私と上司にフラグなんて立たない


たぶん、居心地は悪くない。身体を深く包み込む巨大なクッション。
照明が適度に落とされたムーディーな空間で、肩を並べるは職場の上司。そして巨大なテレビ画面に流れるは、魔法少女コトハ☆マギカの劇場版アニメ。
改めて思い返せば奇妙な光景だが、居心地は悪くない。むしろ良い。
欲しいと思った絶妙のタイミングで手頃なお酒やオツマミのお菓子が振る舞われるし、この人をダメにする系のソファは仕事上がりの疲れた身を委ねるには最適だ。
そんな空間でぼーっとアニメを見ながらポリポリとお菓子を食べ、晩酌をし、眠くなったら寝落ちする。……ダメだ。この環境はダメだ。最高を通り越して怠惰も過ぎる。でもやめられない。
大人になってからはてんで目にすることも無くなっていたアニメだって、観始めると、ついハマってしまうぐらいには面白いものだと気づいてしまった。(さすがにこの上司みたいにキャラクターに向かって「萌え」だとかは言わないけれど)
主人公コトハがアカリちゃん(主人公の味方だったが今は何らかの理由で裏切り、敵方についている)と戦っている場面で、フェレス卿が顎に手を当てながら「何度観てもこのシーンは絶賛ものです」と真面目な顔そのもので述べている。
私はサワークリーム味のポテチをポリポリと食べながら「そうですねー」と相づちを打った。「やっぱ劇場版だし、作画も相当力入ってますよね」そう答えるとフェレス卿はパチリと目を瞬いた後、ふっと力を抜いたように目尻を下げて口角を上げた。
……何ですかその表情。


エンドロールが流れ、エンディングの余韻を残してスクリーンは暗転する。今回は寝落ちしなかった。
「いやはや続きが気になりますね!」と上機嫌でブルーレイのプレイヤーから円盤を取り出し片付けているフェレス卿の後頭部を、私は何となく見つめていた。
まだ続きがあるのか。いやそれよりフェレス卿の頭に生えたアレが、今更ながらにすごく気になる。
普段はシルクハットの下に隠されたアレが、プライベートタイムの今、目下ユラユラと私のツッコミを待つように揺れている気がする。
ほんと今更だ。深夜テンションなのだろうか。
……これが仕事中であれば、職場であれば。正十字騎士團の名誉騎士という肩書に恐れ多さもありこんな事はまず言えないが、今、私の目の前に居るのはただのオタクだ。プラスチック製の少女型フィギュアやキャラクター物のポスターに囲まれてニコニコ(ニヤニヤ?)している系の、もう引き返せないレベルにまで達しているガチオタクだ。
加えて私は深夜テンション。遠慮のえの字が少しくらい欠けてしまっても、まあ仕方がないよね。そう結論付けた私はズバリ斬り込むことにした。「そういえばフェレス卿のその触覚、何なんですか」と。



「………な、はぁ!? 触角……!? もしかしなくても私のコレのことを言ってます!?」

………存外ショックを受けたらしい。振り向いたフェレス卿の目元には嘘か本気か、涙が浮かんでいた。


「触角だなんて失礼な! 人をゴキブリみたいに……」

「……いやそんなつもりは。ただ、他にどう表現すればいいか分からなくて」

「…………っ、確かに昔はそう形容されていたりもしましたが……! アニメキャラクターに多用されるようになった近年ではコレをアホ毛というのです!! コトハのキャラデザにもあるでしょう!? クルンとした、チャーミングなのが!」


まるで自分の大きく跳ねた毛束がチャーミングだとでもいうようにフェレス卿が頭上を指差している。私は思わず遠い目をした。
……チャーミング。チャーミング、なのかあ。……なのかなあ。



「……でもそういうのは女の子のキャラクターにあるから可愛いのであって、仮にも変な浴衣を着た髭面の成人男性の姿でやるものでは、」

「シャラぁぁップ……!! その先は禁則事項ですよ名前さん! 泣きます! 私そろそろ泣きますよ!? いいんですか!?」


ズズイッと距離を詰めたフェレス卿が、両肩を掴んでくる。そのまま容赦ない力で揺さぶられて、私の頭はグワングワン揺れた。
つかもう泣いてるじゃん。

あまりにガクガクと揺さぶられた為か、いい感じに収まっていたクッションの重心がズレて、身体が後ろに倒れ込む。
慌てて腹筋に力を込めるも時すでに遅し。崩れていく体制とともに何故か重みが加わる。
「んん!?」と脳が事態を把握するよりも先に、唇に何かがぶつかって来た。ついでガチりとぶつかり合うような音。痛みが主に前歯を走る。


「…………。」

「……………………。」


身体に伸し掛かっていた重みが消える。未だに思考回路が働かないし、前歯が痛い。思わず口許に手をやる。いや、確かに痛かったんだけど、その直前にあった、柔らかさ。
暫くすると、珍しく「あー……」と気まずそうに身を引きながら頬を掻くフェレス卿に焦点があった。



「…………これぞまさにギャルゲー的展開というやつですな☆」


ええ……、ぎゃる、ゲー? ……って何? また新しいアニメのタイトル?

「ご馳走様です☆」と自身の唇にピッと指を立ててキメ顔でウィンクをした我らが上司の顔を、ただただ呆けたように見上げていると、「あっ、もしかしてフラグ立ちました?」なんて飄々、宣うものだから。私はスッと真顔になって掌をかざし、グーパーの形にニギニギさせた。



「……とりあえずその目障りなアホ毛とやらを毟り取りますけど、何か懺悔とかあります?」


「すでに毟り取る前提なんですか……!?」そう悲鳴を上げて怯えたように頭をガードしたフェレス卿を前に、私はスッキリしない胸中のまま、粛々と思う。いくら事故とは言え、だ。一人の女性の唇を、あんなアホみたいな展開で情緒の欠片もなく奪ったのである。よって上司の毛束を根元から引っこ抜くくらい許されるはずだ。天誅。

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