放課後の教室ってなんだか好き。昼間と違い女の子たちのおしゃべりの声は小さな囁きになって、運動部の掛け声が遠くのグラウンドから聞こえるから、非日常感がある。遠くから聞こえる声が、少し間延びした様に聞こえるからだろうか?
なんて普段ならぼんやり考えるところだけど今の私は違った。英語の辞書を片手に気の遠くなるくらいのページを和訳しなければならないからだった。予習もしながらテスト勉強なんて無理すぎるので、せめて一週間前には予習をしなくてもいいくらいに今から貯金を作っていこうとの考えである。それに、しょーちゃんを待つ時間を無駄にはしたくなかった。しょーちゃんはいつだって私の前を歩んでいるから、少しでも追いつけるように努力しないとダメなのだ。
「来夏」
「わあっ! しょーちゃんか」
「さっきから呼んでるのに気付かなかった」
「ごめんね。ちょっと集中してたみたいで」
「何やってるんだ?」
「英語の予習〜」
授業が終わってから一時間近く経つとクラスに人はほぼいなくなる。大半は部活で、残って駄弁っている人も友達と寄り道するために途中で帰ったりする。でも教室内に二人きりというのは珍しかった。しょーちゃんは私の前の席に座ってこちらを見ている。教室も広くなっているとは言え、ヒーロー科より人数の多い教室は机と机の距離が狭かった。昔はこの距離にしょーちゃんがいたんだなあと懐かしく思う。もうこうやってしょーちゃんの後ろの席になることは学生生活の間で一度もないんだ。しょーちゃんの後ろ姿をこっそり眺めることも、休憩時間にしょーちゃんが振り返ってくれることも、もう絶対ないんだ。だからこそ、今のこの瞬間、しょーちゃんと同じ教室だった頃を思い出していた。
「なに」
「来夏が終わるまで待ってる」
「……そんなにじっと見られてたら集中できないよ」
「? 俺のことは気にしないでくれて構わない」
「む、無理だよ」
「無理じゃないだろ」
無理だよ。だってしょーちゃんの視線には熱がある。私を焦がしてしまうほどの熱量で見つめられたら私はしょーちゃんを気にせずにいられない。
そんな目で見ないで欲しい。そんな、宝石みたいに綺麗な瞳で私を求めないで欲しい。皆はしょーちゃんは表情があまり変わらないって言うけど、しょーちゃんは温度で気持ちがわかるんだよ。ずっと一緒にいたからわかる温度。きっと私にしかわからないもの。誰かに「しょーちゃんはわかりやすいよ」っ教えてあげてもこの秘密だけは絶対教えてあげない。だって、それでその子がしょーちゃんのこと好きになったら困るから。
「いじわる」
「来夏が無視するのが悪い」
「わざとじゃないもん」
「知ってる」
長くて、骨ばっていて、私とは全然違う硬い手のひらが頬に添えられる。
氷みたいに青い瞳からの熱光線で、彼が何を求めているかわかったから、私は「これから起こること」を期待しておとなしく目を閉じた。
「あれ、轟くん?」
予感は、外れた。外れたというか、闖入者によって妨げられたのだ。
「なにして……えっ春次さん!? えっ、あっ」
放課後、教室に二人きりの男女。そして頬に添えられた手。これを見て何をしていたか気づかない人はさすがにいないだろう。たとえ鈍そうな彼であっても。
「何慌ててんだ……緑谷」
「だって僕もしかしてお邪魔した?」
「邪魔? 来夏が暑いって言うから冷やしてただけだが」
お前も冷やすか? としょーちゃんは緑谷くんに手を差し出した。暑いのか寒いのかよくわからないこの季節。制服のチョイスを間違えたときは私もよく冷やしてもらったから嘘ではないんだけど、いつも通りの顔で平然と誤魔化せるしょーちゃんは凄すぎる。
「わ、本当だ。轟くんの個性はこんなことにも使えるんだね。戦闘だけじゃなくて日常生活にも使えるなんて本当に汎用性があっていいなあ……待てよ今まで最大出力ばかりに気を取られていたけど加減はどこまでなんだろう気になるぞ発生温度があまりにも高かったら敏感な敵には察知されてしまうかもしれないしこれは結構気になるかも知れないいきなりお願いしたら気持ち悪いかな」
「緑谷くん……?」
「何ブツブツ言ってんだ? 気持ちわりぃ」
「ごっ、ごめん!!!!」
緑谷くんがわたわた大げさな動きで焦っているのが少し面白い。
「来夏ももういいだろ。帰ろうぜ」
「うん!」
「あ、駅まで一緒に行ってもいい?」
「もちろん〜緑谷くんと帰るの初めてだね!」
片付けるからちょっと待ってて、というとふたりは頷いた。鞄に荷物を詰めていると、立ち上がったしょーちゃんからまた熱量を感じて、あの綺麗な顔を思い出して、一人で顔が赤くなってしまった。