/お世話になってる方に捧げます
高校を卒業してまず家を出た。焦凍は家に居てくれるんだと思ったと姉さんには言われたが、何時までも父親の庇護下に居るわけにも行かない。それに親子揃ってヒーローなのは、居ないわけではないが珍しいのだ。確かに家族でヒーローなら家の事務所に所属するだろうが(実際同じクラスだった飯田がそうだ)、大抵の奴らは全国あちこちに散らばって行く。そもそも、雄英に来る時点で親元から離れて居るのだ。たまたま通える範囲に雄英があって、事務所もある俺の方が珍しいので、家を出るのは自然な選択であった。同じ学校を卒業した恋人も同時に家を出た。所属する事務所は、近くもないが、会えぬこともない距離だった。
「何時でも戻ってきてね」
優しい姉はそう言った。親父を完全に許したわけではないが、以前ほど嫌っているわけでもない。ただ、なんだろう、これは儀式のようなものなのだ。住み慣れた街を出て行って、見知らぬ街を巡礼する。大人になるのが遅すぎた俺の通過儀礼。きっといつか住み慣れたあの街に、親父の事務所の所属することになるんだろうけれど、それまでのモラトリアムを満喫してもいいだろう。だって言うじゃないか、大学生活は人生最後のモラトリアムだって。俺は大学に行くわけではないが、年齢としては同じなのだから適用したっていいだろう。
桜の花は三月から四月の間に咲く。だから引っ越しをしたときも桜の花が咲いていた。俺の引っ越しを手伝ってくれて、そして俺が引っ越しの準備を手伝いに行った恋人が、くしゅんくしゅんと止まることのないくしゃみを続けていたからしっかり覚えている。
「へ……っくし! うぅ〜」
「マスクしろ」
「してるよ。それでも出るものは出るんだよ」
俺は花粉症というものになったことがないのでその辛さは分からないが、激しい風邪の症状が長い期間続くのはしんどそうだなと思っていた。
「ああ〜近くに公園があるアパート選んだの失敗だったかも……花粉が……」
「なんでちゃんと下見しなかったんだよ」
「したけど冬だったので花が咲いてなかった」
「なるほどな……というか、お前も家を出たんだな」
何故か知らないけれど、親父のことが大好きななまえはずっと親父の傍にいると思っていた。小さい頃我が家へ引き取られてきたその女の子は、実の息子よりも娘らしく、妻よりも男女の情を持って、轟と云う家に深く食い込むのだと思っていた。
「うん。稼げるようになるんだから一人暮らしは経験しておかないと」
「それでも親父の近くに入ると思ってた」
「……今の若い子はね、一人暮らしをして苦労しておかないとやって貰えるのが当たり前のダメ人間になっちゃうんだよ」
だって家を出なかったら人が生きていくうえでこんなにも必要なものが多いなんて知らなかった、となまえは言った。確かに寮には共同の設備があったし、今ほど物も場所も必要なかった。人間は、植物の様に呼吸をするだけで生きていくことはできない。生きていく熱量を得るために料理をし、その料理をするために働き、働くための体力を養うために睡眠をとり、安全な睡眠を得るために領地を求める。その領地を維持するためにも働くことが大事なのだ。
「でもね、やっぱり焦凍くんと炎司さんの傍には居たいから、サイドキックとしてある程度実力が付いたら戻ってくると思うんだ。あそこが私の原点だから」
「そうか」
「それに焦凍くんとは会えないわけじゃないでしょう。ほぼ始発と終点とは言っても電車で一本だもん。会おうと思ったらいつでも会えるよ」
ホームシックになったらいつでも駆け込んできたらいいんだぞ〜となまえは笑った。生意気だったので軽く拳骨を入れた。
そうは言っても新社会人の生活は忙しい。まず環境に適応するために精神力を使う。覚えなければいけないことが多いので頭も使う。家事が増えるので身体も使う。そうすると疲れて寝てしまう。たまの休日も、疲れをいやしたり一週間で散らばった部屋を片付けて、食材を買いに行ったりしたら飛ぶように過ぎてしまう。だからなまえに会う機会はなかった。
とは言っても同期は皆優秀だったから、新人とは言えどもちらほらニュースサイトで名前などを見ることがあった。だから存在は認識していたし、かつての級友たちに負けないように仕事に励んでいると飛ぶように一年が過ぎた。極悪敵がでて、行動範囲も広いということで、隣県のヒーローと共同で事を進めることになったのだ。作戦に参加する事務所の中には、なまえが所属している事務所もあった。
「へ……っくし!」
どこからかくしゃみの音が聞こえたような気がした。はっと顔を上げるとそこは桜の樹がたくさん生えていた。桜の季節。別れと出会いの季節。淡いピンクの花は感傷を掻き立てて、何よりも美しい。そういえば、去年、なまえと引っ越しの片づけを一緒にやったことを思い出した。その時見た桜よりも、ここの桜は一段と美しい気がした。
桜とくしゃみでなまえの存在と、忙しくて連絡をしていなかったことを思い出す。今まで頭の端にも存在を意識していなかったのに、一度気になると声が聞きたくてたまらなくなった。スマホを取り出して電話をかけてみた。
――ピピピピピピ
近くで音が聞こえる。けれどもここには誰もいない。一瞬嫌な予感がしたけれど、それを振り払うように音の出所に近寄って行った。
ひと際大きく綺麗に咲いた桜の樹の下で、見覚えのあるスマホが震えていた。
『桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!』――有名な小説の一説を思い出す。この木はひと際大きく綺麗に花が咲いていて。そこの樹の下には恋人のスマホが転がっていて。今、極悪な敵の事件の大型捜査をしていて。分かりたくもない真相を、分かってしまった。
「俺と親父の傍にいたいから戻ってくるって言ってたじゃねぇか」
住み慣れた街を出て行って、見知らぬ街を巡礼する。その通過儀礼をこなしてきっといつか住み慣れた俺たちの街に戻ってくると思っていたのに。轟の家の一員となると思っていたのに、結局こいつの帰るべき原点は、俺の知らないものだったのだ。
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