※12/31のtwstWEBオンリーにて頒布する新刊のサンプル分です。完結したバージョンを通販します。
私が初めて長期間茨の谷を出たのは、兄が学校へと入学したのがきっかけだった。茨の谷の次期王とされる兄は、茨の谷の人々からそれはそれは大切にされていた。兄は世界でもトップクラスの魔法士で、いくら兄を暗殺しようたって兄に敵う相手はいないのに、常に護衛に囲まれて息苦しそうだった。
そんな兄の「妹」である私も茨の谷の住民たちに大事にされていて、兄ほどの数ではないが護衛はついていたのだけれど、私は類まれなる怠惰の才能を持つ乙女で、誰かしらが自分に付き添っている環境をこれ幸いとして自分の身の回りの世話をさせていた。
兄はドラゴンの血を引く存在だ。ではその妹である私もドラゴンの血を引くかと言えば、そうではない。私は「ドラコニア」の名前を持っていない。私は茨の谷の妖精姫。人々は私のことを「姫様」と呼び、敬い、付き従い、それで足りるのだった。そもそも、私がドラゴンなのか、人間なのか、妖精なのか私は分かっていない。兄やリリアなら知っているのかもしれないけれど、そんなことに興味はないから教えて貰えなくてもいい。大事なのは兄が私を「妹」として扱っていることなのだ。兄が私を「妹」だと言えば本当の妹でなくても妹になる。そうすると、次期王様の妹――つまりはお姫様として大事に大事に扱われると云う訳だ。
仮にも姫様が怠惰なだけではみっともないので、私も礼儀作法から帝王学、魔法に至るまで厳しく教育されてきた。やる気を出せば立派な淑女の振りはできるし、強い魔法力を器用に使いこなし、兄ほどではないが魔法士として名を馳せている。
「姫様、今日はいいお天気ですよ。お散歩をなさってはいかがですか?」
「いいえ、今日は寝るわ」
可憐な妖精姫の怠惰なる日常――が素直に送れればいいのだけど、現実はそうはいかない。シーツを変えますからとメイドに自室から叩き出され、日当たりの良い所でぽやぽや転寝をしていたらお食事をとらなければお身体に悪いですと口に食べ物を詰め込まれる。私が望んでいるのは睡眠だけだ。それ以外は何も望んでいない。
私が茨の谷から出なかったのは蝶よ花よと育てられた箱入りのお姫様だからではなく、自身の怠慢さゆえだった。外の世界が知りたいの! なぁんて殊勝な感情は一ミリもなくってただ単純に谷の外へと興味がなかっただけなのだ。だってここには何もかもがあった。兄が私を庇護してくれる限り私は「お姫様」で、何不自由なく暮らすことができたのだから。
そんな私の生活が一変したのは兄に名門、ナイトレイヴンカレッジから入学案内が届いてからだった。色々揉めたけれど、リリアが兄と一緒に入学するという事で話はまとまってしまった。そうすると困ったのは私だ。優秀すぎる兄がこなしていた茨の谷の政務がすべて私の方へと転がり込んできた。兄だけでは手が回らない時に手伝ってくれるリリアも今はいない。するとどうなる? オーバーワークが起きるのじゃ!
「姫様、謁見の予定が!」
「姫様、お目通し頂きたい書類が!」
「姫様、問題が!」
「姫様!」
「姫様!」
「姫様ぁ〜〜〜〜」
泣きたいのはこっちの方ですわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?
私は兄ほどではないが優秀だ。やる気を出せばある程度できる。しかし、根がどうしようもなくズボラで怠惰で怠慢なダメ人間なのだ。こんなこと、三年も続くわけがない。案の定数日で音を上げた。しかし、そんなことを言っても仕事は減らないし、周りが許してくれるはずがなかった。
こんなに働くのは嫌だ、死んでしまう、と駄々を捏ねて政務を放棄しようとする私を働かせるため、周囲は私のお気に入りの兄の護衛、シルバーを期間限定で私付きの騎士に持ってくるという荒業を行った。
シルバーを補給することでなんとか精神を持たせていたのだけれど、そのシルバーにもあのにっくきナイトレイヴンカレッジから入学の案内が届いたときに心がぽっきり折れた。私には魔法の才能があるから学校から入学の案内が届かない筈がない! と調べさせたところ、どうやら私はシルバーの一つ下の学年に当たるらしく(姫様、ご自身の年齢すら知らなかったのですか、とシルバーには呆れられた)、招待する予定はあるが来年になるとのことだった。そこで我慢の出来る素直な良い子だったら良かったのだけれど、妖精族の年齢を勘違いしている! 不敬だ! とクレームをいれてなんとかナイトレイヴンカレッジの姉妹校への入学の許可をもぎ取ったのだった。権力の正しい使い方ではあるが、絶対にこうなってはいけないという悪い見本でもある。為政者というのは清らかでいれば高貴な姫様で、道を踏みはずせば悪い魔女扱いなのだ。
「ああ……こんな生活からやっとおさらばできると思うととても清々しい気分だわ……」
「姫様、口ではなく手を動かしてください」
「学校生活ってきっと素敵でしょうね……実技の時間以外は授業中でも眠れると思うから、一日何時間眠れるようになるのかしら?」
「姫様、手が止まっています」
「もう、魔法でペンを動かしているのだからいいじゃないの!」
「姫様が手を動かせば魔法で動かしているのと合わせてもっと早く書類が片付きます――と言うか、片付けないと入学できませんよ」
「シルバー、どうしてそんなに酷いことを言うの?」
好きな人にそんなこと言われたら傷つくわ、と瞳を潤ませて抗議しても、シルバーは私に視線一つ寄こさず冷静に切り返してきた。
「酷いも何も、姫様が入学を一年早めたから発生した仕事じゃないですか」
「うう……」
「俺が手伝っているのは現在仮とはいえ姫様の騎士だからですよ」
「そんなに嫌ならやらなくてもいい方法があるわ。一緒に眠りましょうよ」
この生真面目で堅物なうつくしい騎士にも欠点がある。それは本人の意思とは関係なく睡魔に襲われるという事だった。睡眠をしっかりとっていても突然抗いがたい眠りに誘われるのだった。シルバーは本人の性格から精神力でその呪いを弾き返そうとしているけれど、根性ではどうにもならない次元の話だ。かくいう私も同じ呪いに呪われている。私は抗う気がないので睡魔に襲われたらすとんと眠りに落ちてずっと眠っている。これでも同じ呪いを二人で分けているから随分と軽減されているのだ。きっと一人で受けていたら百年くらいは目を覚まさないだろう。
「またそれですか」
「だって、『これ』に抗うよりかは受け入れたほうが楽だと思わない?」
微睡みの間の刹那を生きるくらいなら、呪いを完全に受け入れてそれが完全に解けるまで身体の時間を止めて眠ってしまったほうがいいと思う。兄とリリアがいれば、彼らの能力で長い時間呪いについて研究してくれれば、私たちは彼らの寿命の最中に私たちは再び目覚めることができるだろう。でも、この呪いは私だけのものじゃない。シルバーと一緒に眠らないと完全に発動しない。いくら私が永遠の眠りを望んだって、手に入りはしないのだ。
「俺は思わない」
「そう」
つれない男だ。そういう所も好きなのだけれど。私がシルバーに執着していることは自覚症状がある。シルバーが気付いているかは分からないけれど。シルバーは人間で、私も多分人間だ。いや、シルバーと同じになるから人間だったらいいなあと思っている。そも私の正体は妖精族の血が混ざっているのか、チェンジリングなのか、妖精への供物に捧げられたのか全く分からないけれど、シルバーがリリアに拾われた日に私が兄に見つけられたのは運命だと思っている。
『ほう、これは面白い。こやつら、同じ呪いをその身に宿しているようじゃ』
いつだったか、リリアが私たちに言った言葉だ。シルバーがファミリーネームを持たないこと。私が名前を持たないノーネームだということ。シルバーに剣の才能があること。同じくらい私に魔法の才能があること。逆にシルバーの魔法の才能は私の剣の才能と同じくらいだということ。足して割ったら、同じくらいの能力値の人間が三人出来る才能を私たちは持っている。私は、私の運命がシルバーだと思っている。だからシルバーが欲しい。欠けた自身を埋めるように、私は彼が欲しい。だから永遠に一つになるために、一緒に呪われたいのだった。
姉妹校に入学してからは最高だった。あの政務漬けの日々と比べたら毎日がホリデーだ。やらないと他人に迷惑のかかる政務はないし、授業は兄とリリアが教えてくれたことばかりで簡単だし、淑女としての嗜みを学ぶ時間も、城でメイドにしごかれていた私には眠っていてもこなせることばかりだ。それに、授業中にいくら寝ていても「あのマレウス・ドラコニアの妹姫」という肩書と成績が私を守ってくれた。持つべきものは権力者の身内と才能だなぁ……としみじみと思った。
多少の男女の差はあれど、魔法士になるためのカリキュラムはほぼ同じなので飛行術の授業もあった。錬金術も魔法史も。やっている内容が近いという事は、それを口実に兄に会いに行きやすいという事だった。本当は兄ではなくてシルバーに会いに行きたいのだけれど、兄のところへ行けば絶対にシルバーがいるのは分かっているので問題はなかった。
(ああ、人間の世界って窮屈!)
茨の谷にいたときは、私が望めばシルバーは何時でも私の傍にいてくれたのに。ここでも規則が私を縛り付ける。どうしてやるべきことを済ませたら解放してくれないの? カリキュラムで学ぶ内容が決まっているのなら、一時間の中で習得すべき内容が固定されているのなら、習得した生徒は教室にいなくてもいいじゃない。私は基本的に呪いのせいでどこでも眠ることができるけれど、睡眠の質には拘るタイプなのでベッドか芝生の上が良いのだった。
(今日は進んでもあと3ページというところかしら……)
この理論はもう完璧だ。ということは眠ってしまっても支障はない。教師の声を子守唄に、私は眠りへと誘われていったのだった。
***
思い出すのは、幼い日々のこと。私とシルバーが兄とリリアに育てられていた日々のことだ。十数年前のある日、兄が護衛を振り切って、気まぐれに森の中を散歩していたときのことだ。どこからか赤子の泣き声が聞こえて「妖精の住処の中に人の子が紛れ込むとは」と好奇心を刺激された兄は私を城へと連れ帰ったのだ。ドラゴンとは幻想種であり、幻想種は妖精の一種であり、妖精とは大変好奇心の強いものだと昔から相場が決まっている。
なぜ人の子が茨の谷にいるのか。
私がこの谷に何をもたらす存在なのか。
次期王として兄は私が茨の谷に害をなす存在であれば存在を消滅させないといけなかったけれど、不思議と厭な感じはしなかったらしい。むしろ『運命』を感じたという。
兄の予感は当たっていた。同日、同時刻。リリアが別の場所で私の半身(だと勝手に思っている)のシルバーを拾っていたのだから。
「……リリア」
「マレウス、お主もか」
ホールでばったりと居合わせた二人は、お互いの腕の中に抱かれている人の子を見た。どちらからも厭な感じはしない。感じるとしたら、そう、これは『運命』だ。
「ほう、これは面白い。こやつら、同じ呪いをその身に宿しているようじゃ」
魂の形は違う人間のものなのに、確かに同じなにかに呪われている。これは運命なのだろう。リリアにとってマレウスを超える大事なものにはなり得なかったかもしれない。マレウスの孤独を永遠に癒す存在にはなれなかったかもしれない。でも確かに、私たちは変化の兆しなのであった。
リリアは人の子にシルバーと名を与えた。息子のように慈しみながら、主であるマレウスには畏怖と尊敬を抱くように育てた。
マレウスは私に名前を与えなかった。実の妹のように愛情を注ぎながら、兄である自分を愛し、畏れないように育てた。
「名を与えなかったのか」
「リリア」
「それが正解じゃろう。この子は、何にでもなれる。名を与えて縛ってしまうのはよくない」
私は人の子のようでいて、人の子ではない。かといって妖精でもない。何物にも染まれる無垢な魂だ。永遠に近しい時を生きる偉大な種族のものは、それを見抜いていた。私たちの幼少期は、とても穏やかな空気に包まれていた。私たちの進む時の流れが違っていても。
「シルバーはどこ?」
「剣の稽古をしていらっしゃいますよ」
まだ二桁の年齢にもならないうちから、シルバーは剣術を叩き込まれていた。実戦魔法、錬金術、占星術、飛行術、魔法解析学、魔法史、動物言語学、魔法薬学、召喚術、防衛魔法、古代呪術語、それから妖精言語。私とシルバーはリリアから、兄から、家庭教師から、様々なことを学んだ。殆どの授業はシルバーといっしょだったけれど、剣術を学ぶようになってシルバーから離されて寂しかった。
兄の服の裾に縋って私も剣術を学びたい! と駄々を捏ねたことはあるのでけれど、兄は私を抱き上げ「ふむ……」と一言言った後許可はしてくれなかった。でも、貴い身分の私がいつ悪者に狙われるか分からないからということで護身術は許可してくれた。違う、そうじゃないの。
「お兄さまのいじわる!」
「そう拗ねないでくれ、僕のお姫様。剣術の稽古で怪我でもしてしまったらどうするんだ」
「シルバーが怪我をしたらどうするの?」
「シルバーは男の子だから大丈夫だ」
「関係ないわ!」
「……シルバーが怪我をしたら僕がすぐ治してあげよう」
膝の上に乗せた私の髪を指で梳いて、機嫌を取るように私の瞼に口付ける。私は、愛されているのだった。甘やかされているのだった。なぜなら私はお姫様だから。愛されて、大事にされるのがお姫様の役割だ。
「お兄さま」
「なんだ」
「お兄さまは私のこと、愛してくださってる?」
「もちろんだ……どうした、誰かに何か言われたのか」
「いいえ、誰も。何も」
そう、誰だって私の扱いに文句を言うことができない。だってお兄さまが私を妹だと仰っているから。お兄さまが私を愛すると決めているから。この茨の谷の絶対君主。最強の妖精の王に逆らうことの出来る者なんて誰がいて?
私が害されたかもしれないという予想だけで纏う空気を変化させる兄を。感情が粗ぶっただけで雷を落とすことの出来る兄を。どうして、誰が、歯向かうことができるでしょう。同時に、誰が兄を『畏れるべき次期王』ではなく一人の妖精として見ることができるでしょう……。
私が兄に愛されているのは、私が兄を恐れないから。兄として、甘えて、拗ねて、時には嫌いだなんて言って困惑させる。こんなこと、リリアだってできやしない。リリアも強大な力を持ち、兄に近しい存在ではあるけれど、どうやったって従者なのだ。兄を守護するものなのだ。対等にはなれやしない。
「ふぁ……」
「眠くなったのか」
「いつものよ」
「気が済むまで寝ると良い。君がいつ目覚めても、僕は傍にいるから」
そう言って兄は私の瞼にキスを落とす。ああ、嘘つき。嘘つきなお兄さま! 目覚めたらいつもふかふかのベッドの上で一人ぼっちで、お兄さまは傍にいたためしがないじゃない。こんなことを言ったら兄を傷付けるのは分かっていたので、何も言わずに私は微睡みへと身を委ねた。眠ることは好きだ。好きにならないと、やってられなかった。だって呪われている私は、いつ目覚めなくなってもおかしくはないのだから。
***
「姫様!」
「ん、んん……?」
「まったく、授業を抜け出してこんなところでお眠りになっていたのですか? 駄目ですよ」
私の護衛に、と茨の谷から一緒に入学してくれた少女が小言を言っていた。私は十分強いし兄じゃないから護衛なんていらないと言っても、過保護な兄が聞き入れてくれなかったのだ。彼女が何をしたわけじゃない。でも、私の目からはぽろぽろと滴が零れていた。
「ひ、姫様?」
私のお付き――もとい護衛の少女は突然泣き出した私を見て狼狽えた。そうよね、主人に対してきつい口調で言ってしまったから泣いたと思っても仕方ないよね。そして私を泣かせたとなれば、お兄様になんて言われるか分からないものね。
「嘘つき、お兄様の嘘つき。目が覚めたときに傍にいてくれた試しなんて、一度もないじゃない……」
大泣きする私を見て、護衛の少女はどうすればいいか分からないようだった。疲れた、もう休みたい、甘いお菓子が食べたいというわがままを言ったことは数え切れないほどあれど、私が幼い子供のように大泣きすることはかつて一度もなかったからだ。泣いている顔を見られたくなくて、私は少女の胸に顔を埋める。大丈夫ですよ姫様、と優しく抱きしめられて、彼女の心臓の音でようやく落ち着いた頃。私は再度眠りの世界へと落ちていったのだった。
「今日はつまり午後の授業全滅ってことね……」
目が覚めるとそこは私が与えられた寮の部屋だった。いくら授業にやる気がないと言っても、ここまでサボるのは想定外だった。留年はしたくないので、これからはもう少し真面目に授業を受けないといけないのは面倒くさいなあと思った。
「姫様、目が覚めましたか?」
「ええ」
護衛に返事をしながらつい、と指を動かし鏡台の上に置いてあった手鏡をベッドまで魔法で運ぶ。ナイトレイブンカレッジは名門校で、だから兄のような王侯貴族の子弟が通うこともあるし、大変な資産家の子弟が通うこともある。そう言った身分の人物は幼いころから使用人が身の回りのことをすべてやってくれるために入学してから自身では何もできないという事が多々ある。なので、この学校に入学できるほど才能のある子供を引き抜いてきたり、大人同士の交渉術(包み隠さずに言うと賄賂だ)で使用人を一緒に入学させたりするのだ。それは、姉妹校であるここでも何も変わりはない。
けれど、私は怠惰を極めた妖精姫だ。口を開いて使用人を呼ぶのを面倒くさがった結果、繊細な魔法のコントロールを身に付け、魔法で一人で何でもできるようになった。だから一緒に入学したのがお付きではなく護衛になっているのだ。
「では、今から着替えてください」
「もう夜よ? このまま入浴してからもうひと眠りするわ」
「なりません。客人の前でそのようなだらしない姿を見せるのですか?」
「来客の予定はなかったと思うけど……」
「僕だよ」
耳に馴染んだ、聞いただけで周りの人物を魅了してしまう不思議な魅力に満ちた声。けれど、その声の持ち主は女子校にいるはずのない人だ。でも私が彼を間違えるわけがない。
「お兄様! それにリリアとシルバーまで!」
「マレウス様!」
どうしてここに兄がいるかなんて考えなくても分かった。私の言葉を聞いて護衛が兄に連絡したのだろう。そうして兄が転移魔法を使ってやってきたのだろう。兄ほどの実力を持っていれば三人を同時に転移させることも学校のセキュリティを掻い潜ることも簡単だろうから。
兄に抱擁をしようか悩んで、先ほど手鏡で見たとき自分の目が真っ赤になっていたことを思い出した。今から冷やせば、治癒の魔法をかければ――それとも活性化かしら――誤魔化せるかな。
「い、今すぐ身だしなみを整えてきますからお待ちくださいねっ! それからお前、お兄様たちにお茶をお出しして!」
それだけ伝えると、急いで私は浴場へと引っ込んだ。
「大変お待たせ致しました」
「僕は別に」
「よいよい。女子の支度には時間がかかるもんじゃ。それを待つのも男の甲斐性じゃぞ」
「いくら姫様と言え、マレウス様を待たせるのはどうかと思います」
「これ、シルバー」
「どうしてシルバーだけそんなこと言うの?」
まるでセベクみたいだ。どちらかと言えば奔放な兄とリリアと比較してシルバーは真面目な部類だったけれど、そこまで融通の利かないタイプではなかったように思う。兄を待たせることを気にしているようにも思えない。だって、私たちは兄妹で、兄が体調不良の妹を見舞う時に時間なんて気にするかしら?
「シルバーは姫のことを心配してたんじゃよ」
「親父殿!」
「ずっと一緒にいた姫と離れて初めてきた連絡が『姫様がホームシックになって泣いている』じゃからのう。自分たちのことを大事に思ってくれて嬉しいやら姫が心配やらで複雑なんじゃろ」
「ち、ちが……っ」
リリアの言葉を否定するシルバーの語尾は消え入りそうで、耳まで真っ赤に染まっていた。
「シルバーったら素直じゃないのね」
「…………」
嘘でも心配していない、って言わないところが好きだ。私もシルバーも茨の谷からでてきて大きく環境が変わったのは同じなのに、「自分は平気だったんだからお前も大丈夫だろう」って言わないところが好き。私たちが別の人間だって云うことを解っているのが好き。私たちは別々の人間だ。だからこそ一つになりたいのだ。
「さて、寂しがりな姫のために宴を開催しようか」
「防音魔法――認識疎外の魔法はばっちりかけておるぞ」
「じゃあ――お兄様、チェスがしたいわ」
「いいだろう」
兄がパチンと指を鳴らせば机の上にチェス盤が用意される。見覚えのあるチェス盤は、空間転移魔法で茨の谷の城から持ってきたものだろう。私に茨の谷を想起させて心を慰めるためのもの。ああ――お兄様は私に甘い。
(私なんてお兄様の毒にも薬にもならない筈なのに)
兄という巨大な存在の前で、私というちっぽけな存在は何の意味も持たない。いくら優れた魔法士であるからと言って、魔法の腕前も知識も私たちを教育してくれたリリアには敵わないし、剣術や武術の腕ならシルバーやセベクの足元にも及ばない。愛する乙女が傍にいるだけで心は慰められるものなんじゃよ――とリリアに嘯かれても、兄は私をそういった意味で愛してないのは明らかだ。
では、一体、私とはどんな存在なのだろう――?
途端に思考が鈍くなる。慣れ親しんだ眠りが、私の脳を犯そうとしてくる。今日一日、あれほど眠っていたというのに、この呪いには抗えない。私は考えてはいけないのだ。兄が与えてくれるこの日々を、享受しないといけないのだ……。
「眠いのか?」
「眠くないわ」
「瞼と瞼がくっつきそうだ」
もうおやすみ、と兄が私の瞼にキスを落とす。兄の眠りの魔法は効果抜群で、私はその場で意識を手放した。落下する心配はない。だって、兄が魔法でベッドまで運んでくれることはわかっているのだから。
***
「さあ、いきますわよ!」
実戦魔法の訓練。つまり模擬試合。教師が振り分けた組に分かれて魔法をぶつけあうというもの。授業と言い、マジカルシフトと言い、私たちは誰かに魔法をぶつけるということに容赦がない。
手に握っているマジカルペン――名称はその時代で変わるものの、ようするに魔法の杖のことだ――の変遷とともに私たちと魔法の在り方も変化してきた。文明が発達していない時代は、生活を豊かにするため。ある程度生活が豊かになってからは、他国を侵略し、より豊かな生活を求めて。国が安定した時代になれば、自身の権力を誇示するために。その日の糧を食すために燃やす火や、農作物を潤すための水や、暗闇を照らす灯という優しい魔法だけであったらいいのだけれど、残念ながら人を殺すための目的で作られた魔法も多い。
実戦で習得するのが一番手っ取り早いというのは確かだし、ある程度の緊張感を与えたほうが真剣に取り組むので、実戦形式と言うのは間違いではないけれど。ヒトと妖精種の間に横たわる溝と戦争の歴史を考えれば、私はあまり賛成ではなかった。
私たちの通う学校は、それぞれの持つ資質によって寮を分けられる。わかりやすく兄たちが通うナイトレイヴンカレッジの寮で説明すると、妖精種がディアソムニア、獣人族がサバナクロー、人魚がオクダヴィネル……というように寮ごとで種族が揃うことが多い。ディアソムニア寮は魔力量が多く、実戦魔法に長けた生徒が集まると言われているけれど、そもそも人間と妖精では魔法に関する素質が違うのだから当然だ。寿命の長さから言って全く異なる種族なのだから。今でこそ一つの学校に様々な種族が集まり、争いもなく学ぶという事ができているけれど、リリアの生きた時代はそうではなかったのだ。
ヒトは、妖精種を恐れた。見た目も寿命も異なり、それから自分たちの脅威になる存在を恐れた。自分と異なる存在を許容できるのは、自分たちの心に、生活に、すべてに余裕があるから。生きていくだけで精一杯の時代に異なる存在を受け入れる精神的余裕なんて、ない。魔女狩りという言葉があるように、異端者を排斥することが一番手っ取り早く人民を支配できるし、結束も固めやすい。今が穏やかな時代とはいえ、再びいつ種族間の溝が深まるとも限らない。その時に妖精も人間も魔法に秀でていたら悲惨だ。戦争とは、戦力が一方的な方が被害も少になく早く決着するのだ。人に魔法をぶつけることに慣れていて、人間も魔法――特に攻撃魔法を扱うことに慣れてしまったら。そうしたら、そうしたら……と考えると私はどうしても実戦魔法の授業が好きになれないのだった。
護衛の少女の献身もあって、授業中に居眠りすることは多々あれど、私はなんとか授業に参加することに成功していた。もちろん何度かサボって優雅なシエスタを行うこともあったけれど、兄を学校に呼ぶという心遣いを見せる彼女にあまり迷惑をかけたくないというのもあった。怠惰が売りの妖精姫たる私がなんというていたらく!
「姫様、もう少しですね!」
「……なにかしら?」
「もう、まさか知らないわけがないでしょう。ハロウィーンですよ、ハロウィーン!」
「ああ、そうね。もうすぐそんな時期ね……」
入学式は九月。ハロウィーンは十月末。準備期間も考えると、入学してすぐの一大イベントだ。という事は、クラスの結束を固める、とかそう言った面倒くさい思想に支配されている人間もいるので、美味しいお菓子を食べるのは好きだけれど準備はしたくない私はいまいち他の人のように盛り上がることができなかった。
「こちらの学校もそうですけど、特にナイトレイヴンカレッジのハロウィーンは盛大ですからね! なんでも近隣の方や一般の人でも敷地内に入る事ができるんですよ」
「――なんですって?」
それは、合法的にシルバーに会いに行けるということではないか。ユニーク魔法もあるし、私だって兄ほどではないが高名な魔法士なので本気を出せば簡単にセキュリティを掻い潜ってシルバーに会いに行くことは可能だけれど、真面目なシルバーはそれを嫌がると思って中々決行できないでいたのだった。
「寮ごとで決まった仮装をされるそうなので、あちらに遊びに行くときは姫様もマレウス様たちとお揃いの仮装をしましょうね」
ああ、姫様のご衣裳なのだから気合を入れなくては、早速マレウス様に詳細を教えて頂いて……と護衛は楽しそうだった。何故だか知らないけれど、茨の谷の人たちは私を着飾らせることが好きなようだ。ドレスはあれが、それなら靴は、ネックレスは、髪飾りは……と毎日衣装室で大盛り上がり。やっと私の着替えが完了したかと思うと「姫様、可愛らしいですわ!」とにっこり笑う。長い時間拘束されるのはあんまり好きではないけれど、侍女たちの笑った顔は、好きだった。
「姫様、お可愛らしいです!」
「ありがとう」
こっちの学校もハロウィーンの準備で忙しかった(とは言っても私は盛大に手を抜いていた)ので、あっと言う間だった。今年のディアソムニアの仮装は吸血鬼ということで、私も牙を付け、黒基調の洋服を身に纏う。護衛の彼女は「一人ではレースが付けきれませんでした……」と落ち込んでいたけれど、十分だと思う。
マントがひらひらと靡くのが楽しくて何度もその場でまわった。兄やリリアは自前の牙があるので、なるほどディアソムニアに相応しい仮装と言えるかもしれない。転移魔法で護衛とともにナイトレイヴンカレッジの近くまで移動して、それから兄、リリア、シルバーに到着した旨を連絡する。茨の谷にいた頃はそこまで重宝していなかったが、いざ外の世界へと出て来てみるとこの有用さは手放せなくなる。
「お兄様たちはスタンプラリーのチェックポイントにいるのですって。これなら迷わずたどり着けそうね」
「はい、姫様。マレウス様にお会いできるのが楽しみですね」
どうも、茨の谷の人たちは私と兄の仲が良いと思っている。それはけして間違いではないけれど。兄は私を愛しているし、私も兄を兄として好きだ。けれど、彼らが望んでいる仲の良さはそうじゃない気がするのだ。お伽話に出てくるような、愛らしく、可憐で無垢なお姫様と国を背負って立つのに何の不満を抱くことのない完璧な王子様。予定調和のような。お姫様という偶像のような、そんな……。
「姫!」
「リリア」
ぼんやりと思索に耽っていると目的地に着いたようだ。吸血鬼の仮装はリリアに似合わない筈がなかった。普段は可愛らしさを前面に押し出しているが、口を開かなければリリアだって十分格好いい担当でやっていけるのだ。
「久しいのう。どうじゃ、元気にしとったか」
「ええ。何も問題ないわ」
「わしらが恋しくて泣いておったのに?」
「もう!」
「僕の可愛い妹を虐めるのはやめてくれないか、リリア」
「お兄様」
夜の王に相応しい威厳と風格。黒は普段から身に纏っているからか、兄に相応しい色をしていた――私とは全然違う。薄い青色や淡い色合いを身に付けることの多い私は今回の衣装に着られているようなものだったから。
(私とお兄様は、違う生き物だ)
いくら兄が私を妹と呼んでくれたって。私たちの間に横たわる溝は余りに深く、悠久の時の流れの中で瞬きの刹那の邂逅しかできない。
「お兄様、ハッピーハロウィーン! 準備はよろしいですか?」
「ああ、もちろん」
「ではいきますわよ――」
「「trick or treat!」」
お菓子かいたずらか。問われなくても決まっている。甘い甘いお菓子が世界で一番最高だってこと!
「今年はこれだ」
「わあ、これってあの……!」
「リリアに頼んでマジカメで一番人気の店のものを取り寄せた」
「ありがとうお兄様! クラスの子たちがずっと話題に出していたの。とっても気になっていたの!」
「喜んで貰えて何よりだ。……さて、次はお姫様の番だが」
「もちろん用意してあるわ」
兄からは紫とオレンジの使われた華やかな包みを貰ったけれど、私が兄に渡すのは白一色の質素なもの。
「これは……?」
「ふふ、聞いたらお兄様絶対にびっくりするわ! これはね、兵糧丸と言って東の方の国で昔に食べられていた携帯食だそうよ。なんでも一粒食べるだけで腹持ちが良く、一日中走り回れるほどの力を得ることの出来る栄養食なんですって。お兄様、有名店のお菓子よりこういうものが好きでしょう?」
ガーゴイルとか好きだし、自分が一瞬で理解できないものを好むのだろうと思った。兄は望めば何でも手に入る。だからきっと、入手しにくいもの、自分のものにならないものが好きなのだ。
「ほう、これはなかなか興味深いな……」
「姫はこれをどこから手に入れたのじゃ? 中々珍しかろう」
「学校に有名な貿易商の娘がいるのよ。その子とお友達になって頼んだの、お兄様にプレゼントしたいからって」
「姫様にお友達……?」
「まあ、シルバー。やっと口を開いたと思ったらなんてこと言うの。私にだってお友達の一人や二人……一人や二人できるんだから!」
元からの性質と呪いが合わさって授業に出ていても眠っていることが多いし、護衛の彼女がいつも付き従っているから近寄りがたい空気があるみたいだし、何と呼べばいいかもわからない……という条件が重なって私は遠巻きにされていた。そして茨の谷では年の近い子がいなかったので、私からどう対応すればいいのかわからなくて中々友人がつくれなかったのである。
「……僕の姫君」
「どうしたのですか、お兄様?」
「お前に友人は要らない」
即刻縁を切れ、何て言われて。茨の谷の利益に繋がるような友人をせっかく見つけたのに、と私は怒りで眩暈がした。反論しようと口を開いたけれど、兄の冷たい眼差しに、王の威厳に立ち向かうことはできなかった。いくら姫様と周りが私を可愛がったって、兄が愛してくれたって、本当の姫ではない私はこういう時に決定権を持たない。兄が私の手を離せば、私なんて簡単に消えてしまうから。
「お菓子だけじゃなくて悪戯までくださるの? 片方だけで結構よ」
「姫」
「もういいです。お兄様なんて知らない。行くわよシルバー」
「なんで俺が。マレウス様の護衛が」
「いいから来なさい。ねえお前。シルバーの代わりにお兄様の護衛をなさい」
「姫様、ですが」
「衝動のまま一人で駆けだす馬鹿な娘じゃないことを感謝して頂戴」
シルバーの腕をがっちりつかんだまま、ずんずんと進んでいった。本来なら鍛えているシルバーを私が引き摺るなんてことできないのだけれど、グラビティの魔法で重力を弄ったので簡単に引っ張っていくことができた。
「今のはマレウスが悪いぞ」
「ああ、分かっている」
でも、と。私のいないところでお兄様は続けた。
「いずれ置いていくかもしれない友人なら、最初からいないほうがいいだろう」
「マレウス……」
人間と妖精は時の流れが違う。だからこそ一瞬の邂逅は得難い奇跡だし、同時に長きにわたる傷になるのだった。それに傷つくのは私ではない。だって私は、まだ人間に寄っている。時の流れはシルバーと同じだ。だから、無意識のうちに心に傷を抱えているのは、その言葉は発した他でもない兄なのである。
***
「姫様、姫様、どちらまで行くのですか」
「そう――ね。考えてなかったわね」
怒りに任せて適当に歩いていたから、スタンプラリーのチェックポイントよりは人が少ない場所まで来ていた。それでも少し歩きやすくなっただけの状態で、改めてこの学園の規模を思う。
「俺じゃなくて姫様の護衛を連れて行けばいいでしょう」
「いやよ」
「また姫様はそうやって我儘を……」
「我儘だっていいわ。あの子とはいつでも会えるけど、シルバーとは滅多に会えないのよ。ここはもう、茨の谷ではないの」
「それはそうですが。俺みたいな騎士団で役職も与えて貰っていない存在が姫様の護衛に相応しいとは思えません」
「普段お兄様の護衛をしてるじゃないの」
「それは、若様と同じ学校に入学できる近い年のものがいなかったからで」
どうしてシルバーは私と一緒に居るのを嫌がるのだろう。私のことが嫌いなのかしら。でも、こっそり部屋に会いに来てくれた時、リリアはシルバーが私のことを心配していたと言ってたので、嫌われてはいないのだと思う。
「ずっと言ってるでしょう。私はシルバーが好きなの。だからずっと一緒に居たいのよ」
「ですが……」
身分差? 種族差? 何を言い訳に彼は私を拒むのだろう。前述した二つなら私が解決すればいい。けれども他に好きな人がいるとか別の理由だったら私にはどうすることもできない。
「久しぶりに会えたんだし、今日は良いわ。だって素敵なハロウィーンだもの。ハロウィーンは笑顔で過ごさなくちゃ。さあ、シルバー。魔法の呪文を唱えて頂戴?」
「……trick or treat!」
「はいどうぞ」
「これは……?」
「私が手作りしたクッキーよ。可愛いでしょう。アイシングして全部違う動物にしてるのよ」
「凄いな。姫様は器用だな」
「――っ!」
ふわりとほほ笑むシルバーに一瞬で頬に血が集まっていったのを感じた。嫌いな相手にはこんな表情は絶対に出来ない。無意識だろう、昔と同じ口調で話しかけている。敬語は嫌だった。昔のままのシルバーで、壁を作らないでいて欲しかった。
「どうしたんだ?」
「もうっ、もう、シルバーったらそういう所よ」
「どういう所だ」
「もういいわ。じゃあ次はこっちの番。
trick or treat!」
私が元気よく言うと、シルバーは困ったように眉を寄せる。
「あなた……もしかして……」
「すまない。お菓子は全部もう渡してしまったんだ……」
「じゃあ悪戯ね」
「お手柔らかに頼む」
誰が遠慮なんてしてやるものですか! にやりと微笑んだ私がシルバーの顔の方へと手を伸ばす。デコピンでもするのだろうか、だったらしゃがんでやらねばなるまいとシルバーが親切心からしゃがんだのが間違いだった。
「隙ありよ」
シルバーの頬へ唇を落とす。ゆっくりしていたらシルバーが感付いてしまうから、迅速な動きだったのだけれど、それでも至近距離のシルバーの顔は心臓に悪かった。彼は、光のように綺麗な顔立ちをしていた。睫毛も長くて、肌は白くて、瞳はオーロラ色で、私よりお姫様みたいだ。けれど身長差が、鍛えられたその腕が、筋張った指が、剣を握ることでゴツゴツしたその手のひらが、シルバーが男の人だと私に告げるのだった。
「姫様、何を……」
「シルバーが悪いのよ。シルバーが、お菓子を用意していないから」
そして私を疑いもしないから。私は可憐なお姫様でありながら、悪い魔女なのだ。シルバーを手に入れるためならきっと手段も選ばない。
「お前たち、何してるんだ?」
「こら、カリム!」
私は貴方が好きなの。だからこういうことしたの。そう続けようとした言葉は、包帯でぐるぐる巻きの褐色の男性――カリムと呼ばれた少年によって阻止されてしまった。
私たちに甘い空気が流れないのは当人たちの意志だけでなく、こういう風にタイミングに恵まれないのもあるかもしれない。
総合的に見ると、今日は良い一日だった。喧嘩はしてしまったけれどお兄様からお菓子は貰ったし。シルバーに手作りのお菓子を渡すことができたし、帰るまでの時間シルバーを独占できたし、邪魔をしてきたカリムという少年は大商人の跡継ぎという事で、次に商談をする約束を結ぶことができた。女の子の伝手が駄目なら男の子で伝手を得ればいいんだわ。兄の意志を多少は尊重するけれど、でも全部言いなりになることもしない。それが私。適度に反抗するのも妹の務めだもの。
「あら、姫様。眠たそうですよ。今日はもうお休みになられては?」
「そうします……おやすみない」
「はい、姫様。おやすみなさいませ」
***
「ドラコニアさん!」
「!」
大きな声で叫ばれて私は目を開けた。私のすぐそばで箒を支えているのはクラスきっての優等生。彼女が焦った顔で私を見ている。
「何してるの、いくら貴女が居眠り常習犯でも飛行術の最中に眠るなんて!」
「それは――」
「言い訳なんて聞かないから。箒から落っこちて頭でも打ったらどうするの! いくら貴女が魔法が上手でも、意識を失ったら自分で自分を治癒することなんでできないんだからね!」
「ごめんなさい。悪気はなかったの」
「わざと寝ていたら絶対に許さないから」
地上へと無事に降りたあと大きな声で私を叱りつける彼女は、面倒見がよくて優しい子なのだろう。しかし、女の子と言うのは難しい生き物だと、私は学校に来て学んだ。
例えば。彼女が私を叱りつけるというのは正しい行動だ。けれども私が姫という肩書を持っているから(現在貴族や大富豪の娘はいても一国の姫はいないのだ)、その私を叱りつける彼女を不敬ものだと詰る人が出るのも事実。だというのに、家族でもない、主君でもない私の身を案じて叱って正してくれる。
「ええ、許さないで。それからあなた――とっても優しいのね」
だから贈り物を授けるわ。
「え?」
滑らかな彼女の額にキスを送る。シルバーの肌の感覚とはまた違う感触に、私はあのハロウィーンを思い出した。この子が不細工だとは思わないけれど、でもシルバーは彼女よりうつくしい顔立ちだった。ああ、シルバー。私のものにならないあなた。
「優しいあなた。あなたに幸福が授かりますように」
「姫様!」
護衛の彼女の怒りは、箒の上で眠ったことなのか、勝手に祝福を授けたことなのかは分からなかった。
「姫様、最近眠る時間が長くなっていますね」
「そうかしら?」
「ええ、姫様のことはきちんと記録してるので間違いございません」
「少し怖いわ」
「主君の体調管理も仕事の内ですので……呪いが強まっているかもしれませんし、マレウス様やリリア様にこの件はご報告しますね」
「うぅん……私は報告するまでもないと思うけれど、任せるわ」
「畏まりました」
この時の私は、私の身体に起きている変化を何も感じ取っていなかった。睡眠時間が長くなっていることも、急に寝落ちる回数が増えていることもまったく自覚症状がなかった。けれども、呪いよりなにより明確な変化が私へと起きた。
それは、いつもと変わらない朝だった。日常に変化はなく、旧友との関係も特に変化はなく、ただ季節だけが過ぎていき、12月のはじめ、ホリデーの足音が聞こえ始める季節に差し掛かったころだ。
「姫様、おはようございま……その目はどうされましたか?」
「目?」
寝起きで瞼がまともに開かないけれど、視力に問題はない。となると物理的な変化だろうか。指を一振りして手鏡を寝台へと呼びよせる。眠気を堪えながら目を開けると。
「あら、まあ」
兄と同じ瞳が私を見つめていた。私の髪はふわふわのブロンドで、ストレートの黒髪を持つ兄とは全く違った。けれども瞳の色だけは全く同じだったのだ。ただ、私のそれは人間と同じ瞳孔だった。今私を見つめている瞳は、瞳孔の形すら兄と同じになっていた。口元にも違和感があり、少し口を開けて確認すると、これまた兄と同じ牙が生えている。
「一晩で随分お兄様に似てしまったわね」
「なんで姫様はそんなに落ち着いていらっしゃるんですか? 今日は授業に行かなくても構いません、そこで寝ていてください。私はマレウス様とリリア様にお伝えしてきますので!」
「そんな大げさ……もう姿が見えないわ」
でも授業に出なくていいのはラッキーだ。朝の二度寝は何物にも代えがたい贅沢なので、私が再び惰眠をむさぼろうとした瞬間。
「姫!」
「姫、ほら顔をこっちに見せろ」
兄とリリアが前触れもなく転移してきた。
「どうしたんです、こんな朝早く」
「お前の護衛から話を聞いた、ああ、僕の可愛いお姫様。その顔をよく見せてくれ」
「はい、お兄様。お好きなだけ」
至近距離にある兄とリリアの顔。普段は見慣れてしまったけれど、こんなに近くにあると圧が強すぎて視線のやり場に困る。二人とも目力が強すぎるんだもの。
「うーむ、完全にマレウス、お主と同じ瞳じゃな。牙も」
「ああ。魂の形が僕に寄ってきてしまっている……姫、最近何か変わったことはないか?」
「変わったこと……特に覚えがありません」
「絶対あるはずなんだ。茨の谷いたときと違うことだ。些細なことでもいい。言え」
「ええと……」
そうは言われても全く心当たりがない。護衛の彼女に世話を焼かれて、授業を起きたり起きなかったりの日々だもの。
「そう、ですね。強いて言うなら前より級友と会話することが増えたくらいでしょうか。皆さんドラコニアさんと私を呼んで――」
「それだ」
「それじゃな」
「魂が名前に縛られ始めているんだ。リリア、姫を茨の谷へ連れていく。学校にしばらく休むと伝えて、必要であれば僕の名前を出してくれ」
「あい分かった」
「待って、お兄様。私は元気よ」
「駄目だ。これは一刻を争うんだ」
「お兄様、でも」
「聞き分けてくれ、可愛い僕の姫君」
いつも尊大で傲慢な兄が縋るような眼差しで私を見つめてきたら、懇願されてしまったら、私は言葉を飲むしかできなかった。でも、ここにはシルバーがいるのに。茨の谷より近くにシルバーがいるのに。どうして私は、好きな人の近くにいることすら許されないの?
兄の転移魔法は強力で、自分自身だけでなく他の人間も移動させることができる。学校から茨の谷の私たちの城まではかなりの距離があると言うのに、いとも簡単に二人を転移させるのだから兄の魔力の多さとコントロールの繊細さには驚かされる。
「ま、マレウス様? 姫様? 一体どうされたのですか!」
「姫が病気だ。学校にはおいておけない。おいお前、そこのメイド。はやく姫の寝室の準備をしろ」
「ご病気ですと? 医者を――治癒士を早く呼んで」
「いや、いい。これはそのようなものたちで治せるものではない。姫を茨の谷から出したのがよくなかった。繊細で病弱な姫が外の世界の空気に耐えられるはずがなかった。そうだろう? この可憐な僕の妹は、妖精の中の妖精、茨の谷の妖精姫に、外の世界の穢れた空気は毒でしかない。なあお前、茨の谷は世界で一番いい場所だろう?」
兄は、一体何を言っているのだろうか。私は学校で一度も体調を崩したこともないし、食事も摂らなかったことがない。級友とも少し馴染んできたし、年頃の少女たちの性質もわかってきた。世界は茨の谷以外にも広がっているという事を学んだ。どうして兄はそんな嘘までついて、私を城へ閉じ込めようとするのか。
「はい、もちろん。マレウス様がそのうち統べるこの国は、世界で一番の国にございます」
「ああ――お前はよく、判っているじゃないか。姫はここに戻ってきたが、それは療養が目的だ。間違っても政務なんてさせるな」
「おに、お兄様――」
「どうした、僕の妹。可愛い姫君。体のどこかが苦しいか?」
「いいえ、お兄様。私はどこも悪くありません。学校に」
「駄目だ」
兄は厳しい声で言って、それから私の耳元で、私にだけに聞こえる声量で囁いた。
「その瞳と牙の変化はどうやって言い逃れするんだ? すべてが元通りになるまで、僕は君の復学を許さない」
兄のそれは、間違いなく愛情だった。生まれながらの王であるがゆえに。人間より上位の種族であるがゆえに、それは些か一方的すぎるきらいはあったけれど、兄は私のことを心配していたのだった。優しくされているのだ。愛されているのだ。だから、その愛情に報いることが私にできるたった一つのことなのだ。
「私の身体が元通りになったら――学校へ戻してくれる?」
「約束しよう」
兄は私の瞼の上にキスを落とした。幼いころから変わらない、兄の私への愛情表現だった。メイドが私の部屋の準備が整ったことを伝えにやってきて、私は兄の腕に抱かれたまま、自室という監獄へと運び込まれたのだった。
うららかな日差し。暖炉でしっかりと温められた部屋の中にいると、冷たいはずの北風も心地よく感じる。身に纏うドレスは最上級のもので肌に当たる感触が気持ちいい。私の長い髪はメイドたちによって丁寧に梳られ、丁寧に編み込まれ、華やかな髪飾りで彩られていた。纏う洋服はすべて淡い色彩。黒なんてもってのほか。これもすべて兄の命令だった。
「退屈だわ……」
「中庭でも散策なされますか?」
「それは昨日もしたわ」
まるで一国の姫君のように(事実、そうではあるのだけれど)、何不自由のない優雅な生活を送っているからか、尖っていた牙は元のように戻った。原理は何も分からなかったけれど、兄の講じた治療方法が間違っていないことは証明された。このまま瞳もすぐ元通りになるだろう。
私は自分のことを怠惰だと思っていたけれど、それはシルバーが睡魔に負ける自身のことを怠惰だと称していたから引き摺られていただけらしい。兄は私のことを病気だと言ったけれど至って健康体だし、睡眠を取らされすぎて逆に夜も眠れないくらいだ。呪いによる睡眠は、また別なのだけれど。退屈過ぎて政務でも手伝おうかと考えるくらいには、することがなかった。
「もう少しでマレウス様たちがホリデーでご帰宅なさいますので……」
「そうね、お兄様たちが帰ってきたら相手をして貰うわ」
ああ、はやく帰って来ないかしら。お兄様に直談判してこんな軟禁みたいなことはやめて貰って、それからシルバーと過ごしたい。シルバーは学校でどんな様子かしら。
シルバー。彼のことを考えると、胸に炎が燃え上がってくる。シルバー、今何をしているのかしら。私が四六時中あなたのことを考えているように私のことを考えてくれているかしら。そうだ、戻ってきたときにシルバーの好物を作ってあげよう。……と考えて私は彼の好物を知らないことを知る。
(リリアの作った食事は全て残していたけど、あれは毒だもの。食べ物じゃないわ)
そう言えば、何かを残した姿も、彼が口に入れた瞳を輝かせた様子も記憶にない気がする。シルバーはあまり表情の変化がない部類ではあるけれど、全くの無表情と云う訳ではない。だというのに、私は何も彼の好物を思い出すことができなかった。
「私はシルバーのことを何も知らないのね……」
手料理はやめにして、ホリデーの贈り物を考えよう。せっかく伝手の出来たカリムという少年に話を付けてお兄様には遠い国の珍しいものを。リリアは軽音部に入っているというから、楽譜か新しい楽器を。セベクには鍛錬の道具を。シルバーには武器の手入れ用品と、手編みのマフラーと手袋。あと、シルバーのことを調査する。たとえば故郷とか。
うん、頭の中ですることを決めたら今度は時間が足りなくなってきた。メイドに声をかけて図書室から編み物の本と肌触りの良い毛糸を準備して貰う。それからカリムという少年にメッセージを送り、返信を心待ちにしていた。
カリムから贈り物を見繕って貰い、茨の谷への輸送の手配も完了した。城の書庫へちょくちょく通い、茨の谷の地図を再度確認した。昔話と長話が大好きなメイドからリリアの昔話を聞き、その流れでシルバーを拾ってきた日のことも聞いた。お気に入りの香りのフレーバーティを飲みながら、せっせと編み物を進める。シルバーは服に頓着しないから防寒具窯と身に揃っているとは思えない。だからきっと、これは喜び――はしなくても、使っては貰えると思う。
(楽しみだわ)
シルバーに、何度も何度もあなたは私の特別だって伝えよう。言葉だけじゃ信じて貰えないならこうやって態度で示せばいいの。そうしたら、きっといつかは伝わる。だって昔は私たち、あんなに仲が良かったんだもの。いつでも一緒だったんだもの。
編んでは不格好な部分を解いて。さらにまた編んで。夢中でやっていたら手が滑って編み棒の先で指をついてしまった。
「あ、ら?」
編み棒の先は尖ってない。丸く削られていて、当たっても痛くないように作られている。もし先端に毒が仕込まれていたとしたら、これまでの期間に絶対触れているはずだ。けれど、ただ、何の変哲もないただの棒が私の指をついたとき、私は茨の眠りについてしまったのである。
ethica
|
|