眠り薬




「目、大丈夫かしら」
「ああ。少し薬屋に寄っていく。ここまででいい、egg。助かった」
「……ええ、アンブラさん」
 街の景色はまるで新しい世界だった。声、音、香り、肌触り。全て知っているものなのに、まるで知らないもののように映る。初めて見る住民の顔は、よく知ったものであるようだった。
 外出すると言った己についてきてくれたeggは、少し寂しそうに笑った。今生の別れのような、一抹の寂しさを、不思議と見出してしまった。
「あの、アンブラさん」
「ん?」
「明日も空いていたりしないかしら、もっと、お話ししたいの」
 彼女はそう、控えめに申し出た。世界の在り方が急に変化した今、彼女のその申し出はどうしようもなく心強い。死が、やがてこの街をとり囲もうとしているこの瞬間、きっと彼女も不安なのだろう。
「無論、いつでも構わぬ。明日の午後にお前の家へ行こう」
「よかった。ありがとう。紅茶やお菓子を用意して待ってるわ!」
「ああ。そうだな、ゆっくり公演の時の話でも聞きたい。見えなかったから。……楽しみにしている」
 そうして彼女は、じゃあまた明日、と手を振って去っていった。遠ざかる彼女の後ろ姿をはっきり目に焼き付けて、彼女が見えなくなるまでそこにいた。やがて残ったのは、街の少し不穏なざわめきと空気だけだった。



 ドアをギィ、と開けると、その女性は作業の手を止めてこちらを見た。
「いらっしゃい、アンブラさん」
「……ファロ」
 その女性はだいぶ背が高かった。まるで、母のような穏やかな微笑みをたたえながらこちらを見ている。呆然としている自分を見て少し不思議そうに首を傾げた。
「何か、あったのかい。タイプライターは持っていないみたいだね」
 彼女は、きっと己が困っていると思ったのだろう。盲人であることは知られているし、呆然と玄関先で突っ立っているのだから。寄ってきた彼女は、あるはずのそれがないことにやがて気づく。
「おや、杖は? 誰かに送ってきてもらったのかな」
「ファロ」
「なんだい」
「頼みがあってきた」
 はっきりと、彼女の目を見て口を開く。それだけで違和感は伝わったのか、ファロは少し驚いたような顔をした。なんの支えもなく彼女の方へ歩む己の姿は、彼女の瞳にどう映るだろう。
「……君、」
 何かを言いかけた彼女を遮って。ああきっと、自分は今安らかな表情をしているのだと思う。
「よく眠れる薬が欲しい。いつまでも目が覚めないような」

「何、念のためさ」
 世界を穏やかなまま終わらせるための。