存在を証明する





 呟いた言葉は朝の冷たい空気に溶けて消えた。なれない光が目を刺激する。何度か瞬きをして、鏡の中の己に手を伸ばすと、それはしっかりと冷ややかな鏡の温度を捉えた。
「あ……」
 口を動かすと、動く口が見える。瞬きをすると、視界が一度暗くなりまた視界が光を写した。己の姿は確かにそこにある。見えている。
 これまでの疑念の闇は晴れ、目の前に映るのは確かな光。己はこんな姿をしていたのか、久しぶりに眺めるとだいぶ老けたようにも思える。己の姿などはるか昔にとうに忘れたが。鏡を眺めながら顔を触る。己の輪郭をしっかり理解する。在る。有る。目の前に。確かに存在する。目の前の闇は晴れ、光がもたらされている。
 なんて嬉しい日だろう。いつも訪ねてくれる友人に、ともに舞台を作った住民に、街で顔を合わせているはずの知人たちに、会いに行こう。そしてしっかりと顔を目に焼き付けて、会話をしよう。面倒を見てくれたお礼を。素晴らしい舞台を見ることができなかった謝罪を。そしていつも通りの、挨拶を。
 早く準備をしなくては、と洗面台を抜けて部屋を眺める。
 カーテンは締め切っており、家具はほとんど鉄パイプの質素なものだった。紙がそこら中に散らばっていて、文字が滲んでいたり破けていたり、ぐしゃぐしゃになったりしている。電気は来客時以外ほとんどつけることがなかったが、ぱちっと音を立ててつけるとその光は薄暗い部屋を明るくした。カーテンに手を伸ばして、漏れる光を手繰り寄せると、さらに部屋の中は陽の光に包まれる。
 驚くほどはっきりと部屋の中がわかった。ここにきてから、適当に人の手を借りて借りたこのアパートの部屋が、こんな景色だったとは知らなかった。
 ラックにかかった服たちはほとんどが黒く、暗い影を落としていた。異なるデザインの服を着るときは大抵、人の目を通してから着ていたが、何着も似たようなドレスとコートがかかっている。顔につけるヴェールはいくつかがそのすぐ横の机においてあった。
 そっとヴェールを手に取る。透けているもの、透けていないもの。黒いもの、白いもの。見えもしないのによくもまぁこんなに種類を集めたものだ。
 どれも全て、……はて、なんのためだったか。

 やがてその服の意味を思い出す。黒く、闇に解けるようなその服
 昨日。親しくしていた住民の葬式があった。最期の公演を控えていた幼い少女が行方不明になったと噂で聞いた。高台から落下死している、見るも無残な遺体が火葬された。見知った少年は自宅で自殺し、ある男は自ら食されることを望んだ。
 無論、すべて伝聞だ。その噂のたねになった住民たちとは会っていないが、街の人々全員が嘘をついている可能性だって………………。そんなもの、ありえないとはわかっているけれども。
 一夜にして、死がこの街に蔓延し始めた。恐ろしくて仕方がない。見たくない。見たくない。見たくない。見届けたく、ない。

 ……あ。

「見、える」
 理解したと同時に冷や汗が。背筋が凍る。恐怖で体が震える。指先の感覚が失われる。まだ生きている友の死を、見届けなくてはならない。
 神がいるのならば、きっとそれはどこまでも残酷なものだ。
 見えてしまう。これまで、どれも信じなければ嘘だったものが。はっきりとこの目に映る。遺影の中で微笑む姿も、引き上げられる遺体も、そして人体が焼けていく様も。目をそらしていた、悲しげな表情、恐れを感じている表情、強がる表情。どれも、全て、享受しなくてはならない。
 膝から崩れ落ちた。体が震えて足に力が入らなかった。部屋から出たくない。けれどきっと、ここにいても自分はそのまま死ぬだけだ。死にたくない。生きていたい。生きるには、生きるには……。
 コンコン、と控えめな戸の鳴る音がする。次いで、よく知った女性の声。
「アンブラさん、こんにちは。あの、eggです」
「…………空いている、入れ」
 一瞬迷ったような間が空いて戸が空いた。光の行き届かない玄関に暖かさが差し込む。顔を出した彼女は知らない人そのものだった。
「アンブラさん……!? どうかしたんですか? 怪我とか……!」
「いいや、大丈夫だ、……egg」
「? はい……アンブラ、さん?」
 知らない人から、知っている人の声がする。その優しさは紛れもなく彼女のものだし、声も香りも、紛れもなく彼女だ。へたり込んでいる己に視線を合わせようとしてくれる彼女の顔を、ゆっくりと見た。
「……egg」
「アンブラさん、もしかして、目が……」
「……eggか……?」
 恐れる必要がどこにあったのだろう。ほんの少し驚きの混じった表情はやがて優しげな笑みに変わる。困惑は消えなかったものの、ああ、温もりがそこにあった。
「うん、わたし、egg……。みえてるの……?」
「……ああ。……egg」
 そっと手を伸ばす。恐る恐る触れた彼女の頰は紛れもなく人間のそれだった。彼女がこれまで生きてきた証が確かにそこにあった。目で見たものもに触れられること。自身が触れているものが、紛れもなく目の前に存在していると理解できること。
「存在、しているな……本当に」
 なんとも呆けた言葉が口から漏れた。何を当たり前なことを言っているのかと少し恥ずかしくなったが、彼女は自身の手を重ねてすり寄った。
「そうなの、存在してるのよ。んふふ」
 その笑い方は、紛れもなくeggだった。
「はは、そうだな。egg。エッグ」
「ええ、アンブラさん」
「……だいぶ可愛らしい顔をしているな」
「んふふ、照れるわ」