ひだまり




「たとえばわたしがアンブラさんに触れ、たとえばアンブラさんがその手を温かいと思ったとき」
 時計のゆるやかに動く音、ほのかに香る紅茶の香り。
「そしてわたしがアンブラさんを見て、良い色の口紅だなぁと思ったそのとき」
 優しく触れてくる彼女の指先を手袋越しに感じる。
「溢れた紅茶の一滴のような、明滅するひかりのきれぎれのような」
 ちか、と閉じた瞳の奥に光が宿ったような気がした。

「その一瞬一瞬にわたしが存在するのだと思えるのです」


 難しい、と述べた割には饒舌に、彼女は己の存在を証明して見せた。その照明は一つ一つ、正しくそこにあるべきであるように美しい言葉が詰まっていた。
「……驚いた。詩的だな、お前も話を書いてみてはどうだ」
「そんな、わたしでは及びませんよ」
「謙遜するな。お前の表現、いつか脚本に借りよう」
 ふふ、と笑う声がする。カチャ、という音で彼女のカップがソーサーに置かれたことを知った。
 休憩しませんか、と彼女……ヴァローナが訪ねてくることは珍しいことではない。相当なもの好きなのか、自分のことを気にかけてくれているらしい。門扉は緩い方ではないが、彼女の声が扉の向こう側から聞こえてくるとほんの少し期待を孕んでしまう。
「……お前だけではなく」
 言葉を扱う者にとって、言葉を発することは命を削ることのようである。自身の感情や思考を言葉にして相手に伝えることは相手になんらかの反応を求めることになって、そう、少し、怖い。
 一口、淹れてもらった紅茶を飲んだ。温もりが食道を通り胃に広がるのがわかる。ほんのりとした甘さが口の中に広がり、喉が満たされていく。
「お前だけではなく、様々な住民に問いかけた。先ほどの問いだ」
「ええ」
「それぞれ異なる話を聞かせてくれた。なかなかに面白い」
 視力という一つの感覚を失っている自分は、相手の反応をすぐ理解することはできない。聴覚、嗅覚、触角で相手を理解することは可能だが、必ず時間がかかるものだ。表情というものを読めないのだから。それゆえきっと己は己のことを話すのが苦手なのだろう。相手に不快な表情をされていてもわからないから。
「ヴァローナ」
「はい、アンブラさん」
 穏やかで鈴の鳴るような声で己の名前を呼ばれる。それはひどく優しく、慈愛に満ちていた。
「目を閉じてみろ」
「目、ですか。……閉じました」
「何が見える」
「……何も。いえ、そうですね、暗闇が見えます」
「当然だな」
「えっと……」
「すまない、目を開けて構わぬ」
 きっと困惑した表情をしているのだろう。同じ人間と長く時を過ごせば、見えなくともほんの少し相手の反応がわかるようになる。それは五感のどれかで感じるものではなく、なんというか、その場の空気のようなものだ。
「自分のことを話すのは得意ではない。だがお前に話すと頭の中が、こう、整理されていく」
 息を吸い込んだ。意を決して声を出す。
「我がかの命題をもとに問いかけたのは、己の存在を確かめたいからだ」
 ヴァローナの返答を待たず、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま発した。
「目を閉じれば暗闇が広がっている。大抵、人間は目を開けると光が舞い戻り、世界を映す。己を確かめる最も簡単な方法はなんだか知っているか? 鏡を見ることだ。無論、全てに対して懐疑的になればそれもまた己の存在証明にはならないだろうが、それすらも不可能な人間にとってはどう存在を証明すれば良い」
 例えば街灯のない夜道。どこにも目指すべきものが見当たらないが、ただひたすら歩いている。暗闇の中を、こっちが正しい方向だと信じて歩いている。ふと振り返ると、そこには先ほどまで見ていたものと何も変わらない闇が広がっている。自分が歩いてきたはずの道が、目指している道を全く同じ景色をしているのだ。不安は広がり、そして徐々にどちらに進むべきでどちらからきたのかわからなくなる。どこにも光はない。それでも進むしかない。
「鏡の中に映る人の形をしたものは、少なくとも鏡の中に存在している。我は鏡を前にしても何も映らぬ。……何日も部屋に篭り、作品を書いていると自分の存在がわからなくなっていく。どの方向を見ても闇。瞼を開いても閉じても見えぬことは変わらぬのだ」
 闇の中では、自分の存在を証明するものはどこにも見当たらない。
「己の輪郭が徐々に闇に溶けていくようだ」
 ヴァローナは何を言おうか迷っているようだった。困らせてしまったと少し反省するが、それでも自分の中の曖昧でわだかまっていた感情が体の中から消えていくような感覚になった。
「手を」
「ええ、アンブラさん」
 右手の手袋を外して彼女に差し出すと、彼女は柔らかく温かい両手でそれを包み込んだ。その瞬間自身の中に響く鼓動の音を聞き逃さなかった。ああ、よかった、生きていた。自分はここにいた。
「温かいな」
「ええ」
「お前が我の名を呼ぶとき。お前が我の手に触れるとき。お前が我のために甘いものを届け、紅茶を入れてくれるとき。お前の瞳に我が映っているとき。我はここにいると感じる」
 酷く狡いのではないかという疑念も消えない。己の存在が他者に依存することはひどく危うく、そしてきっと相手に迷惑をかける。わかっていても言葉にする勇気はなかった。
「アンブラさん」
 ヴァローナは知ってか知らずか、酷く優しい声音をしていた。
「ああ、ヴァローナ。お前が隣人でいてくれることに感謝する」
 穏やかな夕暮れだった。優しい時間が流れていた。心の臓が温もりに包まれるようだった。

「お前は眩しい光のようだな」

01/31 ヴァローナと。