プールの底から見上げた空は、ゆらゆらと揺らいでいた。水に反射した太陽光がちょっと眩しい。でも、それを綺麗だと思う。私はこの水底から見上げた空が大好きだ。いつまでもこうしていたいけど、私は人魚じゃないから出来ない。水中に棲むことができたらなあ、といつも思う。だんだん息が苦しくなったから、酸素を得るために浮上する。一度水中に沈み、プールの底を蹴って飛び上がる。
「きゃっほーっ!」
ちょっと普通じゃない浮上。水中から出るときは無理矢理にでもテンションをあげないと寂しくなる。センチメンタルを感じる。それを払拭するために叫んでテンションを上げてみようという作戦だった。
「……え」
しかしその作戦は失敗し、生き恥を晒すだけになった。プールのへりで誰かが私を見ていたなんていったい誰が予想できるだろうか。気のせいかもしれないけれど、相手は息をのんでいたように見える。
そして一瞬だけ目があった彼は、驚いたように大きく目を見開いて私を見ていた。それもそうだよね、と思う。私も彼を認識した瞬間彼と同じくらい目が大きくなっただろう。視線が離せない。だって、あなた。あなたは。
ぱしゃん、と水の跳ねる音が聞こえた。次の瞬間、人間である私は重力に逆らえず、再び水中へ沈んでいった。
「ほんっとーにすみません! ごめんなさい!」
「別に気にしなくていいから」
「でも、びしょびしょ……」
「夏だし、たぶんすぐ乾くから」
気にしていません大丈夫ですよ〜的なことを言ってるけど、なんだかずっと無表情で怖いんですけど。怒ってるのかな? 私だったら怒るから絶対怒ってるよね……。
プールに沈んだときに散った水滴で目の前の彼を濡らしてしまった。衣替えをしたばかりの半袖は下に着ているシャツが透けるほど濡れている。いくら六月下旬、初夏と言えどもびしょびしょだったら肌寒いだろう。おまけに彼が手に持っていた本まで濡らしてしまった。罪悪感から彼に渡したタオルは、そう言えばさっき一度私が使っていてあんまり意味がなかった。
「本当にごめんなさい!……えっと……?」
「郭英士」
「郭くん、ですね。私はみょうじなまえです」
「なまえ?」
「はい、なまえと言います。どうかしたんですか?」
「いや、別に」
「ふーん?」
「……そう言えば、昼休みなのにみょうじさんはどうして泳いでたの? 勝手に泳いだら怒られるでしょ」
「あ、私は水泳部だから……」
水泳部といっても、私の学校の水泳部は強豪ではないから昼休みまで泳ぐような熱心な部員は私くらいしかいないけれど。ああ、良かった。郭くん、無表情だけどあんまり怒ってないのかも。さすがに謝るだけじゃ味気ないかなーって思ったので話題を振ってみることにします。
「郭くんこそどうしてここにいるんですか? ここに人が来るなんて珍しいんだよ」
「俺のクラス五限がプールで、早く来たら水音が聞こえたから」
「あれ? 郭くんとクラス一緒だった、かな……?」
「クラス隣なんじゃない」
「あ、そっか」
道理で見たことないと。いくら物覚えの悪い私でもさすがに進級して2ヶ月も経ったらクラスメートの顔くらい分かるもん。でも、隣のクラスなら仕方ない。だって体育の授業って水泳以外は男女別々だしね。そして水泳の授業はまだ始まったばかりだ。
「…………」
「…………」
「…………」
会話が途切れてしまった。元々私は喋るのが上手ではないし、郭くんもあまりしゃべるタイプではないと見える。特に女子とは。こちらを見もせずに彼は持ってきた本のページを熱心に繰り始めた。ところどころシワシワになっているページをみると申し訳なさで心が痛んだ。弁償しよう……。しばらくしても同じ大勢のまま読書を続ける郭くんをみて、どうやら私と会話する気はないらしいことに気付く。彼の中ではもうあの一軒は終わったことになったのだろう。
「……」
どうしようかなあ、と悩んだけどもう一度泳ぎ直すことにした。水に入って数秒間はプールサイドにいる郭くんのことが気になったけど、冷たい水に全身が包まれた瞬間にもう忘れてしまった。
たぶん、俺は思いっきり眉を潜めていたのだと思う。なぜそう思ったのかと言うと、目の前の女子──みょうじさんがとても困った顔をしていたからだ。普段から俺の顔はとても愛想がないと評判で、少し眉を潜めただけで喧嘩を売ってると勘違いされるほど。みょうじさんは俺のほうに向かって差し出された手を引っ込めることもできず、だからと言ってそのままを保つことも難しいようだ。……口には出していないけれど、顔が雄弁に物語っていた。
「何、これ」
「お詫びと弁償です」
「……なんの」
「えーっと、この前水をかけちゃったことの」
別に女子からものを貰うことが恥ずかしいとか、初めてだからどうしようかなどと言うわけではない。お菓子やらなんやらはむしろ貰い慣れている。だから悩んでいる理由は、なんで今なのかということだ。水をかけられた(もしくはみょうじさんと初めてあった)のは、もう1週間も前のことだ。お詫びにしては遅すぎるだろう。お詫びとは通常は翌日とか、遅くても3日以内に素早くするものじゃないのだろうか?
「いきなりなのはごめんなさい。だけど、腕疲れてきたんで受け取ってくれるならはやく受け取ってください」
「ごめん」
ああ、しまった。早口で言われたから反射的に受け取ってしまった。女って、ここからが長いんだ。真っ赤な顔して目を物欲しそうにキラキラ(もしかしたらギラギラ?)させて、だらだらと話始める。好きでもない、ってゆーかほぼ初対面の人間の好意なんてただ面倒臭いだけだ。好いてくれるのは有難いけど、それを全面にだしてアピールされるのは好きじゃない。恋愛に関してはお互いの気持ちを秘めたまま、ゆっくりゆっくり距離を縮めて行きたいのだ。
「それ濡らしちゃった本の代わりと、お詫びの市販のクッキー、です。本はわからなくて郭くんが好きそうなのを適当に買ったから、もし同じのが良かったら言ってください。同じの、買うから」
「ああ、うん」
「本当にごめんね。それじゃあ」
一度深いお辞儀をしてから、くるりとスカートを翻して彼女は去っていった。拍子抜けだった。こんなにあっさりと去られるとさっきまでの自分の自意識過剰が少し恥ずかしくなってきた。気をとりなおして包みを開けてみると、俺が欲しかった本があったので、彼女に買い替えの催促をすることはないと思う。
常にトップテンにいる。とてもモテる。先輩に告白された。同級生に告白された。クラスでは一人でいることが多いらしい。運動が上手で、特にサッカーが上手い。何かのセレクションに選ばれている。すべて最後に「らしい」という単語がつくけれど、それが私が聞いた『郭英士』という人物だ。
「めずらしいね」
「何が?」
「なまえが誰かのことを知りたいっておもってるの。東京にきてからはずっと友達もつくらなかったのに」
どうしたの、郭に惚れた? なんて言って亜稀ちゃんがクスクス笑った。
「そんなんじゃないよ」
「本当? でも、それにしては一生懸命だったように見えたけど」
「や、だって私、郭くんに水をかけちゃったの」
「え、どうしてまた」
「昼休みにプールで泳いでいたら、浮き上がったときに近くにいて……」
「なまえはドジだなあ」
そう言って亜稀ちゃんはまたクスクス笑う。プールサイドにいた男の子――郭くんは無表情で亜稀ちゃんは表情が豊かだから判断が難しいけれど、二人は似ているように思う。一瞬、成長した亜稀ちゃんかと思ってしまったくらいなんだから。
「……なまえは本当に泳ぐのが好きだね」
「亜稀ちゃんは好きじゃないの?」
「好きだよ。だけど、ぼくはもう泳げないから」
だから、なまえの気持ちは分かんないなぁって。そんなことを言われたら、とても悲しくなる。だって私が亜稀ちゃんから泳ぐことを奪ってしまったのだから。でも私はまだ水中にいる。毎日ゆらゆら漂っている。後悔しながらも、泳ぐことはやめられない。そういう風に生まれついてしまったのだと思う。だって私は人魚だから。地上にいるのが息苦しいと感じてしまうくらい、人間の生活に馴染めていないのだから。
「ねえ、本当に郭のこと好きじゃないの?」
「違うよー」
「なまえも早く彼氏をつくればいいのに」
「ええ? 私にはまだはやいよ」
「早くないって! いい加減に地に足をつけて歩いてほしいよ。一体いつになったらぼくから離れられるんだろうね?」
うるさいのは嫌いだ。学生の昼休みの喧騒なんてその最もたるものである。せっかくの休憩時間なのだから静かにしろとか勉強しろとか話すなとは言わないし、ある程度は騒いでも良いだろう。だけど、限度と言うものがあると思うのだ。
しかしそう考えているのは恐らく自分だけで、大半の生徒は騒いでなんぼと考えている。だからってものを投げるのは勘弁して欲しい。さっきから目に入る範囲で物体がいったりきたりいったりきたり。たまに此方へ飛んできて足やら本やらに当たってしまうものだから集中力も切れてしまう。今クラスの男子の間に流行っているのは上履きで卓球の球を打ち合う遊びで、その流れ弾が三回目に自分のほうに飛んできたとき、俺は本を閉じた。
(……ふぅ)
やって来たのはプールサイド。別に図書室に行っても良かったのだが、あそこは"教室に比べて"静かなだけであって自分が望むほど静かではないのだ。だからといってプールサイドに来る理由はないのだが。以前、足を運んだとき(あの不思議な少女にあったときだ)にあんまりにも静かだったし、夏しか来れない場所だからと足を運んでみた。思った通りとても静かだった。水音がしないから今日は彼女は居ないのだろう。そう思って座った瞬間、
「うわああああああああああ!」
……どうやら彼女はいたらしい。と言うかあの叫びはなんだ。なんでそんなに死にそうな声を出してるんだ。肩で呼吸していることから長時間水に潜っていたことが分かる。排水口だと思っていたけれど、もしかしたらあの黒い塊が彼女だったのか。人間って浮くものじゃなかったっけ。
「あ」
「……」
そんなことを考えながら凝視していたら。彼女がこちらに気づいた。
「郭くん! やふーいっ」
「…………こんにちは、みょうじさん」
嬉しそうにくるりとターンをきめて、それがまるで魚みたいに見えて俺は少し瞬きをした。とても、綺麗に泳ぐんだなあ。体が水の一部みたいだ。水中の生き物みたいだ、と柄にもなく見惚れてしまった。そんなことをぼんやり考えているうちに彼女がプールサイドに上がってきた。濡れた髪が身体にへばりついてなんとも鬱陶しそう。と、同時に濡れた水着がぴったりと身体に張り付いているのを見てしまって、視線のやり場に困った。
「わー名前覚えててくれたんだ。意外!」
「意外って……」
「他人に興味なさそうだもん。絶対クラスメイトの名前すら覚えてないよ。それに私そんな有名じゃないしね。あ、郭くんは有名だよね。何てったって雑司が谷中の王子様だもんね!」
「どこで聞いたの」
「えへっ」
「えへっ、じゃなくて」
「……てゆか、郭くんも気に入ったんだねえ」
「何が」
「プールサイド。きっと泳ぐのが好きなんだね〜?」
「別に。ここが静かだから来たんだよ」
教室がうるさくって。まあ、ここも君のせいでうるさくなったけどね。
「あー」
目をまんまるくして、彼女は母音を呟いた。……いや、さすがに二番目のセリフは心の中だけにしておいたよ? 俺だってそこまで鬼じゃないし。
「なんかそれ分かるかも」
「なんかね、耳がきーんてして、頭痛くならない?」
今度はこちらが目をまんまるくする番だった。さっきの俺の症状を見事なまでに当てている。
「なる」
「あ、やっぱり?なんか郭くんなら理解してくれそうだと思った。だってさー、耳良さそうだもん。私のは静かなのになれてるからだと思うからさー」
「どういうこと?」
「どっちにかかってるの?」
「私のは〜のほう」
「それはね……私って水に入ってる時間が多いの。泳いでばっかりだから。そんで水中って静かじゃない? 無音とまではいかないけど割りと。だから大きな音になれてなくて、頭がきーんとしちゃうんです」
「ふぅん」
「ふぅんて。反応薄いね」
「ごめん聞いてみたはいいけど実はあんまり興味が湧かなくて」
「酷い!」
ムッとした表情の彼女は、なんか最初のときと二回目と印象がずいぶんと違った。なんでか解らないんだけど。
(あ、今日も来たんだ)
いつも通りにプールで泳いでいて、息継ぎのときに彼を見つけて脳内を瞬時によぎった言葉がそれ。誤解がないように言っておくと別に郭くんのことは嫌いではありません。性格的にも私と若干似てるし、話しやすいとかそういう意味では好きかもしれない。だけどもう、大事な人を失うのは嫌だから。
「うわああああああああああ!!!」
「……みょうじさん」
「どしたの郭くん」
今日も今日とてプールサイドで読書をしていた郭くんは、本から視線を上げ呆れたように私の方を見ていた。あ、やっぱこの叫び声についてなんか言われるのかな。理由を聞かれてもな、本当の理由は割りとヘビーだから言いにくいんだよな。泳ぐのは好きで水も大好きだけど時折たまに怖くなるなんて矛盾。
「うるさいんだけど」
「え、ちょっと何。いきなり酷くないですか」
「もうちょっと静かに浮上してくれる」
「えー? いつもって訳じゃないんだから、たまになんだから許してく」
「もうちょっと静かに浮上してくれる」
「たまになんだから許してくれても良いんじゃないかな」
「読書に集中できないんだけど」
「……駄目だ会話をしようと云う意志が感じられない!」
タオルでガシガシ髪を拭きながら郭くんが座ってる見学者用のベンチに近寄ると上がってから長いこと冷めた目で見つめられていた。単に傷むよとか女の子らしくないって思われてるのかもしれないけれど、雑司が谷中の王子様である郭くんのファンの女の子なら見つめられただけでときめいてしまうかもしれない、そんな長さだった。
「何か言いたいことでもあるんですか」
「うるさい」
「他には言うことないの?」
「静かにして。てゆーか黙って」
「わあ酷い」
ここ数日で私が学んだことは郭くんがとっても毒舌家だということだ。あと女子が「郭くんってクールだよね!」とか言うことが間違いだということだ。郭くんはクールじゃなくてドライなだけだ。似てるけど違うんだよ。決定的になんか違うんだよ。
「もしかして郭くんってそれが素なの?」
呟いた言葉に一瞬郭くんは制止した。いつも怒っている郭くんにしてはとても珍しい。いや、無表情なのは無表情なんだけど、無表情に限りなく近い驚きの表情だ(たぶん)。なんかちょっと嬉しくなってニヤニヤしてるとようやくゆるゆると起動し初めた郭くんからの衝撃。
「……さあ?」
初めて見せた悪戯っぽい笑みに心臓がどきんと跳ねたのは気のせいだろうか。
見事なアホ面だね、と思わずそう口にしてしまいそうになり、少しだけ焦った。みょうじさんは見た目に反してとても暴力的らしく、出会って1ヶ月ほどなのにちょっとしたことでみょうじさんを怒らせた俺はプールに突き落とされて制服がびしょ濡れにされてしまった。本来ならば口も利かなくなるのだが突き落とされたあとで慌てたように必死に謝ってきたので仕方なく許した。と云うより、あんなに泣きそうで怯えていたみょうじさんが可哀想に思ったのもある。いきなり驚かせた俺も悪いと言えば悪かったし。あと、女子にあんなことをされるなんて斬新だった。
「ねぇ、みょうじさん」
「なに?」
髪をまとめているせいで見えるうなじがやけに目に付く。どうして彼女に対してはいつも視線のやり場に困ってしまうのだろう。健全な男子中学生の前に水着の女子がいるから、と言ってしまえばそれまでなんだけれど。
「なんでいつも泳いでるの?」
「いつもじゃないよー。私だって一日中泳いでるわけじゃないもん」
「いやそう言う意味じゃなくて」
「人間の限界はせいぜい七、八時間かなぁ。テレビでやってたの見たけど、七時間水中に浸かってた人の肌あれヤバいエグいよ。なんか痣みたいなんなるの」
「ねえ君会話する気あるの?」
「ちなみに私は最長五時間かな!」
「あ、もちろん痣は出てないよ。慣れって凄いよねっ…………ぃだぁ!?」
なんだかとてもイラッと来たのでとりあえず脳天に拳を叩き落とした。みょうじさんが「痛いじゃんか、郭くんの馬鹿!」なんて怒ったけど痛くしたんだから当然でしょ、ってにっこり笑うと静かになった。俺は聞き分けのいい子好きだよ。
「俺の言いたいこと分かってるよね?」
「痛い痛いこめかみ地味に痛いすみませんでした離してください」
もちろん離すわけがない。俺の下でふおぉお、とか訳の分からない奇声をあげるみょうじさんを割合好ましく思う。本気ではないけど軽く手をあげたり結構弄りまわしているが、そもそも俺は嫌いなやつは無視するタイプだ。たまに徹底的に潰すこともあるけど。それに俺が女子に手をあげたのはみょうじさんが初めてだ。
──初め、て?
「いだだだっ!……うぇ?」
いきなり攻撃の手を緩めたのが気になったのか、みょうじさんが不思議な顔をしてこちらを見ている。
「どうしたの? とうとう優しさに目覚めたの?……っ!」
自分で言ったセリフを想像してツボっているみょうじさんを俺は馬鹿だと思う。それととても失礼だと思う。優しい俺を想像して笑うとか(確かに自分でも想像できないけれど)。だけどその馬鹿を、一馬や結人みたく特別に思い始めている俺だっているのだ。
「あ」
日曜に郭くんに出逢った。そりゃあ普通の市立中学校なんだし学校が同じと云うことは住んでる地区が同じと云うわけで休日に会うことがないわけではない。そうなんだけど、なんて言うか、
(雰囲気違うなぁ……)
本屋で遭遇と云うところは郭くんのイメージなんだけども服装が。いかにも運動してます、練習着です、って云う感じの半袖短パンにエナメルバック。そう言えばサッカーか何かしてるんだっけ。いつも学校に持ってきているデザインではないエナメルにちょっとだけ違和感を感じた。通路の真ん中で不自然に固まっていると、郭くんも私に気づいたみたいだ。読んでいた雑誌から顔をあげ「みょうじさん」とその声で私を呼ぶ。
「こんにちは、郭くん」
「そこ、邪魔になるよ」
「あ、うん」
だからってどうすれば良いんだ。スルーして自分の買い物をするべき? それとも郭くんに寄っていって世間話でもするべき? 立読みの邪魔にならないのかなぁ。ていうか私たちはそんなことするほど仲良かったっけ?
彼とは誰もいない時ばかりに会っているから、人がいるときにどう対応すれば良いのか分からない。距離が分からない。
「変な顔してどうしたの」
「変!?」
「こっちおいでよ」
私がもやもや悩んでいたことを一瞬で突破された。おずおずと隣に並ぶけど、郭くんが視線を雑誌に戻してしまったから話しかけていいのかとさらに悩む。失礼だけど雑誌を覗いて、
「サッカー?」
「うん。サッカー」
「いつも読んでるの?」
「うん。まあ」
「買うの?」
「たまに。でも今回は俺の好きな選手が特集されてたから特別に」
買っちゃった。そう言って微妙にだけど悪戯っぽく郭くんが笑ったから。
(な、ななな……)
普段見せない笑顔を不意討ちで見せるから、私の心臓がおかしくなるんだ。
「あの子誰?」
みょうじさんが帰ったあと、タイミングを見計らったように結人と一馬が現れた。大方、俺の彼女と勘違いして邪魔しちゃいけないとか騒いでいたんだろう。その証拠に、ほら、結人がにやにや笑ってる。
「同じ学校の子」
「ふーん?……彼女?」
「違うよ。ただの知り合い」
「でも、仲良さそうだった」
「そうそう。彼女じゃないなら何? えーし好きなんだろ」
はあ、と。ため息を吐く。結人は親友だ。それは嘘じゃない、断言できる。けど、親友だけど結人と俺はタイプが違いすぎる。正反対。真逆。うん、そんな感じだ。一馬は俺たちの中間かな。きっと一馬を中心に俺たち3人は綺麗な正三角形を作ってる。結人は親友で特別で一馬と並んで俺の中の大切な人ランキング堂々の1位だ。ちゃんと根っこの部分では一緒なんだけどこういう細かい部分はちょっと結人と反りが合わない。結人の二番目に大事なものと俺の二番目に大事なものは違う気がするんだ(ちなみに一番はサッカー)。
「好きじゃないよ」
「またまたー嘘ついちゃってー」
バシバシ背中を叩く結人。正直痛い。から殴り返した。
「ってえ!」
「そっちが先にやってきたんでしょ」
確かにそうだけどさぁ、と結人がぼやく。それより俺はさっきから思い詰めた顔して黙っている一馬の方が気になる。だってウチのFWはナイーブだからね。
「一馬、どうしたの?」
「……別に」
「別にじゃないでしょ。何かあるんだったらす」
「お、なんだ?一馬さっきの子好みだった?」
だから全く結人はすぐそっちに持っていく。セリフを被せられたこともあってまた結人を殴る。へこたれない結人はにやにや笑いつつ今度は一馬ににじり寄っていった。
「違うけど……」
「けど?なんだよ?」
「恋人でもないのにあの英士と仲良いなんて、あり得な──珍しいと思って」
ちょっと一馬それどういう意味なの?
アンニュイだ。――間違えた語弊があった。それじゃあ私がアンニュイみたいだ。正しくはアンニュイらしい。私じゃなくて郭くんが。どうしてそんなことを知っているかと云うと、郭くんを好きな女子はだいたい1クラスに1人か2人は居るのだ。その郭くんを好きな女子が偶然私の斜め前の席で、休憩時間毎と言っても良いくらいの頻度で郭くんの話をするのだ。しかも、聞きたくなくても聞こえる声で。
「さっきの移動時間、郭くんカッコ良かったねー」「ほんとほんと」「普段は他のこと眼中にないって感じなのにぼーっと黄昏てて」「物憂げな郭くんもカッコいい〜」「絵になるよね」
きゃあきゃあ甲高い声で騒がないでください。私騒音に弱いんです。ああほら、頭がキーンって。耳がキーンって。ぐわんぐわん。
「大丈夫?」
「……大丈、夫」
スッと亜稀ちゃんが手で私の耳を塞いでくれる。塞ぐと言ってもそっと優しく耳に手を置いているだけだから雑音をシャットアウトする効果はあんまりない。けれども海の音が聞こえるんだ。海の音。亜稀ちゃんが沈んだ海の音……。キーンって云うのは治まった。私がホッと一息ついたのを見て亜稀ちゃんは手を離した。
「ありがと」
「いいえー。なまえも大変だね」
「ごめんねいつも」
「んーん、別に平気」
私は亜稀ちゃんがいて良かったと切実に思う。亜稀ちゃんがいなくなったからきっと水が怖くなってしまったけれど、彼は私の心の中に戻ってきてくれた。そうしなかったら、酸素がたくさんある地上でも私は呼吸困難になってしまうだろう。
「郭くん凄いね」
「そうだね。……あ、亜稀ちゃん。そう言えばね、私昨日郭くんにあったよ」
「え? どこで?」
「本屋」
「学校の外で会うなんて仲良しだね」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。東京に来てから初めてなまえが仲良くなった人で好きになった人だろう」
「ち、ちが」
「それにぼくにそっくりだよね。もうぼくがいなくても平気だよね?」
水の跳ねる音が普段より少ない気がする。いつもの様にいつものプールサイドで読書をしていた俺は本から視線をあげた。普段だったらばしゃばしゃとかしましい音をたてて泳いでいるみょうじさんが今日はぱしゃぱしゃと情けない音をたてているだけに。たまに潜ったりもしてるみたいだけど長さとか飛び出しの時の奇声がないとか、明らかにいつもとは違う。そんなことを考えているととうとうみょうじさんが水からあがってきた。
「…………」
「どうしたの?」
「……ああ、郭くんか」
みょうじさんは死んだ魚のような濁った目でこちらを見た。何かあったのだろうか、それとも疲れているのだろうか。感情が読み取れない目が、たいそうもどかしい。だけど一馬や結人みたく踏み込んでいいのか分からない。
(だってただこの空気が落ち着くから一緒にいるだけだし、お互いのことすら知らないし)
誕生日、血液型、何が好きで何が嫌いか。結局俺たちは近くて遠い他人。知り合い以上で友人未満。当たり障りのない薄ら寒い言葉をぶつけあう、そんな関係。
「何かがあった訳じゃないよ」
今日のみょうじさんは目だけじゃなく声まで死んでいる。
「でも、」
「郭くん他人の心配してる場合じゃないでしょ」
「……どういうこと?」
「郭くんだって悩み事あるんでしょ? 他人に構ってていいの?」
なんだ、それって八つ当たり? 眉間に皺を寄せたみょうじさんは不機嫌そうに言い放った。なんで今日こんなに機嫌が悪いんだろう。八つ当たりするのは良いけどされるのはなんか不愉快だ。てゆうか俺何も悩みなんかないんだけど。
「ねえそれ誰から聞いたの?」
「──痛ッ!」
質問に返事はなかった。小さく声をあげたみょうじさんは頭を抑えた。ふらふらしながらベンチに座ろうとしていたけど、頭が痛くてそれすら出来ないらしい。くずおれそうになるみょうじさんを、濡れるのも構わず俺は抱き留めた。
「ぃ……や、」
「みょうじさん!?」
「いたい……っやめ、」
腕の中のみょうじさんは気を失ったようだ。聞きたいこともたくさんあるけど、取り敢えず保健室に連れていかないと。
白いシーツの上にみょうじさんは横たわっている。すうすうと聞こえる寝息は一定だが、眉間の皺がなんとも言えない。苦しいのかうなされているのか。もしうなされているなら起こしてあげなくてはいけないのだがしかし、俺の指先はみょうじさんに触れることを頑なに拒んでいた。
(……それにしても不思議だ)
ふと駆け込んできた瞬間を思い出す。手慣れていると言うのか、みょうじさんが倒れたのが初めてにしては保険医の対応が鮮やかすぎた。濡れた身体をタオルで拭き、備え付けのジャージを手早く着せて寝かしつけた。その上ジャージのサイズが恐ろしいまでに彼女にぴったりだったのだ。
「──郭くん?」
「はい」
不意に声がして思考が中断される。振り向くとそこには保険医。彼女はにこにこと笑いながら俺の側に寄ってきた。
「みょうじさんが倒れたときのことを詳しく教えてくれる?」
「はい」
みょうじさんがプールで泳いでいたこと、早目に上がってきたこと、いつもより元気がなかったこと、いきなり頭痛を訴えて倒れたこと。それらを詳しく保険医に説明してる自分がいた。言葉にするとなんだかよくありふれた話になって、こんなにもみょうじさんを心配している自分がなんだか馬鹿みたいだ。大体のことを話終え俺が黙ると、保険医はポツリと呟いた。
「またかぁ。もう治ったと思ってたんだけどな……」
それは小さな声で。思わず、と言う感じの一人言だった。だけど俺はそれで確信する。みょうじさんは前にも倒れたことがあるのだと。そしてその理由を保険医が知っているのだと。……みょうじさんは病弱なんだろうか。なら何故いつも泳いでいるのか。保険医に訊ねようと口を開いた瞬間、いきなりかしましい声が保健室に響く。
「せんせー!先生、いるー?」
「どうしたの?」
「突き指しちゃったー」
「転けちゃったー」
来客はたぶん、女子生徒数人。女子生徒特有の騒がしさで静かだった保健室は一気に喧騒に包まれた。「ぅ……ん」と小さく声が聞こえ、見るとみょうじさんが寝苦しそうにしていた。
(このままだと起きる)
うるさいのは嫌いだ。だから少し静かにしてくれないものだろうか。それに、ここには病人が寝ていると言うのに。
「ちょっと静かになさい。寝てる人がいるのよ」
「えー誰?」
「駄目よ、内緒」
「ならあたし見てこようか」
「お願いー」
「こら起きちゃうでしょ」
「だって気になるもん。ミッチーさっき体育いなかったしさあ」
「あんた本当にミッチー好きだよね」
「かっこいいんだもーん!」
まずい。非常にまずい。不可抗力とはいえ俺はみょうじさんの寝ているベッドの側にいるのだ。男子が女子が寝ている側にいるなんて、そんな気がなくても心配で様子を見ているように見えるかもしれない。いやそれならまだいい。最悪なのは恋人と勘違いされるかもしれないことだ。そんなことになったら──あの時みたいにみょうじさんに迷惑がかかるだろう。
「やめなさい、寝てるんだから」
「だって気になるもん。ねー?」
「ね、ね、教えてよ」
「……みょうじさんよ」
それを聞いて満足したのか、彼女らがこちらに来る気配はない。ほっと安堵の息を吐く。
「みょうじさんてさ、あの人魚姫?」
しかしそれも一瞬で。彼女たちから聞かされた真実に、俺は吐き出した息を再び呑むのだった。
目が覚めると白い天井が見えた。
(……どこだここは)
ぼんやりとした脳がゆっくりと活動し始め、保健室だと結論付けた。ああ、道理で見覚えがあると。メンタルが弱めな私はよく体調を崩して保健室のお世話になっているのだ。そして今回の理由は亜稀ちゃんがいなくなったこと。
「あら、みょうじさん起きたの」
「先生」
「最近は体調が良かったのにね」
目の前で優しく笑う先生に何度迷惑をかけたか分からない。2年になって亜稀ちゃんと一緒にいるようになってからはそうでもないけれど、1年のときは酷かった。ほぼ毎日保健室に来て。先生に落ち着かせてもらって。人が嫌いなくせに、やっぱり私は誰かに助けてもらわなきゃ生きれないんだと思う。
「うん。亜稀ちゃんが居たから」
「あら、郭くんじゃなくて?」
何でそこで郭くんが出てくるんだろう。不思議に思っていると表情を読んだらしい先生が微笑みながら言った。
「郭くんがここまで運んでくれたのよ」
そうか。郭くんか。でもよくよく考えると彼しかいない。私が泳いでいるときに亜稀ちゃんはいないから。学校で泳いでいるとき、側にいるのは郭くん。初めて郭くんがプールサイドに来たときは驚いたけど、最近は当たり前すぎて忘れていた。
「……お礼言わなくちゃ」
「そうね」
「うん」
「……。仲良しなの?」
「分かんない。でも最近よくいる」
「一緒に?」
「プールに」
ああそうだ。私と郭くんの関係って分からない。知り合いなの? 友達なの? それとも、親友なの?
(郭くんの親友に、なりたいなあ)
今のままでも充分に幸せだけどそうなれたらどんなに素敵だろう。親友なら郭くんの側にいても良いんだ。もっと話したり遊んだり、彼と一緒にいることが出来るんだ。そうなることを私は望んでいる。だから、今のままの不安定なポジションが怖い。だって、だって、夏が過ぎてプールに来れなくなってしまったら。そうしたらもう郭くんとお話出来なくなる。一緒に入れなくなる。そんなの嫌だ。寂しい。
あの広いプールサイドで、私はひとりぼっちになる。
そう考えたら冷房の効いている保健室だと云うのに汗が背中を伝った。
ぼんやりしたまま授業をサボり続けていたら放課後になった。午後丸々サボりとか爆笑。てかもう4時か。時間が過ぎるの速いなあ。
(泳いだら、もやもや消えて元気になれるかな)
……うぅん無理そう。気分じゃないってか逆に落ち込むかもしれない。水の中にどろどろした汚いものを持ち込みたくないから、今日は水泳部休もう。なんか今泳いだら沈んで上がってこれなくなりそう。だったら帰らなきゃなあ、なんて思っていたら、
「失礼します」
「かかかか、かっくん。いや郭くん」
保健室に郭くんが現れた。それも、どす黒い笑顔を撒き散らしながら。
「……かっくんて何なの」
「ごめんなさい噛みました」
「かっくんて何なの」
「言いにくかったんですすいません」
「かっくんって、」
「怒ってる!? もしかして郭くん怒ってる!?」
あんまりにも普段と表情変わらなかったから気付かなかった。訳もなくあんないい笑顔を郭くんがするはずかない。だって彼鬼畜だもの。ドSだもの。そんな郭くんを見つめていると彼は私の顔の方に手を伸ばしてきた。
(え、何?)
郭くんの白くて綺麗な、だけどちょっと骨張った手は優しく頬に触れて。それからギュウウッと渾身の力を両頬をつねりあげられた。
「いひゃいいひゃいいひゃいいひゃい!!」
「うるさいな。それにしても不細工だね」
「あにひへふれれふんでふは!」
「何言ってるのか分からないなぁ」
分かってるくせに!
ひとしきりつねられてやっと解放された頬を擦りながら(こいつ手加減を一切しなかった)郭くんを睨み付ける。
「何か用」
「……そんな生意気なこと言う口はこの口?」
「ひっ、ごめんなさいすみません謝るからつねらないでぇ!!」
もうあの地獄は嫌だよと、頬をガードしながら訴えると、珍しく郭くんが柔らかく笑った。あまりに綺麗なその笑みに、私は視線を奪われる。
(うわぁ、)
やっぱり郭くんはかっこいい。こんな素敵な人と親友になりたいなんて、私はなんて高望みをしてたんだろう。
「みょうじさん、今日って放課後ヒマ?」
「え、あ、うん。今日は部活行かないからヒマだよ」
「そっか。じゃあちょっと付き合ってね」
「え?」
びっくりして彼を見上げると郭くんはまだ笑顔のままだった。
「俺が倒れたみょうじさんをここまで運んだんだからね」
ただし、さっきのとは違って真っ黒だったけども。
郭くんに連れられて電車とか乗って(さりげなく切符代を払ってくれてる所がイケメンだと思いました)ついたのは全く知らない場所。
「ここどこですか」
「ロッサ」
「ロッサ?」
「俺の所属してるクラブ」
「クラブって……そんないかがわし」
「殴るよ」
いやもう手が出てますからね。実行済みですからね、郭くん。
「で、私は何をするの」
「練習見てて」
「それだけ?」
「あと俺の親友がみょうじさん見たいって」
親友。その単語が私の胸を締め付ける。親友親友親友。郭くんの、親友。
(嘘でしょう)
目の前が真っ暗になった気がした。いつもの頭痛が起こりそうで、ふらりと私の身体が揺らめいた。……私は郭くんの特別なれないの? 久しぶりに心を許せたその人の、親友にすらなれないの?
「みょうじさん?」
郭くんが訝しげにこちらを見た。きっと今の私の顔はくしゃくしゃに、泣くみたいに歪んでいるだろう。自分でも分かる。きっと、酷い顔をしている。
「どうしたの?」
私に触れようと伸ばされた腕が、私を傷つけないってわかっているけど怖い。私がその手を取れなかったからいけなかったのに。ろくに水を掻くことができない人間の手は、手が、エメラルドグリーンの海から伸びている幻覚を見た・
「あ、あ、」
(なまえ、……なまえ)
フラッシュバックする記憶。私を呼ぶあの、声。思い出の中の声。怖い。怖い。伸ばされた腕が過去のあの腕と違うとは分かっているけれど。だけど、それでも。
「みょうじさん、大丈夫?」
そっと、郭くんが私に触れた。私を落ち着かせようと、安心させようとしてるんだ。そう理解はしてるけど同時に恐怖と緊張で自然と身体が強張るのが分かる。それと、瞬きさえろくに出来ない瞳に涙が滲んでいるのも。いきなり固まった私に郭くんが戸惑いの視線を投げた。
「……人がいない場所に行こう」
そう言って郭くんは優しく私の身体を押す。大人だけど不器用な優しさになんだかさらに泣きたくなった。私はそんなに優しくされていいような子じゃないから、優しくしないで欲しい。
ほんの少しの隙間を開けて郭くんは私の隣に座っている。近いんだけど、でもまだ少し距離があるその位置は、私と郭くんの心の距離みたいだ。
(私は郭くんの親友になりたいんだけどなあ)
でももう無理かもしれない。だってもう郭くんには親友がいるんだもの。郭くんの親友だから、きっと郭くんみたいに格好よくて優しくて──私なんかじゃ役不足だろうな。
「落ち着いた?」
「……うん」
「そっか」
「うん」
「…………」
「…………」
何も言わないのは郭くんの優しさだろうか。幸いなことに私は沈黙が苦にならない性格だ。心地好い沈黙なら喋っているより黙っている方が好きだ。だけどいつまでも黙っている訳にもいかなくて、ゆっくりと口を開いた。
「練習、いいの?」
「監督には言ってるから大丈夫」
それって、私のせいで練習に遅れてしまったんじゃ……。
「郭くん、ごめんね」
「別に」
「ありがとう」
「どういたしまして」
また沈黙。だけど今度は少し気まずい。郭くん練習に行かないのかな。こんなとこまで通うってことは本当に大切なものなのだろうに。
「みょうじさん」
「どうしたの」
「俺、みょうじさんに聞きたいことと、言いたいことがある」
「え、」
私、なにか郭くんにしてしまったのだろうか。
(……なまえ)
キィン、と耳の奥で音がした。そして、また私を呼ぶ声が聞こえる。なまえ、……なまえ。聞きたくもないのに聞こえてくる声。なまえ、なまえ。うるさいなあ、静かにして。思わず耳を抑える。だけどまだ聞こえてくる。駄目だ、やっぱり自分の手じゃ効果がない。そうだ亜稀ちゃん。亜稀ちゃんがここに居たら。
「大丈夫?」
手の甲に暖かい物を感じた瞬間、耳鳴りが治まった。不思議に思ってその暖かい物を見ると、それは郭くんの手だった。
「大丈、夫」
膝の辺りを見つめながら答える。すると手に力が籠り、無理矢理と云う感じに上を向かされてしまった。
「不思議だったんだ」
「何が?」
「人魚姫、ってみょうじさんは呼ばれてるよね」
その話題は、と彼の拘束から逃げようとする。だけど存外郭くんの力は強くて逃げられない。動けないままいると、郭くんの真っ黒な目が真っ直ぐに私を見ていることに気付いた。ああ、なんだか吸い込まれそうだ。
「最初は泳ぐのが上手いからかと思った。だけどそれだけじゃなくて、話せない──いや『話さない』から人魚姫だって」
嫌だ。嫌だ。それは、人魚のことだけは郭くんに知られたくない。
「でもみょうじさんは普通に話せるでしょ。それってどうしてなの?」
郭くんにだけは、知られたくなかったのに。
少し、昔話をしよう。私は昔からプールでも川でも海でも泳ぐのが好きだった。それは海岸沿いに住んでいたということが影響したのかもしれないし、元からそう言う性格だったのかもしれない。それは分からないけど、友人と、いや1人でも私は毎日のように海に泳ぎに行っていた。
空の色を映したかのように透き通ったエメラルドグリーンの海。鮮やかな色をした魚たち。ゆらゆら揺らめく、海底からの空。
それらをずっと眺めていたくて、私は潜った。飽きもせずに、毎日毎日。あの頃、私は地上にいる時間と水中にいる時間、どちらが長かっただろう。息が続かなくなって浮上するとき、酸素を必要とするこの身体をずいぶんと憎んだものだ。ずっと水中にいられる魚を羨んだものだ。それくらい好きだった。
だけど、私はあの事件から。海が怖くなって。人が怖くなって。そして、逃げ出した。
「……私は泳ぐのが好きだった」
「今は好きじゃないの?」
ポツリ、と呟く。そして紡ぐ。言わなくてはならないのだと思う。彼の親友になりたいのなら、そう望むのなら、私の昔話を。郭くんに。言わなきゃ。
「好きだよ。だけど昔の方が好きだった」
「そうなんだ」
「あのね、郭くん」
「うん」
「……なんて言えば良いんだろう。何から言えば良いんだろう。わかんないや」
分かんないの。言わなきゃいけないのは知ってるの。でも分かんないの。亜稀ちゃんに似ているから私は郭くんのこと気になったんだって、親友になりたかったんだって言ったらどんな反応をするのかわかんないの。私は無理矢理笑って見せた。困ったとき、誤魔化すように浮かべるようになったくしゃりと歪んだ笑顔を郭くんは静かに見つめている。
「ゆっくりで良いよ」
郭くんを見る。郭くんは、何時もみたいに無表情で、やっぱり表情が読めない。だからなんでそう言ったのかその真意が分からない。
「え?」
「みょうじさんが嫌なら、無理に言わなくてもいい。誰にだって触れられたくないことはあるのに、ごめんね」
そう言って郭くんは私の頭を軽くポンポンと叩いた。泣かないで、と慰められているみたいだった。おかしいな、私、泣いてないのに。その誤魔化し方は距離をとられたみたいで少し寂しいけれど、今の私たちはまだこれくらいで良いのかもしれない。ほんのりと熱を持った頬を悟られないように私はそっと顔をふせた。
趣味が悪いと言われるのを覚悟で言うと、俺らは英士と、えっと……みょうじさん?を覗き見していた。結人も俺も英士が時たま話題に出るみょうじさんとやらを好きだと思っていた。だってあの英士が、あの英士が女子と普通に会話してるんだ。結人ならともかく、英士が。
英士は人付き合いが上手そうで実は意外と下手だ。いや俺が言えた話じゃないけど。少なくとも俺よりは上手だけど。たぶん、やろうと思えば英士はそつなく人付き合いなんか簡単にこなしてしまうだろう。だけど中学には入ってからは「面倒」と言う理由で人付き合いをやめていた。
曰く、周囲のレベルが低すぎて合わせるのが嫌なんだとか。そう言う下らないことにかまけるくらいならサッカーをしたいらしい。その気持ちは俺にも分かる。俺たちは……俺と、結人と、英士は本気でサッカーをやっている。プロになりたいと思っているし、今の段階ではそれが叶うだけの実力があると思う。
だからこそ無駄を嫌う英士は、人付き合いを止めたんだと思う。ああ見えて実は臆病な英士は、プロになれなかったときの保険のためにいい成績をキープしている。人生を失敗しないようにしている。俺と、特に結人の通知表と違って英士の通知表には5しか並んでない。あんなに遠征や練習があって学校を休んだりしているにしては驚異の成績だと思う。
英士は真面目な努力家で、だからこそ他人に厳しい。そして強そうに見えて過去のトラウマから少し臆病だ。だからこそ英士には幸せになって欲しい。英士が本当にみょうじさんを好きなら、俺たちは全力で英士を応援するだろう。そう思ってた。だけど、今日、あの二人を見て。思ったのは。
「なぁ、一馬。あれってさあ……」
「ああ」
「英士の一方的な片想いだよな」
「……ああ」
熱に浮かされたように見詰めあう二人。確かに英士の彼女を見る目は恋だった。だけど彼女の英士を見る目は恋ではなくて……別の誰かを見ていたんだ。
ザァザァと、激しい雨の音が聞こえる。少し遅めの梅雨に入ったため最近は雨ばかりだ。別に雨が降ったくらいでサッカーに支障はないけれど、それでもこの季節はあまり好きではない。
なぜなら、同級生(主に男子)の行き場をなくした熱が教室内にこもり、妙に空気が蒸し暑くなるからだ。いや、単に湿気が多いからかもしれないが。やり場のないその熱を、仕方なしに教室内で暴れることで発散する奴が多いから困る。上靴で卓球するより酷い。
(うるさい)
いつもならプールサイドに行くのだが、生憎雨だからその方法は使えない。泳ぐのには支障ないかもしれないけど、と考えてふとみょうじさんを思い出した。彼女は今日も泳いでるのだろうか。
(まさか、ね)
あるはずはないと思いながらも、自然と足はプールへと向かった。激しい雨で視界を奪われてる。見えないけど、所詮はプールだ。波に浚われると云うこともないから私は泳いでいられる。陸に上がった人魚を止めることができるのは雷だけなのだ。
(もっと、……もっと)
もっと速く。もっと力強く。私は手を伸ばして水を掻く。人間じゃないみたいに。人魚みたいに。そう念じながら、夢中で。
どれだけ時間が経ったのだろう。がむしゃらに泳いだせいで疲れた身体を地上に引き上げる。気だるい疲れが全身を包んでいて、動けそうにない。これがあるから、私は水の中が良いなあ、なんて思う。地上が嫌だなんて、私もだんだん人魚みたいになってきたなあ、と嘲笑。
嘘だよばぁか。あの時これくらい泳げていたら、人魚になりたいなんか思わなかったでしょ?
瞼の中に極彩色の海が見える。その中に、深海で眠るあの子が見えて私は叫び出しそうになった。気付けば身体がガタガタ震えていたのは、冷えて寒いからだと云うことにしておく。プールからあがり、何をするでもなくベンチの上でボーッとしているとバサリと肩にバスタオルがかけられて。顔をあげるとそこには、厳しい顔をした郭くんがいた。
「郭、くん」
「何してるの」
「泳いでいたの」
「こんな雨の日に?」
うん、と頷くと郭くんの眉間の皺がさらに酷くなった。ああ、駄目だよ郭くん。せっかく郭くんは王子さまみたいに格好いいのにそんな顔したら。だけども、郭くんその、歪んだ顔を少しだけ嬉しいとも思う。だって普段表情があまりない郭くんが、私のために、その美しい顔を歪ませているのだから。
「怒ってる?」
「うん。すごく」
「心配させて、ごめん。でもプールに雨なんて関係ないよ。ここは海じゃないんだから。……私は人魚姫なんだから」
そう。海じゃないんだから。波に浚われて溺れてしまうこともない。ただ視界が悪いだけだ。
「……その、人魚姫って」
「うん」
「どういう意味なの?」
郭くんは眉間に寄せた皺を少し緩めて、だけども厳しい顔で私に問いかける。私はそっと目を閉じた。
もう無理、だな。郭くんに隠しておくの。それに秘密を打ち明けないで親友になろうなんてそんな図々しいこと、あっていいはずがない。……秘密を打ち明けて親友になってくださいって言おう。そしたら、まず、何から言おうか。ちょっと悩んで、それから息を吸った。
「私ね、一年生のとき、喋れなかったの」
実は、私は東京出身じゃない。東京に来るまでは小さいけれど、海が綺麗な島に住んでいた。地図にも載らないような島だから当然子どもが少なくて、学校もひとつしかなかった。同級生も少なくて、私と同い年の子は、亜稀ちゃんしかいなかった。亜稀ちゃんは男の子だけど身体が弱かったから、女の子の私と同じ遊びができたから良かったんだ。
私は泳ぐのが好きで。家の近くにちょうどいい砂浜があったから、大人から危ないからダメって言われても無視して海で泳いでた。亜稀ちゃんは泳げないから側で見ていてくれた。毎日毎日こっぴどく怒られて、あ、さすがに冬場は泳がなかったよ。怒られてたけど、私、泳ぐのが上手だったから沖まで行かないことを条件にひとりで海で泳ぐことを許された。
それが、嬉しくって。前より頻繁に海に通うようになった。亜稀ちゃんはずっと側で見ていてくれた。亜稀ちゃんは、見ていてくれた。ずっと、見ているだけなら良かったのに。
「なまえは泳ぐのが好きだねぇ」
「うん。大好きだよ!」
「毎日毎日飽きない?」
「飽きないよぅ。だって私、人魚になるんだもん」
「また、人魚?」
「うん。人魚」
「好きだねえ」
「だって憧れるじゃん」
この島に伝わる人魚伝説。曰く、昔この島の海に流された男が人魚に助けられて海底にある洞窟へ行った。人魚に一目惚れした男はそこで人魚と暮らす。ある時人魚が男の子を孕み、2人は地上へ戻る。しかし人魚は地上で暮らすことが出来ず海に戻ることになる。その名残かその時の人魚の子孫が海底の、人魚の住んでいた洞窟を見つけると人魚になれるらしい。
「どこに憧れるのかわからないよ。これなら人魚姫の方がずっと感動的だし」
「だって、こんな綺麗な海で暮らせるなんて素敵じゃない?」
だからね、その洞窟にたどり着けるように泳ぎの特訓してるの。島の大人も言ってたでしょ。私泳ぐの上手だから、きっと人魚の子孫なんだ。 亜稀ちゃんはこちらを見て──それが今まで見たこともないほど冷たい目でぞっとしたのだけれど──ふうん、と言った。
「ねぇ、僕も泳ぎたい」
ある日のこと。いつものように海で泳いでいた私に、亜稀ちゃんは言った。
「でも、亜稀ちゃんは」
「僕だって島の子だもん。それに水泳は健康に良いって言うし」
身体の弱い亜稀ちゃんは両親に運動することを禁止されていた。だから亜稀ちゃんは学校の体育すらろくにしたことがない。だけど、確かに病弱な子が身体を強くすると言う話は聞いたことがあった。だから少し位なら良いかな、と私は首を縦に振った。そうすると亜稀ちゃんは満面の笑みで服を脱ぎ、最初から泳ぐつもりでいたのだろう、水着姿となった。
「あ、準備体操……」
「分かってるよ」
そんな会話をしながら。私がいつもしているように丁寧に丁寧に、亜稀ちゃんは身体をほぐしていった。その様子をちゃぷちゃぷ水と戯れながら見ている私。しばらくして亜稀ちゃんがドボン、と海に飛び込んだ。私も慌てて後を追った。
(……うわあ)
亜稀ちゃんは、まるで人魚の様だった。泳いだことはない筈なのに上手に波と戯れている。カラフルな色をした魚たちと楽しげに戯れていた亜稀ちゃんは、すぐ側に私の存在を認めると、口角を少し上げてさらに深く潜っていった。私も深く潜っていく。そして呼吸をするために一度海上へ出る。ぷはあ、と情けない音を出して久々の酸素をたっぷり吸った。
「亜稀ちゃん、」
「ね、なまえ。僕だって島の子でしょ」
「うん。あのね、」
人魚みたいよ。私がそう言うと亜稀ちゃんは得意気な笑顔を作った。案外、身体が弱いのもお医者さんが心配し過ぎなだけかもしれない。だって亜稀ちゃんはこんなに上手に泳げるのだもの。視線が絡み合って、それを合図に私たちはまた海へと潜った。
エメラルドグリーンの海は、深くなるに連れその鮮やかさを失う。だけど、海の色が暗くなる度、水中の生き物たちは美しくなっていく。私たちは2人で、海を泳ぐ。遠くへ、遠くへ。魚のように。人魚のように。深く深く。夢中で泳いでいたから気づかなかったけれど、私たちは陸からうんと遠くへ来てしまっていた。
「亜稀ちゃん、」
私は彼に呼び掛ける。ポツポツ雨も降りだしていて、今海にいるのはとても危ない。流石に亜稀ちゃんも不味いと思ったのか、軽く頷くと戻ろうと向きを変えた。その時だった。
「あっ!」
亜稀ちゃんの姿が、海に消えたのだ。慌てて海に潜って彼を探すと、亜稀ちゃんは潮の流れに呑まれていた。私は助けようとする。だけど彼は首を降り、伸ばした手をバイバイと振った。
「やだッ!」
潮の流れは速くて、私なんかが追い付けるものではない。そして飲み込まれたら戻っては来れないと、私は知っていた。だから途中で止まった。亜稀ちゃんがいいよって言ったことを確認して、安全な位置で止まった。私のせいで亜稀ちゃんは、薄く微笑みながら、海の底へ沈んでいったのだ。
「それから。私は慌てて陸まで泳いで大人の人を呼んだけど、亜稀ちゃんは見付からなかった。今もあの綺麗な海の底で眠ってるの」
「…………」
「私、それからショックで喋れなくなっちゃって。毎日毎日海を見て泣くものだから、両親は相談して東京に引っ越したの。綺麗な海も、自然もない、東京に」
「そう」
「喋れなかったから。でもプールだったら上手に泳げたから。誰かが私を人魚姫って呼んだ。そしたらそれが広まっただけだよ」
「うん、」
「まだ、引きずっているけど。……酷いよねぇ、私、もう亜稀ちゃんのこと忘れかけてるんだ」
どんな顔をしていたか。どんな声をしていたか。徐々に忘れていく。忘却という機能はすべての人間に搭載されているものだからだ。私は忘れないように、心の中に亜稀ちゃんを作った。空想の中の亜稀ちゃんが傍にいてくれると罪悪感が薄らいで、声が出せるようになった。
そして、なんとなく、亜稀ちゃんは郭くんみたいな顔をしていた気がする。思い出の中の彼を空想の中で成長させた姿だけれど。……だからあの一瞬で私は郭くんに惹かれたのだろうか。郭くんの親友になりたいと思ったのだろうか。泣きたいような気持ちで、郭くんを見る。嗚呼、亜稀ちゃん。亜稀ちゃんみたいな男の子。私は、あなたの親友になりたい。たぶんこれは恋ではなくて、失った友人の代役を求めているだけなのだと思う。
「忘れたくなんか、ないのに」
そう言うと郭くんに優しく抱き寄せられた。励ましてくれているのだろうか。分からないけれど、狡い私は彼の好意に付け込んで。大声をあげて泣いた。
「ああ、もう」
軽快に鳴った目覚ましのアラームを力任せに止める。うっかりカーテンを閉めずに寝てしまったらしく、寝不足の頭に朝の日差しは辛かった。
「好きだよ」
「ッ!!」
昨日、郭くんが私に言った言葉がリフレインする。あの安心する暖かい腕の中で、泣きじゃくる私を抱き締めて。確かに彼はそう言ったのだ。驚きの余り、一瞬呼吸を止めたような。突然のことに戸惑いの視線を投げたような。そんな気がするけれど、でもはっきり覚えていない。
「だって、あの郭くんが、ねぇ」
私を好きだなんて。そんなことある筈がない。寝不足の頭を振りながら、私はのろのろ制服に着替え始めた。
ぶくぶく。
ぶ、く、ぶ、く。
ぶくぶく。
ぽ、わん。
水中に潜る。何をするでもなく、ただ浮かないように沈んでいる。口からでる気泡を眺めるのが好きだ。ああでも、歪で綺麗な球体は、すぐに消えてしまうけれど。そしてプールの底に張りついて、見上げた空はキラキラ、キラキラ、輝いて。ああもう、憎らしいほど綺麗だった。
「ぷはっ」
「今日は静かだね」
いつものように郭くんはプールサイドのベンチに座って読書をしていた。一瞬表情が強張るのを自覚して、すぐに取り繕った。
「気分、だから」
「そっか」
「…………」
こんなに弾まない会話だったっけ? こんなにぎこちない会話だったっけ? 私、郭くんと喋るの楽しかった。そう思ってたのは私だけなの?
「……っ」
目尻が熱くなった。泣きそうだった。やっぱりこれは恋じゃない。亜稀ちゃんと私は友人だった。だから郭くんに友人以上のことを求めていない。最低だ、私。
「ごめん」
「郭、くん?」
「みょうじさんを困らせるつもりじゃなかったんだ」
でも俺はみょうじさんを好きなのは嘘じゃないよ。だけど、迷惑なら、
「私だって郭くんが好きだよ!」
いつもと同じような振りをしながらそんなことを言う彼に、気付いたら怒鳴っていた。
「私、郭くんが好き。郭くんの特別になれたらなぁ、ってずっと思ってた」
いつもと同じような振りをしながら、それが出来ていない郭くんは。私と等身大の男の子で、さらっと言ったけれど昨日の告白は、彼の一生懸命で本気の告白だったって分かったから。だから、そんな簡単になかったことにして欲しくなかった。
「でもね、それが恋愛の好きかどうかは分からないの。だって私の記憶の中の亜稀ちゃんは郭くんに似てるの。郭くんが、亜稀ちゃんとそっくりだから私は郭くんが好きだとしたら、それはとても酷いことでしょう?」
「みょうじさん、」
「好きよ、私郭くんが好き! だけど、だけど、本当に郭くんが好きなのか分からないの!」
私は彼の親友になりたかった。たぶんそれは、郭くんを亜稀ちゃんの代わりにしようとしていたからだと思う。でも彼が身を引こうとしたことが分かった瞬間に胸から溢れてるこの気持ちは?
この気持ちは、なんて呼べば良いんだろう。
英士の様子が変だ。と、思う。本人は「そんなことない」なんて言って否定しているけれど、パスの位置がずれたりトラップミスしたりと、明らかにいつもと違った。
「……なあ、英士」
「なに」
「大丈夫か」
「…………」
なぜそこでYESと言わない。明らかに普段と違う英士は、どんよりとした暗い瞳をしていた。そんな親友の顔を見ていられなくて、俺は。
「何があったんだよ?」
力になりたい、と思った。俺らはサッカーをしていなかったら知り合うことはなかったと思うくらいタイプが違うけれど。でも、英士は俺らの親友なんだ。親友が困ってるなら助けてやりたいだろ?
「……」
英士は、言うか言うまいか悩んでいる様子だった。だけど俺らの真剣な表情を見て決心がついたみたいだった。
「えっと」
「うん」
「……俺、みょうじさんに告白した」
「「!?」」
いいいい今なんて言った? 告白? 英士が? 誰に? 衝撃が大きすぎて理解が追い付かない。
「そ、それで?! どうなったんだ!!」
「ばっか結人気ィ使え! こんなに落ち込んでるってことは」
「あ、そっか。わりーわりー英士! でも抜け駆けしようとするからだぜ。ざまあ」
「ちょっと結人、一発殴らせてくれる」
「ごめんなさい」
どうやら本気で堪えているようだ。言い方が物凄く本気だった。俺らの視線の意味を察したのか、英士は自嘲気味に笑いながら言った。
「フラれたわけじゃないと思う。一応郭くんが好き、って言われたからね」
「なら」
「でも、その後、その"好き"が郭くんの言う"好き"かどうかは分からないって言われた」
「…………」
「死んだ親友の男の子に、俺は似ているらしいよ」
……ああ、だから。だからあのとき、みょうじさんはあんな風に、親友を見るみたいに英士を見つめていたのか。俺から見ても、みょうじさんは英士を特別に思っていると思う。たとえその大半は友情だったとしても、4割くらいは恋情があったように見えた。でもそれが、俺の勘違いで、みょうじさんの気持ちが本当に友情だけなら。
「……やりきれねぇな」
「まったくだよ」
そう言って切なそうに笑う親友を見て、なんだか俺も切なくなった。
「みょうじさん、なんかお呼びだしが来てるんだけど……」
「呼び出し?」
「他校の男の子。みょうじさんの従兄弟って言ってるけど」
「……ちょっと行ってきます」
学校まで来るような従兄弟はいなかったはずだけど……。不審に思いながらもプールからあがる。水からあがるときって、身体がすごく重たくなるからあんまり好きじゃない。
「み、水着で行っても良いものでしょうか」
「すぐ戻ってくるならいんじゃない?」
「分かりました」
先程まで水中にいた名残の水滴をポタポタと垂らしながら教えてもらった場所へ行くと、見知らぬ茶髪の少年が立っていた。
(え、人間違い……?)
もとから他人があんまり得意じゃない私はくるりと踵を返して逃げようとする。しかしその前に茶髪の少年が私に気付いて「みょうじさん!」と笑顔で手招きをしてきた。そうすると逃げ出すわけには行かず、いつでも逃げ出せるよう警戒しながら近寄っていった。
「いきなり呼び出してごめん。俺若菜結人」
「…………は、はじめまして、ですよね」
「え、覚えてねーの?」
「うぇ、え?」
「英士とロッサに練習見に来てたじゃん」
えいし、と不思議な響きを持つ言葉を舌の上で転がした。えいし、英士……郭くん。その言葉の意味を理解して、ぱちくりと一回瞬きした。学校で郭くんを"英士"だなんて下の名前で呼ぶ人は男子でも女子でもいない。郭くんはみんなの(特に女子の)憧れだけど、憧れなだけで、彼と親しい人はいなかった。学校内で郭くんいつも一人で本を読んでいた。
「郭くんのお友達?」
「そう。あのさ、俺みょうじさんに話があるんだけど」
「は、はなし」
「そう。ここで平気?」
「あ、はい」
話ってなんだろう……?
「最近英士が調子悪いんだけど何か知ってる?」
「郭くん、風邪でもひいたんですか……?」
最近姿を見なかったのはそのせいだったのかな。あれからしばらく郭くんの姿を見ていない。気まずくなって避けられているものだと思っていた。
「違う。サッカーの調子が」
「サッカー」
「困るんだよ。俺たちプロになりたいんだ。本気でサッカーやってるんだ」
プロ。それはなろうと思ってなれるものじゃない。私だって泳ぐのが好きだけれど、水泳でオリンピックを目指してたりはしない。それだけの才能と、才能以上の努力をしなくちゃプロにはなれない。
「英士に告白されたんだろ?」
「……はい」
瞬間あの日の出来事がフラッシュバックしてカア、と顔が熱くなる。しかし若菜くんの言葉でその熱はすぐに冷めた。
「みょうじさんは英士のことどう思ってんの?」
「どう、って」
「俺たちはプロになるために遊びとか他の奴より我慢してる。そして今夢が叶う位置にいるんだ」
「……」
若菜くんは真剣に言っていた。見た目で人を判断するのはいけないことだと分かってはいるけれど、髪も茶色でチャラそうな若菜くんがこんなに真剣な目をすることに驚いた。
「みょうじさんは英士のことどう思ってる?」
「私は、」
「もし英士に望みがないなら、そんな希望を持たせるようなこと言わないでスッパリふってやってくれ」
若菜くんの色素の薄い目が私を捉える。なんだかちょっと、彼も苦しそうに見えた。
「お願いだから……頼むよみょうじさん」
私は、郭くんのこと。言おうとした言葉は、唾液とともに身体の底へ呑み込まれた。というよりはまだ気持ちの整理がついていないのだ。
郭くんのことをどう思っているのかずっと考えてきた。私にとって特別な存在なのは間違いない。だけどそれが恋なのかと言われたら、そうだと答える自信がなかった。だから郭くんの告白は嬉しかったけど、同時に怖かったんだ。下手な答えをして今の関係を失ってしまったらどうしよう。亜稀ちゃんみたいに郭くんまでいなくなったらどうしよう。本当に大切なものって泡みたいに儚くて、掌からスルリと抜け落ちてしまうことを知っているから。そんなことを思った弱虫な私は。曖昧に濁して現実から逃げ出した。
でもね、私郭くんとしばらく会えなくて寂しかった。だからきっと、私、郭くんのこと好きだと思うの。
「余計なこと言わないで」
背後から懐かしい声がした。一週間ぶりに聞く彼の声は、私の心拍数を格段にあげてしまう。もしかしたらドキドキとうるさいこの音が聞こえてしまってるんじゃないだろうか。郭くんの声は相変わらず私の心臓に悪いのだ。
「英士!……一馬」
「わり、引き留めきれなかった」
郭くんは私と若菜くんの間に割り込んで、私から若菜くんの姿を見えないようにした。もしかして私が若菜くんの言葉に傷付いたと思ったのかな。私を守ってくれているのかな。そんな風に自惚れてしまう。だけど同時に悲しく思う。若菜くんは郭くんの大切な友達……親友、なんでしょう。若菜くんは郭くんを心配してただけなのに、どうしてそんな酷いことを言うの。
(わたしのせいだ)
「これは俺とみょうじさんの問題でしょ?」
「英士」
「心配かけてたのは、ごめん。でも余計なことしないで」
私のせいで郭くんは若菜くんとケンカしてるんだと思うと凄く申し訳なくなった。私が曖昧に誤魔化してたから。自分の気持ちと向き合うことから逃げたから、郭くんは大事な時期に余計なことまで考えることになって、友人との関係を悪くしてしまうかもしれないんだ。
「余計なことじゃないよ。郭くんのためにやってくれたことだもん。とっても優しい人だと思うよ」
「君に言われなくても二人のことは俺の方が知ってるよ」
「そんな言葉が出るくらい、大事なんでしょ」
心情が口をついてでたら、郭くんがこっちを見た。視線と視線が正面からぶつかり合って思わず逸らしてしまいそうになる。けれど、そのまま真っ直ぐ郭くんの目を見ていると、頬が赤くなるのが自分でもわかった。
「あのね、私やっと分かった。郭くんが好き。亜稀ちゃんみたいだからじゃなくて、郭くんだから好きなんだよ」
ああ、やっと言えたよ。
声を失って王子様に気持ちを伝えることすら出来なかった人魚はいま。ようやく、王子様に気持ちを伝えられたのだ。
お伽噺の人魚姫は、王子様に愛されることなく泡になってしまったから、私はあんまり好きじゃなかった。自己犠牲の綺麗なお話だけれど、気持ちすら伝わらないなんてそんなのやりきれない。報われない。だから人魚になることが出来る──まだ救いのある、あの島の伝説が私は好きだった。
「同情ならいらないよ」
「同情じゃないってば!」
郭くんが言う。私は悲しくなる。どうして信じてもらえないんだろう。今までの態度が悪かったからって分かってはいるけれど。私、こんなにもあなたのこと好きなのに。溢れでるこの気持ちを伝えようとしたら、あまりに大きくて喉の辺りで詰まってしまった。好き好き。郭くん大好き。言葉にならないくらい愛してるよ。
「なら、」
「!」
「──こうしたら、分かってくれる?」
郭くんのカッターシャツを乱暴に掴んで引き寄せる。いきなりのことにバランスを崩した郭くんの唇に、自分の唇を押し付けた。私も郭くんも目なんか閉じてない、ムードもへったくれもないキス。これは亜稀ちゃんにもしたことがない行為。郭くんだからしたいって思った行為。驚いた様子の郭くんに、してやったりと笑うと機嫌を損ねた彼から反撃を食らう。
「む゛っ……ぅん!?」
なんと云うことだろう。舌を捩じ込んできた。そのまま舌を絡めとられて、口内を好きなように蹂躙される。こ、こんなキスいったいどこで覚えてきたの、郭くん!
肺活量に自信のあった私が息苦しくなるくらい長い時間がたって、ようやく私は解放された。……そうか、サッカーやってるから郭くんも肺活量あるんだ……。
「気弱に見えて、ずいぶんと大胆なんだね」
「郭くんも、ね」
まだ肩で息をしてる私の身体を濡れるのも気にせず抱き寄せて、悪戯っぽく彼は笑んだ。
「好きなんだからこれくらい当然でしょ?」
……まあ、そんな感じで。雑司が谷の人魚は王子様のキスにより、泡にならずに済みました。なんてね。
ethica
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