ありふれないノンフィクション
ああなんてコトだ。咄嗟の出来事に見つめ合って、お互い数秒で理解した。
どちらが先に動き出したかなんて分からない。ただ、私は逃げるために全身全霊を掛けたし、彼はいつもの涼しげなポーカーフェイスを崩してまで、私を追い掛けた。
無駄に細く尖ったヒールが邪魔だ。身をきっちりと締め付けるスカートが邪魔だ。
洗練されたスタイルのこのスーツは、警察庁に忍び込むにはとてもパーフェクトな変装だった。ベルモット監修のもと、完璧に、違和感なく、公安局所属の超若手エリート風女性に仕上がっていたはず。
なのに。なのに。なんであの男がここに、なんて。思いたくはないけど、まあ、そういうコトだった。ってだけの話だ。
「風見……! 下を塞げ!」
携帯に向かってそう怒鳴りながら追ってくる彼に、私は内心で溜息を吐いた。
廊下を走り抜けながらチラリと窓の下を見下ろすと、覆面パトカーと見られる車の数台分のライトが闇に浮かんで、動き始める。
どうやら彼は、意地でも私を逃がさないつもりらしい。
「……あーあ。確定、か」
至極残念、極まりない。
組織でよくつるんでいた彼が、時には同じ任務で組んでいた彼が、実は公安側の人間でノックでした……なんて。
ほんのちょっとした事件の情報を盗むためだけに潜入した場所で、思わぬ大魚が釣れてしまった。
この魚、リリースしたいけど駄目かな。駄目だよな。そんな事をしたら私がジンに消されちゃう。
もう一度、大きく溜息。今度は内心で、とかでもなく本当に口から吐いて出た。
正面口はきっともう人が配置されている、使えない。徐々に騒がしくなる建物内の気配に、そう悟った。
さて、どうするか。頭の中で脱出口を思案する。
駆け下りていた階段を折り返した時、頭上から大きな人影が飛び降りてきた。
咄嗟に両腕を交差さてガードすると、間髪入れずに強い衝撃が。
「……うっ」
踏ん張りきれずに、2、3歩と蹌踉めく。その隙を、彼が見逃すはずもなかった。
両肩を捕まれ、壁に勢い良く押し付けられる。その際に、少し頭も打った。
「……こんな可愛い女性に、フツー、蹴りを入れる?」
痛みに眉を顰めてみせながら笑うと、彼も口角を上げた。
「あなたが可愛いだけの女性だったら、良かったんですがね。こんな場所で、何をしているんです?」
「……その言葉、そっくりあなたに返すわ、バーボン」
彼と身体を重ねたことは、何度もあった。
きっかけは、バーボンを探れとの上からの指示だった。彼が本当に組織に忠誠を誓っているか、本心を探れ、と。
「いい雰囲気のバーがあるんだけど」とバーボンを誘って、お酒を飲んで、酔ったその場の勢いで……っていう成りを装って。
我ながら自然で、上手い事の運びだったと思う。
ベッドの上でのピロートークなんか、ただただ甘ったるいもので、ついでに言えば私も途中からは指示なんか忘れてしまっていたし、あの時のことを思い出すと今でも口元が緩んでしまう。
「愛していたのに」
彼の両手首を掴み返して、空いた腹部へと膝を蹴り上げる。
躊躇いもなく本気で狙いにいったけど、すんでのところで躱されてしまった。
「それもジンの命令か?」
「……まあスタートはそうだったとしても、それ以降は私の意志……って言っても、今のあなたには届かないわよね」
手加減のない蹴りや、ストレート、左アッパーが飛んでくる。
私もそれを往なし、躱しながら応戦する。下手にこの攻撃を受けてしまえば、ワンパンKO、即刻ゲームオーバーだ。
男女の力加減の差は、どうしたとしても埋められない。
「安室透って名前も、もしかして偽名?」
「だったらどうしたっていうんです? そんなこと、どうせお互い様でー……」
そう言いかけたバーボンの隙を掻い潜り、懐に入る。そのまま思いっきり正拳突きを喰らわせた。
「失礼しちゃうじゃない。あなたに伝えた私の名前は本名よ、本名。正真正銘、名字名前。嘘をついていたのは、あなただけ」
そして柄にもない程、私は好きだったのだ。甘く酔わせてくれる、チョコレートとワインのようなその嘘が。
「見逃してくれる……ワケないわよね。なんかあなたの目、すっごい敵意むき出しのようだし」
「僕の素性を知られてしまった以上、大人しく組織に帰せるはずもないでしょう。文字通り、死に物狂いというやつでして。必死なんですよ、こちらも」
やはり軽かったか。私の正拳突きを無防備に受けたにも関わらず、余裕な笑みで立ち上がる彼に舌打ちする。
「……ところでさっき一緒にいた女は何? やけに親しげだったみたいだけど?」
「心配せずとも、ただの同僚ですよ。名前さんこそ。さっき隣に居た男は誰です?」
「心配せずとも、ただ利用しようと思って近づいただけの男よ。けど、なかなかガードが固くって。ねえバーボン、国家公務員って、皆こうなの?」
「……お得意のハニートラップ、ってやつですか」
「…………。冗談よ。あなた以外とはシてない」
「なら良かった」
「詭弁ね」
とんだ茶番だ。
いつの間にか割れた窓ガラス。唸り声を上げて、風が舞い込んでくる。
顔に張り付いてくる髪を跳ね除けようとして気付いた。額から、血が出ている。
目の前のバーボンもしかり。こんな時なのに、切れた口元を拭う姿が、やけに色っぽいと思った。
……ああもう、潜入捜査なんて任務、受けなければ良かったと今更ながらに後悔する。その日は見たいドラマがあるんです、なんて言って、断ればよかった。
もちろん組織からの命令を断れば命の危険すらあるけれど、それにしたって今の状況よりかは幾分マシ。
知りたくもなかった現実を目の当たりにするよりはずっといい。加えて八方塞がりなこの状況。ほんのちょっぴり、泣きそうだ。
なんで、なんで。どうしてあなたがここに、なんて。思いたくはないけど、まあ、そういうコトだった……ってだけの話なのに。