お菓子を下さい、両手いっぱいに。
お人形を下さい、部屋いっぱいに。
愛してください、めいっぱい、に。
けれど、お兄ちゃんは手いっぱい。
あの子のための復讐で精いっぱい。
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プラシーボ効果というものを知ってるだろうか。たとえば、ただのビタミン剤を「特効薬ですよ」と言って患者に手渡し、患者はそれを特効薬と思いこむことで快方に向かうという思い込みの力の話。優しい嘘のことだ。じゃあ、ある日いきなり知らない男の子が目の前に現れて「なまえ、今日からこの子がお兄ちゃんになるのよ。大きくなったら結婚もするからね」って言われたときから始まる恋愛は何て言えばいいんだろう。「好きにならなきゃいけない」という思い込みから始まる恋。それならきっと、プラシーボ恋愛っていうのかな。
「敬ちゃん、日曜日空いてる? 付き合ってほしいところがあるの」
一つ年上の義兄におずおずと声をかける。黙っていたら超絶美形、口を開けば小学生と噂される義兄……敬ちゃんは、ソファの上に寝転がってゲームをしていた手をいったん止めて、こっちを見た。もう何年も一緒に暮らしているはずなのに、敬ちゃんの整いすぎている顔を見ると時々耐えきれなくなって目を逸らしてしまう。……こういう態度、よくないってわかってるんだけれど。
「特に予定はないけど。どうした?」
敬ちゃんは優しいからそんな私のことを気にせず接してくれる。家族の中で不要物として扱われてきた私が、その敬ちゃんの態度にどれほど救われているかは、きっと本人は知らない。
「あのね、うさぎのミミちゃんの限定グッズの発売日なの」
「……いつものアレか?」
「うん、いつものやつ……」
「仕方ねえな。『兄ちゃん』に任せとけ!」
そう言って敬ちゃんは私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。敬ちゃんが身長高くて、私がちょっと小さくて、だから小さい子供に見えるのかもしれない。高校生になっても出逢った時と同じ扱いだ。まあ、私も私で敬ちゃんと出会った時から見た目も中身も成長していないのだからそういう扱いでも仕方ないのかなあ、と思ってる。小さい頃の私はひどく寂しがりで、ライナスの毛布の様にうさぎのミミちゃんのお人形がないとすぐに泣いてしまっていた。溶離遠征ならともかく、小学生にもなってその状態なのだから、結構な泣き虫で寂しがりだと言うことが分かってくれただろう。
でも敬ちゃんが家にやってきてからは違った。敬ちゃんはお父さんが施設から引き取ってきた男の子だった。私にはお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、お兄ちゃんは長男だから伊勢崎の家を継ぐことが決まっていて、お姉ちゃんは生まれた時から婚約者がいたの。星乃の一族の家はヒーローを出さないといけないから、ヒーローになれる男の子が欲しかったんだけど、私が生まれてきてしまった。「四人目はもう無理よ」「でも義務はどうするんだ」ってお父さんとお母さんは困ってた。この家ではヒーローになる子とならない子の育て方が変わってくるし、ヒーローを輩出することが義務で、他の家からはヒーローになる子供たちがちゃんといたから申し訳なくて仕方なかった。
「ごめんなさい……」
「なまえが悪いんじゃないわ」
「そうだ、こればっかりは」
お父さんとお母さんはそう言ってくれた。落ち込む私に食べきれないほどのお菓子をくれた。寂しいと泣く私に部屋いっぱいのお人形をくれた。愛されてないわけじゃあなかった。――お兄ちゃんとお姉ちゃんより、少ないだけで。
文句を言うのは間違っていると思う。私の家はお金持ちで、言えばなんだって与えられたから。特別なお家の造りをしているから、他の家の子供たちと気軽に遊ぶこともできて、お友達もいて、文句を言うのは本当におかしいことだった。
でも、でもね。他の一族の皆がね、私のお兄ちゃんやお姉ちゃんみたいに両親に愛されているのを見るのは、ちょっと、寂しかったの。
「伊勢崎敬です。これからお世話になります」
今の敬ちゃんからは信じられないくらい、大人しくてしっかりした言葉で自己紹介をした。今思えば敬ちゃんはあの時緊張をしていたのだろう。私の方はと言えば、突然現れた天使みたいな男の子に吃驚していた。だって、敬ちゃんほど顔が綺麗な子は他に見たことなかったから。御鷹のお家の寿史くんもとっても綺麗な顔をしていて一族の女の子はいつも彼を取り合っていたけれど(恥ずかしいことに、私もその輪の中に入っていた! だって寿史くんは一族の皆の初恋だったの)、その寿史くんよりずっとずっと綺麗だったから。
「……なまえ? ご挨拶は?」
「あっ……! ごめんなさい。伊勢崎なまえともうします。このお家でいっしょにくらすの? よろしくね」
「あら、なまえにしてはいい反応。敬くんのことが気に入った?」
「うん、綺麗なの。天使様みたい」
「ふふ、それはよかった。――なまえ、今日からこの子がお兄ちゃんになるのよ。大きくなったら結婚もするからね」
「え?」
ぱちくり。私は大きく目を瞬いた。敬ちゃんはとっても綺麗だけれど、その時の私は寿史くんが好きだったし、敬ちゃんは活発そうな男の子で、どちらかと言えば私の苦手なタイプだったからだ。ちょうど声が大きくて元気なクラスの男の子に髪の毛を引っ張られて「やーい、泣き虫〜」とからかわれていたこともあったから、怖いなとも思っていた。
「仲良くなれそうで良かったわ」
無理だよ、お母さん。そう言いたかったけど、私は言えなかった。これ以上お母さんたちの理想から外れた悪い子になりたくなかったからだ。
敬ちゃんについて詳しい話はあとから聞いた。敬ちゃんは特別な血性を持っていて、その能力を買われて施設から私の家に来たこと。一つ年上だということ。そして、将来的に私と結婚するということ。私と年の変わらない男の子が「伊勢崎」の名前を貰ってヒーローになることが恐ろしかった。だって、本来ならそこは私の居場所だ。私が、ヒーローになるはずだったのだ。血が繋がっていないことだけが、彼が家族ではないという証明になるのに、私と結婚したら本当の伊勢崎の家族になってしまう。家族の中で、私の居場所がなくなってしまう。そう考えると、怖くて怖くて仕方なかった。
私は最初、敬ちゃんのことが苦手だった。けれど、その苦手という意識を変えたのは、敬ちゃんが私と同じ小学校に転校してからになる。
この頃の私は、今よりもっと酷い泣き虫だった。小学生になるというのに、学校にうさぎのぬいぐるみを持ってきていて悪目立ちしてた。本当だったら学校の先生が精神的な自立を促すため親にあれこれ言って持ってこさせないようにするのだろうけれど、私の家はとっても有名な「伊勢崎」のお家で、多少の我儘なら通されていた。私自身は暴れたり、先生の言うことを聞かないわけじゃなくて、性格は真面目で素直。先生の言うことはきちんと聞くから手はかからず、どちらかというと優等生タイプ。それならぬいぐるみが傍に置いてあるくらいなら大目に見るだろう。私のことなら、先生には他に注意して欲しいことがあった。
「やーい、なきむし!」
「わぁん、やめてよう」
それは、クラスの乱暴な男の子に虐められていること。虐めと言っても二つに結った私の髪を引っ張ったり、うさぎのぬいぐるみを奪ったりするくらいで、蹴ったり殴ったりはしなかった。今思えばその男の子は私のことが好きだったのだと思う。好きな子ほど虐めたいと言うか、興味を引きたくてやっていただけ。けれど私はそんなこと知らないし、優しい男の子が好きだったから、こんなことされても怖いだけだった。
「やめるもんか! くやしかったら――」
「やめろよ。なまえが泣いてるだろ」
男の子の腕を私から引きはがしてくれたのは敬ちゃんだった。いくら家族と言っても名前だけで、お家であんまり話したことのない敬ちゃんが助けてくれるだなんて思ってなかったからびっくりした。正直なところ、私が泣いているのは日常茶飯事だったから皆慣れちゃってるのもあった。確かに男の子も酷いけど、なまえちゃんもなまえちゃんだよね。ああやって反応するからだよって。
「な、なんだよお前」
「伊勢崎敬」
「伊勢崎? あ、なーんだ、貰われっこか」
……なんて酷いことを言うのだろうと思った。言っていいことと悪いことがある。気弱な私でも反論してやろうという気持ちになるくらい、トゲトゲした言葉だった。でも私が口を開く前に、敬ちゃんがぐいっと私の肩を抱き寄せた。
「そうだよ。貰われっこだ。だから俺はなまえと結婚するんだぜ!」
「は、はあ?」
「血が繋がってないから結婚できるんだ。俺となまえはコンヤクシャってやつ!」
「こん……」
「だからこういう下らないことでなまえの気を引こうとしてもダメ。なまえはもう俺のだから。……行こうぜ、なまえ」
「あっ……」
手を繋がれて、その場から一緒に去っていく。ぐいぐい引っ張っていくのに、繋いだ手に力は入っていない。その一連の動作がまるで王子様みたいだな、と思った。金髪碧眼。童話で、映画で、お姫様を助けてくれる王子様の色彩。私の心臓はずっとドキドキ鳴りっぱなしだ。
「あの、敬ちゃん……」
その時私は初めて敬ちゃんの名前をちゃんと呼んだ。お兄ちゃんだけど、お兄ちゃんじゃない。だから、敬ちゃん。近くて遠い、私の王子様。
「助けてくれて、ありがとう……」
「当たり前だろ、だってなまえは俺の家族なんだから」
敬ちゃんにとっては私は妹。彼には施設で血の繋がらない家族がたくさんいたから、年下の兄弟たちをこういう風に守ることがたくさんあったのだろう。だから私は泣き虫で、手のかかる、ただの妹。だけど私は、大事にしてくれる家族ができて本当に嬉しかったんだ。
(眠れない……)
高校生の私でも持て余すくらい広いベッドの上で、幼い私は一人だった。天蓋付きの、海外ドラマでお嬢様が寝ているようなデザインのベッドの上にいくら人形を置いてもスペースは余って仕方なかった。たとえスペースが埋まったとしても一人分の体温では広すぎるベッドは温まらない。孤独と寒さは等しいのだ。広いベッドは孤独を助長させる。寂しさは夜の隙間から、足元から、するっと滑り込んできて私を襲う。
「お父さん……お母さん……」
眠れない夜に家族を呼んでも、広すぎるこの家ではその声は届かない。
「……なまえ?」
届かない、はずだったのに。
「け、敬ちゃん……?」
「へへっ、当ったりぃ」
ひょこっとドアの隙間から敬ちゃんが顔を出して、自然な動作で部屋に入ってくる。どうしてこんな夜中に、と目を白黒させているうちに彼は私のベッドまでやってきて、そこに腰かけた。
「ど、どうしたの……?」
「ちょっと目が覚めてさ、ついでにトイレ行ってたんだけど、昼間と違ってダンジョンみたいで楽しくなって探検してた」
「そんなに違う?」
「違う! なまえも探検するか?」
「ううん……」
どうしようかな、と悩む。正直なところお化けが怖いけれど、せっかく敬ちゃんが誘ってくれたのを断るのも申し訳ない。
「……嫌なら嫌って言えばいいんだぞ」
「怖いけどいやじゃないよ」
「本当かぁ? なまえ、そういうタイプじゃないだろ」
「わかるの?」
「分かるよ。泣き虫で、怖がりで、大人しくて、声が小っちゃくて、自分の言いたいこといえなくていっつも他人に譲ってばっかりだろ。だけどいい子って大人からは可愛がられてる」
「当たってる! 敬ちゃん凄いね」
自分で思っていることを全部言われた。私はいい子だった。都合のいい子。大人しいから、言うことを聞くから扱いやすい。私のことを見てくれる人がいなくて、初めて理解してくれたことが嬉しくてにっこり笑ったら、敬ちゃんはとっても悲しそうな顔をした。
「なまえは、なまえはさぁ……」
「なあに?」
「なんでもない! そうだ、兄ちゃんが一緒に寝てやろうか?」
この時私は敬ちゃんの提案に素直に喜んだ。なんて優しいお兄ちゃんなんだろうと思ったのだ。でも、敬ちゃんが一緒に寝てくれたのは優しいだけじゃなくて、別の理由もあったみたい。後から知ったことだけれど、彼は暗闇がとても怖いらしいのだ。お化け屋敷とか、怖さを楽しむところならいいらしいけれど、何もない真っ暗は駄目なんだそうだ。敬ちゃんに与えられた部屋は、まだ彼の色に染まっていなかった。たとえ最低限の家具は置いてあったとしても、自分に与えられたものとまだ認識できないものしか置いていない空間な中で、ひとり。それは一体どれだけの恐怖を敬ちゃんに与えていたのだろう。
「本当? うれしい!」
入って入って、とベッドに敬ちゃんを招く。敬ちゃんは躊躇いもなくはいってきて、ぎゅう、と私を抱きしめた。誰かの体温にほっとしたのは私だけじゃなかった。規則正しい心臓の音が眠気を誘う。
「あ〜落ち着く」
「前のお家では、みんなで寝てたの?」
「せまかったから、おんなじ布団に何人か寝て……自分より小さいやつがぐずるから隣で寝てあげてたよ」
「そうなんだ」
いいなあ、と私は思う。私は寂しがりだから、お人形より抱きしめて貰うことの方が安心する。でもお父さんもお母さんも忙しいし、大切な跡取りのお兄ちゃんに時間をかけないといけないから、末っ子の私が構って貰えないのは仕方のないことなんだ。
「なまえ、眠れないんだろ」
「どうしてわかるの?」
「俺も眠れないから」
一人だと布団が冷たい、と敬ちゃんは言う。寒くて寒くて凍えそうになる。だからなまえが隣にいてくれると助かる。そう言った敬ちゃんに私はしがみついて、そうしたらいつしか眠りに落ちていた。
「え、え、敬ちゃんお家から出ていくの!?」
私が高校二年生のとき、敬ちゃんはALIVEという組織に所属した。中学生から敬ちゃんはヒーローをしていて、今回ヒーローたちは学校の垣根を超えた新しい試みをするとかで今までとは違う体制になるらしい。そういう大人の事情はどうでも良くて、問題なのは敬ちゃんが家にいるのかいないのかなのだけれど。
「違うって。合宿。ヒーローとして召集されたら向こうの施設に泊まるの」
「どのくらい?」
「それは指揮官さんに聞いてみないとわかんないけど……今回は全員のチームワークを強化するのが目的で、ある程度仲良くなるまでは解散できないからなぁ。最低一週間って言ってたかな」
「や、やだ! やだやだ敬ちゃんいかないで! なまえも連れて行ってよう」
泣きたくないのに目が潤む。敬ちゃんが私のお家にやってきてからずっと敬ちゃんにべったりだった私には一週間も離れるなんて考えられないことだった。敬ちゃんにしがみついて離れない私を見かねてお父さんが私を窘める。
「こらなまえ、我儘を言うんじゃない。敬が困ってるだろう、離してあげなさい」
「で、でもお父さん」
「仲がいいのはいいことだけれど、なまえももうちょっと大人にならないとね」
「うう……」
完全に落ち込んだ私を見て、励ますように敬ちゃんが言葉をかけてくれたけれど、それは逆効果だった。
「大丈夫だって、学校にはちょくちょく行くから」
「毎日来ないってこと!?」
「あ、やべ」
しまった、という顔をしても時は遅し。ばっちり彼のセリフを聞いてしまった私はいやだああ! と敬ちゃん目掛けて飛びつくのだった。身長差ゆえに敬ちゃんのお腹に私の頭がぶつかってしまって、敬ちゃんが苦悶の声を上げたが、それは別の話である。
「一孝くん……あのね?」
「自分の席に帰れ」
まだお願いする前に察されて冷たくあしらわれてしまった。同じ星乃の一族である一孝くんは私への対応が塩である。見た目がちょっと怖くてぶっきらぼうだけれどその実面倒見がいいから皆から弄られつつも愛されている彼は、私には塩対応なのである。
「うう、一孝くんが冷たい」
「毎日毎日バカ崎のことを聞かれる俺の身にもなってみろ。今日は術式武器で連携確認するから休みだ」
と、時間差で優しくしてくるから恐ろしい。敬ちゃんがいなかったらその優しさにうっかり転げ落ちているかもしれない。それでなくても星乃の一族はここ、白星では絶大な人気を誇っているのだから。
その一族に所属している自分でいうのもなんだけれど、日本を牛耳っているといっても過言ではない星乃の一族の子供たちは白星に通うことになっている。ヒーロー排出の義務を持つ一族の皆はヒーローの名門校を作ってそこに一族の子供たちを集めた。だから所謂理事長みたいな立ち位置にあって、一般の生徒もそれなりのお家柄が多いここでは星乃の一族と繋がれるチャンスだったりもする。誰が見ても見とれる美形の敬ちゃんや物腰優雅で一族の初恋キラーな寿史くんが目立って人気だけれど、接してみてからじわじわと効く一孝くんもガチ恋量産をしているのだ。
「そっかあ。ありがとう」
「ありがとうって言ってる顔じゃねーんだよ。……お前、ほんっと敬のこと好きだな」
「うん、私の王子様なの……」
「へーへー。そりゃよかったな」
のろけは結構、俺は今彼女いないから、が一孝くんの敬ちゃんに関する話題の会話をぶった切る常套句である。
「俺のところに話しかけに来るより、ちょっとでも寝てたほうがいいんじゃねえの?」
「え?」
「あ? 気付いてねーのかよ。お前目の下の隈凄いぞ」
「…………」
「寝れてねぇの?」
一孝くんのそういう所、本気でずるいと思う。ぶっきらぼうな癖に、あんまり興味がないという態度をとっているくせに、さらっといつもと違う所に気付いて心配してくれて。ちゃんと見ていてくれるなんて。
「敬ちゃんが学校休んでるから、その範囲教えれるように勉強頑張ってるだけだよ」
「……ならいいけど。あんま無理すんなよ」
「敬ちゃんが傍にいないだけでだいぶ無理してるよ……」
「のろけは結構、俺は今彼女いないから」
お決まりのセリフを言って一孝くんは席に戻っていった。いつも変わらない彼に、ふふ、と笑みがこぼれた。
*
指揮官さんに徹底的にしごかれて、最年長の手前後輩にかっこ悪いところを見せることはできず、限界を超えて頑張った結果俺は今地面に伸びている。連携がどうのとか言っていたけど単に俺たちの限界値を知りたかっただけじゃないのかなあ。じゃなきゃここまで無茶させねえよなあと誰に言うわけでもなく独り言ちた。普段からサッカーで駆けまわって体力に自信のある俺ですらこれだ、見るからに運動をしていない慎くんや久森くんはその場で寝落ちていた。立ち上がる余力すらなく、もうちょっと休んだらシャワー浴びに行こうと思っていると、見慣れた制服の男が歩いてきた。一孝だ。
「もう学校終わり?」
「おう」
ヒーローはたくさんいても指揮官さんは一人しかいない。当然全員を一気に見ることはできないから、日中の訓練はローテーションになっている。重式は一昨日、迅式は昨日訓練をしたから学校に行ってて、今日は術式のメンバーというわけだった。俺と一孝はけして仲が悪いわけではないが、疲れていると絡む気力もない。真面目な一孝はすぐに着替えに戻るだろうな、と思っていたらじっと俺を見つめていた。なんだ?
「そんなに熱心に――」
「なまえが」
茶化そうと思ったらぶった切って本題に入る。まあそうだよな、学校に行った後に俺に伝えることと言ったら一つ下で一孝と同じクラスの義妹――なまえのことしかない。
「なまえが?」
「そろそろ限界だぞ。隈が凄かった。――ありゃあ、寝てないな」
「またかあ」
と、重いため息を吐く。なまえは一人じゃ眠れないのだ。俺と同じベッドで寝ているわけではないが、俺が家に――近くにいないと眠れない。いなくならないという確信がないと眠る事すらままならないのだ。その見た目のように子供みたいな純真無垢の信頼は可愛くもあるが、一人の人間に真っすぐに慕われるのは嬉しくもあるけれど、その感情は彼女のためにはならないのだ。
「まただ。……愛されてるな、オニイチャン」
「愛されてるっつーか、あいつのは依存だからいい加減義兄離れして貰わねえとなあ」
「ま、否定はしねえけど。あと、あの調子なら近いうちに合宿所に来そうだぞ」
「あいつ泣き虫のビビリのくせに行動力はあるからなあ。ロリコンって言われるのだけは勘弁」
はは、と笑った俺は思いもしなかったのだ。その発言が現実になることを。
*
「伊勢崎くん、ちょっといい?」
夕食の時間帯。賑やかに晩ご飯を食べていると、指揮官さんが俺の名前を呼んだ。こんな時間に指揮官さんが声をかけてくるのは珍しい。用事があるときは時間帯やタイミングを見計らってくれる人だからだ。
「今?」
「うん、食べてる最中にごめんね。伊勢崎くんの家族が来てるんだけど」
その言葉に何人かの動きが止まる。白星の連中だけでなく良輔が反応したのも目に入った。まだ良輔と家族の対面は早いなと頭の中で考える。せめて鉢合わせしないように場所を考えて貰わなければ。
「……敬ちゃんっ!」
返答をする前に、どの「家族」が会いに来たのか分かった。ピンク色の髪、泣き腫らしたような赤い瞳。普段は耳の横の髪だけを結んでいるのに、今日はすべてまとめて二つに結んでいる。小さい頃からお気にいりのうさぎのぬいぐるみをもって、ヒーローショーの小学生までの来場者特典を貰いに行くときに着ていく洋服を身に纏ったなまえが俺に駆け寄ってきたからだ。
「なまえ!」
「なまえ〜」
「あ、なまえちゃん」
「なまえさんだ」
「やっぱり来たか」
どうみても小学生くらいにしか見えない女の子が俺にしがみついたことで周りの皆は優しい眼差しになった。お兄ちゃんに会えなくて寂しくなった年の離れた妹が我慢しきれなくて会いに来た、と周囲は理解したことだろう。実は一つ下だということを除けばだいたいは当たっている。小学生の女の子が兄を求めてわざわざ合宿所にやってきたのなら、指揮官たちは追い返すことはしないだろう。……というか良心的な人間ならば追い返すことが難しい。便宜を図ろうと考えるはずだ。しかも伊勢崎の名前を持つ子を遅い時間に歩いて帰らせるわけにもいかない。帰宅中に誘拐でもされたらALIVEに星乃の一族の介入を許してしまうことになるからだ。意識しているのかしていないのか、我が義妹ながら策士だなと思った。
「敬ちゃん会いたかったよぅ……」
すでに泣きそうななまえを抱き上げる。近くで見るなまえの目の下にはくっきりと隈ができていた。……一孝が心配になるのも分かるくらい、眠れていないのが分かる。梨奈と同い年くらいの少女の兄として振舞っているからだろうか、良輔からの視線が凄く痛い。梨奈に構っても怒って、梨奈以外の女の子に構っても怒るなんて難儀な奴だ。
「敬、俺にも回してくれ」
「あいよ。ほれ、なまえ、正義お兄ちゃんだぞ〜」
「正義くん!」
抱き上げたなまえをそのまま正義に渡す。こう見えて小さいものが好きな正義はなまえがお気に入りなのだ。そして自分を可愛がってくれる正義のことをなまえも好きなので、正義くんと抱っこされたまま甘えていた。その様子を意味深な瞳で倫理くんが見つめている。ガタイのいい正義と小柄ななまえがくっついていると真面目に小学生しか見えなくなるんだよな。白星の他のメンバーも集まってきたことから、周囲には年下の親戚の女の子だという認識がますます強まっただろう。
「あっはは、そうしてると正義くん、お父さんみたいだ!」
「倫理……父親は言いすぎじゃないか? なまえと俺は一つしか違わねぇんだからせめて兄貴だろ」
「ひと……え、高2!?」
「小学生じゃなくて?」
「ボクより年上なの!?」
「そう言えば光希くんがさん付けで呼んでた」
比喩ではなく食堂が騒めいた。皆に視線に晒されてなまえは怯えて正義の首元に顔を埋める。その仕草がますます人見知りをする小さい子にしか見えなくて、混乱を巻き起こしていた。……これ、俺のコンヤクシャだって知ったらどうなるんだろうな。今後事あるごとにロリコンと誹られる未来が久森くんでなくても見えたので、黙っておくことにした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ちょっとは落ち着こうという事で全員に飲み物が支給された。コーヒーと紅茶が多い中、一人だけココアを支給されているなまえは年齢がバレた今も子ども扱いをされている。
「なまえちゃん、伊勢崎のお家の人に連絡がついたよ。車で迎えに来てくれるって」
「寿史くん、ありがとう」
「お家の人に言わずに来たんだってね。駄目だよ、心配かけちゃうでしょう」
「ごめんなさい、でも、敬ちゃんに会いたくて……」
こういう時、なまえは強い。泣き虫だからすぐ瞳が潤むし、見た目が幼いから怒っているほうに罪悪感を与える。そのせいで正義はなまえを叱れない。光希に年上を叱れというのは無理がある。一孝では叱り方がきつくてなまえが泣いてしまう。俺が構うとなまえが喜ぶので結果として寿史が#name1#の教育係になっているのだった。二人も子育てをしていて大変多忙な寿史なのであった。
「分かったらいいよ。なまえちゃんが敬さん好きなのは知ってるし、寂しかったんだよね」
「うん……あとね、寿史くん」
「なに?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんならともかく、私がいなくなっても誰も心配しないよ?」
ぞっ、と。愛らしいなまえの中に潜む闇に触れて、寿史が固まる。星乃の家は複雑だ。星乃が持つ巨大な権力に比例して守るべきものが多くなって、そうしたらルールが増えて行って、がちがちに縛られていく。御鷹の家にもあるなら当然伊勢崎の家にもあるのだ。いくら親戚と言ったって違う家のことに口を出すのは行き過ぎだ。優しいから、優しすぎるからどう対応しようか悩んで固まってしまった寿史に助け舟を出す。
「なまえは本当に俺が好きだなあ!」
「敬ちゃん!」
なまえを抱き上げて、心臓の音が聞こえるように位置を調整して固定する。だぁいすき、と#name1#は俺にしがみつく。孤独な獣は愛を求めるのだ。人間は一人では生きていけないから本能として愛情を求めるのだ。温もりと、生きているという鼓動の音。寂しさは、夜の隙間からするっと忍び込んでくるから、寂しさで凍えない様に抱きしめてやればいい。そうしておけばなまえは寝る。連日の睡眠不足もあってか今日の入眠は早かった。
「はしゃぎ疲れて寝たの? 七時に……?」
困惑する声が聞こえた。見た目通り中身も子供だと思われたのだろう。
「なまえは子供なんだよなあ」
と俺が言うと、「お前が言うな」と誰かが言った。