもよろしくね?」
「してなかったか?」
 この距離感の近い会話だって本当は、冬美さんとするのが自然だろうに。焦凍くんが優しくしてくれるたびに胸がジクジク痛む。彼が与えてくれる居場所は本来なら私がいてはいけないものだ。
 帰りたい、と思った。母のもとに。こんなことを気にしなくても生きていけるところへ。私があの日駆けだしていなかったら一緒に過ごすことができた本当の家族の元へ。
「おい、どうした」
「なんでもない」
 突然泣き始めた私のことを焦凍くんはどう思っているだろう。よしよしと優しく頭を撫でられ、さらに胸が痛むのであった。

 平穏とは長く続かないものだ。焦凍くんが卒業して高校生になって数ヵ月。無個性の私はやっぱりいじめのターゲットになったのだった。一年生のころ仲良くしてくれていた友人たちが先陣をきって活動し始めたのを見て「ああ、私は焦凍くんと仲良くなるための駒だったんだな」と理解した。焦凍くんは私に対してはうんと優しかったけれど、他の人は男女問わず会話することがほぼなかった。校内で見かけたときはいつも一人で荒んだ目をしていて、話しかけるのすら躊躇うほどだった。結局のところ私は、特別な存在である焦凍くんの特別な存在であるのをアピールしただけで、彼女たちの期待沿うことはできなかったし、彼が卒業した今は存在価値なんてない。この世界で焦凍くん以外に私に価値を見出してくれている人はいない。
 でも、もし私にお母さんがいたら違うのかな、と思ってしまうのをやめられなかった。子供を愛してくれる親ばかりでないのは知っているけれど、声すら覚えていない母親が私を呼ぶときの、愛を孕んだ空気が忘れられないのだ。
「ちょっと親がプロヒーローだからって無個性のくせに調子に乗らないでよね」
「それに血、繋がってないんでしょ?」
「え〜まじで」
 トイレで、頭から水をかけられるなんてあまりにも典型的すぎる。濡れた制服が肌に張り付くのが気持ち悪い。もし私が義父と同じ個性を持っていたら乾かすことができたのに。自分が個性を持っていないことについては、私の記憶の中にある世界の常識と照らし合わせて当たり前だという感覚しかないが、汎用性の高い焦凍くんを見ているとこういう時には不便だなあと思う。
「……」
「なによ。文句があるなら言ってみなさいよ」
 元友人たちが一体どんな表情でその言葉を言ったのか気になったけれど、私は彼女たちの顔を見ることができなかった。それはかつて親しくしてくれた友人たちが自分を嫌悪しているのが辛いとかそういう少女めいた繊細さが理由ではなくて――単に、彼女たちの中に異形型がいるからだ。
 そう、私は異形型が恐ろしいのだ。同じ人間として認識することができないのだった。
 母親とはぐれる前の私の記憶では、カラフルな頭髪も肌も瞳も存在しないし、造形に美醜の差はあれど、人間は他の動物の要素を持たない存在だった。火を噴くとか、爪が伸びるとか、外見が人間そのもので特殊能力を持っているくらいなら平気なのだが、頭部が別の動物だったり体の一部が変形したりする個性は全くダメなのだ。
「また、その目っ……!」
 どんな目をしているかは鏡を見なくても分かる。化け物に遭遇して恐怖に怯えている瞳だ。そんな眼差しを向けられて気分のいい人はいない。私が虐められるのは無個性だからじゃなくて私自身が無意識に、自然に差別を行っているからだ。だから彼女たちの行いを責めることはできないし、この世界に馴染むことのできない私への罰だと思っている。
「え、それどうしたの!」
 びしょ濡れのまま家に帰ると、冬美さんが私を見つけて叫んだ。帰宅した時は六時くらいで、そんなに遅い時間ではなかったら油断していた。学校の先生で多忙な彼女だけれど、家事もあるので残業をなるべく切り上げて帰ってくることが多いのだった。
「……ちょっと水遊びしてただけです」
「そういうレベルの濡れ方じゃないよね?」
「最近暑くなったからホースで遊んでただけですよ。失礼します」
「待って、待ちなさい、こら!」
 心配してくれている冬美さんの腕からするりとすり抜け、家の中へ駆け込む。冬美さんは驚くくらい善良な人間だけれど、ろくに会話もすることなく育った義妹に対してはどこまで踏み込んでいいのか測りかねている。これが焦凍くんだったら――いや、焦凍くんが虐められることはないだろうけれど――何が何でも事情を聴きだしているだろう。でも、私たちは所詮他人なのだ。同じ家に暮らしている、他人。他人のために労力を割いて何かをできる人間なんてそうそういない。
「帰りたい」
 いくら暖かくなってきたとは言えども、このままでは風邪をひいてしまう。濡れた服を脱ぎ棄て、湯船へと浸かる。身体がじんわりとぬくもると、口が緩くなってつい本音が漏れる。
「帰りたい、帰りたいよ、お母さぁん……」
 でもこれは言ってはいけない言葉だ。五歳の時発見された私の戸籍が存在しない以上親を探すなんて不可能だし、身寄りもなく、正体不明の私に衣食住何不自由のない生活を送られてくれているエンデヴァーさんに対する冒涜になってしまうから。湯船に顔を沈めて、お湯の中に本音も涙も隠してしまう私だった。
「もうすぐテストだろ。分からねえとこ教えてやるぞ」
「焦凍くん、ノックしてって言ってるでしょ」
 高校に進学して学校が別になっても焦凍くんの過保護は健在だ。大丈夫だといっても聞き入れて貰えず、毎日部屋にやってくる。思うのだが、これは彼が家族と接する機会がなく、愛情の表し方が分からないための行動ではないだろうか。唯一実の父親からは修行と称してびしばし鍛えられているわけで、何かを教えるといった関わり方じゃないと思いつかないのではないか。そう思うと無下にするのも申し訳なく、私は彼を部屋に招き入れるしかなかった。
「……問題ねぇな」
「お陰様でね」
「これなら雄英も合格するな」
「え」
 焦凍くんが発した言葉に私は衝撃を受け、目をぱちくりさせた。その反応が焦凍くんにとっては意外だったらしく、彼も目をぱちくりさせていた。ポーカーフェイスな彼の滅多に見せない表情である。
「雄英、受けねえのか?」
「雄英ってあの雄英でしょ? 有名ヒーローの殆どが合格してるって名門の……私個性ないからヒーローになれないし、考えてもなかったよ」
「ヒーロー科以外の科もあるぞ」
「サポート科とか経営科でしょ? そっちもなかなか就職率というか卒業後の成績いいじゃない。個性どころか特に秀でた能力もないから無理だよ」
「普通科もあるぞ」
 どうして焦凍くんはこんなにも粘ってくるのだろうか。すぐ真顔に戻ってしまった焦凍くんの表情をじっと見つめても何も読み取れなかったし、考えてもまったくわからなかったので、ここは素直に質問することにした。
「焦凍くんはどうして私を雄英にいれたいの?」
「お前こそ何で考えてないんだ?」
「ちょっと意味が分からないですね?」
「……また一緒に兄妹で登校したいとか、思わねぇのか?」
「それは」
 ちょっと寂しそうなトーンで、子犬が飼い主の服の裾をぐいぐい引っ張っている様子を彷彿とさせる仕草で、焦凍くんがこっちを見る。私はどちらかというと犬派で――というのをなしにしても子犬は、子犬はずるいじゃないですか。
「それは、まぁ、したいなと思いますけど」
「だろ? お前もそう思うだろ」
「うん……」
「じゃあ頑張って勉強だな。兄さんが何でも教えてやるから安心しろ」
 リップサービスを真に受けて喜んでいるのが分かる。たとえそれが優しい嘘だったとしても嘘を吐くのは胸が痛い。彼は私に愛情を向けてくれるのに、私は彼に愛情を返すことができないのも原因だろう。轟家の一員となって十年近く。焦凍くんと過ごした時間が疾うに実の家族と過ごした時間を超えているのに、いまだに私は彼を化け物としてしか見れないのだった。その色彩さえなければ焦凍くんは大層整った顔立ちをしているのはわかるのだけれど、異形型の人と同じように本能的に何故か受け付けないのである。
 それと、正直焦凍くんの教え方は、天才すぎて凡人の理解のプロセスを何個かスキップしているから解り辛いのだけれど、とてもそんなことを言える空気ではない。それに、彼の愛情からくる庇護によって、この世界の理不尽から守って貰っている私は、焦凍くんの意見に反対することはできないのであった。
「……この家を出ていくことになった」
 夏真っ盛り。思いつめた表情で焦凍くんがこんなことを言うものだから「とうとう父親に対する嫌悪が理性を上回って家出宣言? それを私に言うってことは一緒に来てくれってことなの?」と考えて、暑さが理由ではない汗がたらりと背中を伝った。
(子供たちの中で唯一の成功作の焦凍くんを、焦凍くんがどう思っているかは別にして一番気にかけて愛しているエンデヴァーさんの目を欺いて家出……?)
 家出を止めるどころかくっ付いて行ったら私が唆したとか育てて……貰ってはないけど今まで養育費を払って貰ってる私が今後どのような処遇になるのか想像もつかない。キレて家を追い出されて、孤児院とかに引き取って貰えたらいいけど、引き取り先が劣悪な環境だったらどうしよう。私の態度がなかったとしても、無個性ってただでさえいじめられやすいのに、今でさえ学校で嫌がられをされているのに、プロヒーローに家から追い出されたなんて余計な属性までついたらさらに叩きやすくなってしまうではないか。
「……おい、何か言ってくれ」
 なんと返事したらいいものか真剣に悩んでいると、スルーされてちょっとむっとした様子の焦凍くんがいた。
「家出はやめてください」
「家出?」
「焦凍くんが家出したら、この家は絶対に崩壊します。崩壊というか燃焼かもしれないけど」
「何言ってんだ? この間の林間合宿の関係で雄英が全寮制になるから家から出ていくって意味だ」
「なんだ、良かった」
「良かった……?」
 わなわなと焦凍くんが震えた。自分でいうのもなんだけれど、私はなぜか焦凍くんに溺愛されている。経験上、絶対に面倒くさいことを言い出すぞと覚悟を決めたら案の定だった。
「お前は、俺が家にいないほうがいいのか? 今までずっとウザかったのか? お兄ちゃんって呼んでくれないのもそれが原因か? それとも反抗期か?」
「焦凍くん、そういうところだよ」
「どういうところだ」
「自宅から雄英は大した距離じゃないでしょ。焦凍くんは休みの時ちゃんと戻ってきてくれるでしょう?」
 信頼しているよ、兄妹の絆は壊れないよということを暗に伝えたら焦凍くんは納得した。優しい焦凍くんを騙すのは気が引けるけど――まだ続いている学校での嫌がらせの痕跡を彼から隠すためには離れて貰ったほうが丁度いいのだ。焦凍くんが私が何をされているかを知ったら怒り狂って、エンデヴァーさんに伝わって、それから学校に何らかの連絡が行くだろう。そうなると、学校だけでなく家でもさらに居心地が悪くなる。家だって落ち着くわけじゃないけれど、自室に籠っているときは焦凍くん以外誰もやってこないので一番落ち着く場所になっている。一人になりたいなら図書館とかでもいいのかもしれないけれど、図書館には私以外の人がいるし、不特定多数の目に晒されるよりかは「家族」と一緒にいる方がまだ居心地良いのだった。
「当然だろ」
本当の妹の様に私を愛してくれている焦凍くん。焦凍くんが掛け合ってくれたから私は今ここに存在できているし、中学校も彼のいる間は平和だった。彼には返しきれないほどの恩を受けているのだから、彼の望む「妹」であらなければ。
 たとえ私が、焦凍くんを人間として見れていなくても。
「あ、いたの? 気付かなかった〜」
 わざと肩をぶつけてきて、中庭を歩いていれば花瓶の水やらごみやら黒板消しが降ってきて、よくもまあそれほどの悪意と熱量と嫌がらせのバリエーションがあるものだと感心していた。人の悪意というのは恐ろしいもので、「反撃してこない」とか「こいつには何をしてもいい」という空気になってしまったら本来持っている筈の常識も倫理観もすべてなくなって取り返しのつかない状態になるまで攻撃してしまうのだ。
 この世界の人々にはルールがある。それは他人に対して個性を使わないことだ。それは持っている個性にもよるけれど、個性を他人に使えば殺してしまう可能性があったり、人権を大いに損なってしまうからだ。他人の内面を読み取ったり、本人の意思に反して強制的に操ったりする個性がそうだ。でも、自分の身体に当たり前についているものを抑制することもできなくて。無害だから見逃されている人と有能だから抑制されている人がいて。その不条理を良識で誤魔化しているのだ。
「黙ってないで、何か言ったらどうなの」
「……」
 悪口も、暴力も、気にならない。私の住む世界はここではなくて、お母さんのいる世界なんだから。私の世界に戻ることができたら、きっとお母さんが優しく抱きしめてくれるから、これくらいの傷は平気。
 だけど、たった一つ許せないことがある。
「あんたのそういう所、ほんとムカつく」
「でもさすがに心読まれたら何か言うんじゃない?」
 それは、私に向かって個性を使われること。つまり、人間扱いされないこと。炎とか、鋭利な刃物とか、直接的な暴力だったらまだ大丈夫だった。けれど、元友人の個性は心を読む――と云うより、その人の一番大事にしている記憶を読み取ること。彼女たちの魂胆は読めている。その個性を使って私の記憶を暴いて、焦凍くんとの思い出を嘲笑うことだ。
「嫌……」
 元友人の腕が私に伸びてくる。触れて、心の中に入り込んで来ようとする。
「いや、いや……っ」
「へえ、見られて困るようなこと、が……?」
 兄妹なのにこんなことしていて気持ち悪いとか、その後にこの子たち血が繋がっていないからって焦凍くんを、叶わなかった恋心を貶めることが目的だ。でも私は分かっている。私の記憶に焦凍くんが出てこないことを。そしてきっと、代わりに出てくるのは。
「なに……これ?」
 ――ちゃん、――ちゃん。
 ジイジイとセミが鳴いている。森の中へと幼い私が迷い込んでいく。大好きな母親が呼ぶ声に振り返ったのに――そこには母親の姿はない。
 ――ちゃん、――ちゃん。
 一人の恐怖に震える私は、何度も何度も母親が自分に呼び掛けてくれることを想像する。けれどそこに母親の姿はない。たまに見えたとしても、顔がのっぺらぼうのようになっていて、私がお母さんのことを覚えていないのだと分からない筈がない。
 顔のない母親が自分を呼ぶ。それが私の中の一番大事な記憶。この記憶が意味することはあまりにも闇が深くて。根っからの悪人ではなかった元友人は、本当は優しい子だったはずの彼女は、私の心の奥の柔らかな闇に触れてどうしていいか分からなかったようだ。この世界の人間に与えられた不思議な力「個性」。私はそれを呪いのようだと思う。個性がなければ焦凍くんたち家族はあそこまで歪になることはなかった。この子だって、「自分たちのことを差別している悪人」じゃなくて「心に深い傷を抱えた可哀想な女の子」を虐めていたなんて気づかないほうが幸せだっただろう。
「ね、ねえ。もしかしてあなた」
 お母さん、死んじゃったの?
 気が付いたら私は学校を飛び出していた。行くあてもなく走って走って、気付いたら焦凍くんの通っている学校の前にいたのだから不思議だ。家ではなく、焦凍くんのいる場所に戻ろうとするのだから。そして、この世界で一番心を許している存在であるはずの焦凍くんですら、私は記憶の中の亡霊より大切にできていないのだから。
「勢いで来ちゃったけど、どうしよう……」
 雄英のセキュリティは万全で、特に襲撃事件が起きてからはさらに強化されたと聞く。いくら身内が通っているとは言ってもはいそうですかと通して貰えないだろう。
「折角ここまで来たんだし……駄目もとで連絡してみようかな」
 今、焦凍くんの学校の校門の前にいるんだけど、会えないかな、なんて。妹じゃなくて恋人が送るメッセージみたいで笑ってしまう。数分待ってみても既読すら付かなくて、その時焦凍くんのクラスは授業数が他より多いって聞いていたことを思い出した。もしかしたらまだ授業中なのかもしれない。もう少し待ってみよう、とぼーっと立っていたら頭が冷えてきて、私を突き動かした衝動は消え去っていた。
 もう、今日は会えないなと判断した私が、轟邸に帰ろうと校門から離れようとした瞬間だった。
「おい! おい、待てよ!」
「焦凍くん……」
 いつもクールな焦凍くんが髪を振り乱して、息を荒げて、必死に走ってきてくれたことが嬉しかった。
「馬鹿、なんで勝手に帰ろうとするんだ。お前がわざわざ来たってことはよっぽどなんだろ、今までこんなことなかっただろ。そんなに困ってる妹を助けねえわけ」
「焦凍くん……っ!」
 王子様の様に駆けつけてくれた焦凍くんに私は抱き着いていた。不意打ちで衝撃をくらったはずなのに、倒れなかったのはさすが鍛えているだけある。しっかりと地面に立つ焦凍くんが頼もしく思えて、私は彼に甘えて縋って、言葉のナイフでずたずたに切り裂いた。
「ねえ、ねえ、焦凍くん。私のお母さん死んでないよね。ちゃんと生きてるよね。また、会えるよね。前みたいに家族で暮らすことができるよね」
 妹として可愛がってきた女の子が、本当の母親を求めて自分を家族ではないと言い放つ。それがどんなに焦凍くんを傷付けただろう。けれども優しい怪獣は、そんな愚かで残酷な生き物をさらに傷つけることはしなかった。怪獣も母親を求めていたことがあるから。その気持ちが分かるから。
「ああ、大丈夫だ」
「帰りたいよう。私、お母さんとお父さんのところに帰りたい。一人は嫌だよぅ」
 心が血を流しても、美しい怪獣は涙を流さない。苦しみを少しだけ笑顔の中に滲ませて、泣いている私がこれ以上悲しくならないように笑顔を作ってくれる。優しい化け物。ああ、あなたの愛情が私みたいなろくでもない女の子じゃなくて本当の家族へ正しく伝わればよかったのに。
 そして怪獣の優しさに甘えて私はさめざめと泣く。世界に馴染めない辛さから、帰りたい、化け物たちのいない世界へ帰りたいと泣くのだった。

  きかざる/帰化ざる END

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