柔らかな朝に連れてって


きちんと舗装されたコンクリートを歩いているはずなのに、もっとふにゃふにゃとした雲の上を歩いているような感覚が、足裏を伝う。
あはは、何だよ雲って。おとぎ話か、メルヘンか。
いつもなら、妖精のよの字もないような可愛げのない私の頭がフェアリー色に染まってる。

隣で肩を貸してくれている男は呆れたように呟いた。


「名前さん、飲み過ぎです」

「違う、これは違うの安室さん。本当は、私、飲み放題全ての時間を蒸留酒と焼酎のフルで飲み続けられるポテンシャルを持ってるんだけど。今日はなんだか調子悪くて。一杯ぽっちのビールで酔っちゃった」

「足元も覚束ないほどですか」

「そういう日も、あるよね」



同期の美和ちゃんと、交通課の由美ちゃんと久々に飲もうという話になって、仕事明けに三人でわーっと適当な店に入った所までは、良かった。
けれど身体は、想像以上に疲れが溜まっていたのだろうか。たった一杯のビールを呷っただけでこの状態だ。
そりゃあまあ、ここの所、事件の連続で残業続きだったわけですし?
なんて言い訳も自分自身には通じるも、この男には一切通用しない。
安室透さん。最近、やらた事件絡みで顔を合わせることが多い相手。探偵さん。しいては、かの有名な毛利探偵の助手。
あまりに顔を合わせることが増えたため、何かの成り行きで、ほんの些細な切っ掛けで連絡先を交換した。
けど、まさか安室さんも、こんな酔っぱらいの相手をさせられるだなんて思ってもいなかったんだろうな。
というか普通、知り合い程度の男に酔った勢いで電話なんてしないよな。美和ちゃんも由美ちゃんもなんでその場で止めてくれなかったんだ。安室さんが可哀想だろ。



「なんか、すみません。巻き込んじゃって。あまつさえ、送ってもらうことに、なっちゃって」

「……まあ、……そうですね。驚きはしましたが、構いませんよ。そのかわり、依頼料は高くつきますので覚悟しておいて下さいね」

「ふふふ、安室さん、探偵みたいですね」

「みたい、ではなく、僕は列記とした探偵です」

「知ってます。先週の事件だって、あの眼鏡の少年とあっという間に解決しちゃったじゃないですか」



夜風に触れながらコインパーキングまで辿り着くと、彼の愛車が外灯の下で青白く光っていた。
「どうぞ」と助手席側のドアを開けられて、私は「すみません」ともう一度頭を下げながら乗り込んだ。
時間帯のせいか、街中の大通りでさえ車は少ない。
スイスイと自宅方面へと近づいていく僅かな間を、私達はお互い無言のまま過ごした。
暗い車内の右肩側から感じる、微熱。
窓の外を眺めているふりをしながら、こっそりと片目で隣を伺えば、ハンドルを握りしっかりと前を見据えて運転している安室さんが居た。



見慣れた5階建のマンションが目に入る。
築年数は新しいはずなのに、所々、壁には雨の染みこ跡などが残っているせいでなんだか陰気臭い。
昼間に見れば、またそうは感じないのかもしれないけれど。引っ越したいなあ、なんて思いながら、シートベルトを外す。
ドアを開けたら、もう既に外には安室さんが居て、こちらに手を差し出していた。
その手を取りながら、私は再び地面に足をつける。
フワフワとしていた感覚は、相も変わらず続いていた。


「立てますか」

「安室さん、王子様みたいですね」

「買い被り過ぎですよ。僕はただの探偵です」

「知ってます」


そんなの、とっくに知ってる。だって先週の事件だって、……あれ、これ、私さっき言った?



階段を登る。マンションにエレベーターはあったけれど、私の部屋は2階なのでさして必要が無い。乗ったことも、ここに越してきた日の一度しかなかった。
ヒールを鳴らしながらゆっくりと階段を踏みしめている間も、私の腰にはさりげなく彼の手があって。
このまま、ここで全てを放棄ししゃがみ込んでしまいたかったけれどなんとか堪えた。
シンデレラのような夢の時間は、自宅扉の前までがゴールだと相場は決まっている。だというに。



「……上がっていきます?」


ひとえにこの場でお礼を言って、はいサヨナラと彼の背中を見送ればいいだけのはずなのに、私の脳内フェアリーは大暴走していた。
シラフなら、ここですかさず、叩き落とすところなんだろうなあ。だけど今は、腕を持ち上げることも怠いなあ。
今ここで貴方にしがみついている腕を解くことさえ怠い。全てが怠い。お水飲みたい。



「……名前さん。全部声に出てます」

「え、マジで? どこから?」

「腕を持ち上げるのも怠い、くらいから」



鍵穴にキーを差し込んで、ドアノブを回した。開いた隙間から、お互いに身体を密着させたまま、滑り込む。
唇を、どちらからともなく合わせたのは、扉が閉まるよりもはたして前だったか、後だったか。


「ずるいですよ、安室さん」

「名前さんがそれを言うんですか?」


すかさず割り入ってくる舌を迎え入れ、目の前の首元に腕を回す。華奢な体つきのようで、所々に雄々しさを感じる節々が私をひどく興奮させた。





日頃からもう少し部屋を片付けておけば良かったとか、せめて洗濯が終わった服はクローゼットに突っ込んでおくんだったとか、そんな後悔をチラリと胸に抱きはしたが、電気を点けなければさして現状問題はないだろうと判断した。
くちづけを交わす度に、溶けていきそうな脳髄。それはまるでふわふわと綿飴のように、……って。
あはは、何だよ綿飴って。でろでろに染まったスイーツ脳か。



「……やはり相当、酔ってますよね。明日の朝、起きたらきっと後悔しますよ」


そう言いながらもシャツのボタンを上からそっと外していく安室さんに、私は「うんうん、」と頷いた。



「確かに、朝になれば誤魔化せないですもんね。この部屋の惨状が」

「……何の話ですか?」

「部屋が散らかってるって話じゃないんですか?」


ベッドの上から安室さんの髪に手を伸ばして、柔らかな金髪をクルクルと指先に絡めていると、安室さんは堪え切れずといったように吹き出した。



「散らかってるんですか?」

「…………まあ。ちょっとは。最近、仕事が立て込んでて」



思えばこの一年、ずっと働き通しだ。公務員だからといえば、それまでなのかもしれないが。
なのに同じような美和ちゃんは、高木くんっていう彼氏がいるし、由美ちゃんだって近頃じゃあとある男性から結婚を申し込まれてるって話だ。
そんな彼女達を祝福しながら、私は内心、焦っていたのかもしれない。


背中を倒す度に、ゆっくりと身体に伸し掛かってくる重み。
そっと脚を動かすと、彼の硬くなったものが膝に当たった。
それだけで、ほんの僅かに残っていた理性は瓦解する。



「後悔させて下さい」



首筋を撫でるように触れながら、自ら彼を引き寄せる。
そんな私の耳元に軽く唇を落として、安室さんは「仕方のない人だ」と囁いた。
暗闇に零れる吐息と、確かに繋がり合う掌。
どうかこのまま、許されるのであれば。
次に目を開けた時には、一番に貴方の顔が見たいと、願う。

ALICE+